夢のあとさき

 泥を乾かして体が泥のようだ、とは笑えない冗談だとニトロは思う。どさりと仰向けになる。空がまわっている気がした。眩暈も起こしているらしい。
 ――鍛錬不足かなぁ。
 嘆きつつも、違うだろうとは感じている。ニトロはあのカレンの弟子。彼女に己が名を許された後継者。技術に不足があるわけもない。
 難しいだけだった。アイフェイオンの一門ともなれば流星雨を召喚することすら可能だ。そちらの方がずっと疲労は軽い。なぜか。このあたりが歴史、といったところ。いままでに一門の魔術師たちが磨きに磨いてきた技術の結晶だった、大きな呪文とは。転じてニトロが行った限定的な沼地の乾燥は、即興術式にもほどがある代物。効率は悪いし構築も遊びがあり過ぎる。事故を起こさないためにはそうする必要があるのだけれど、おかげでニトロほどの魔術師でも酷い疲労を感じていた。
 伸ばした四肢が膨張して、蕩けていくような気配。指先は冷たく、けれど全体的な感覚はない。自分の手足がどこにあるか見失う、というのは気分のいいものではなかった。ぼんやりと頭には霞がかったよう。まるで世界を隔てる幕がそこにあるとでも言うように。それでいて心臓だけは激しく打っている。そのくせ、その知覚はいやに遠い。
 乾いた硬い泥の上、寝転がったまま、それでもニトロは話していた。シアンに疲労を気づかせたくない。せっかく楽しんでいる子供に気を使わせるのは大人のすることではないだろう。そのニトロの腕をちょん、と狼が鼻面で押した。なんだ、と頭を上げればそこにもぐりこむようキアランである狼が横たわる。
「うわ、最高だな。もふもふだぜ」
 狼の体毛は硬い。それでいて密な毛が無性に温かくて心地よい。頬をすり寄せればシアンが笑った。
「父さま、素敵だよね?」
「最高だな、親父さん。――助かるぜ、ありがとさんよ」
「父さまの枕、あったかそうだもの」
 くすくすとシアンが笑う。狼は照れくさいのだろう、伸ばした前脚の上に顎を置いては知らん顔。それを二人で笑った。
 ニトロは本当にありがたく思っている。わざわざ話しかけもせず、態度で示してくれた気持ちが嬉しい。頭の下、柔らかい体があるのも気持ちがいい。見上げれば星空。
 ――降るような星空、とはこういうことでしょうか。綺麗ですね。
 ちらりと目を上げたキアランの声。ニトロはにやりとしてしまう。同時に不思議でもある。話しかけていいときと悪いとき、いとも容易くキアランには掴まれたな、と。
「シアン、上見てみな。親父さんがお星さまが綺麗だってよ」
「あ、本当だ! とっても綺麗。きらきらだ」
「お月さまが出てないともっと綺麗だけどなぁ」
「どうして? お月さまも綺麗なのに」
「お月さまは明るいだろ? お星さまの小さな光が消えちまうんだよ」
 ふうん、と夜空を見上げるシアンの眼差し。横顔だけは青年のもの。けれどこちらを向いて微笑んだ笑みは子供の純真。
「ねぇ、ニトロ。星座ってなに? ご本で読んだけど、知らない」
「あぁ……お星さまをな、線で繋ぐんだよ」
「どうやって? 線、ないよ」
「まぁ、ねぇわなぁ」
 苦笑してニトロはどうしたものか、と考えてしまう。幼い子供は学院にごろごろといるのだけれど、ニトロは学院の運営にかかわっていない。おかげで小さな子供が何を望むのかがいま一歩わからない。自分が幼かった頃のことはさすがに遠すぎて覚えてもいなかった。
「狼座って、あるんでしょ? どれ?」
 シアンの疑問は間違いなくキアランがいるからだろう。狼、と名のつくものに興味があるらしい。そのあたりは確かに子供の心持ちだな、とはニトロも思う。
「ほら、あそこだ。俺の指の先を見てみな」
 寝転がったままの怠惰な姿勢でニトロは星空を指さす。シアンは覗き込むようにしていたけれど、一度くすりと笑った。そしてニトロと狼を等分に見やり、意を決したようニトロの腹の上に頭を乗せた。まったく重みを感じないシアンの頭、ニトロは気にした素振りも見せず反対の手で金髪を撫でてやる。くすぐったそうな笑い声が聞こえた。
「わかったか?」
「うん、あのちょっと黄色いのでしょ」
「それそれ。それが狼の鼻だ。で、そこからちょっと上がると耳の先があって、その反対側にもう一個耳があって」
「わかんない」
 あっさりとしたものだった。ニトロの頭の下、狼の腹が動く。笑ったらしい。狼は笑うようにできていなくとも、キアランには人間としての意識がある。と言うより、そのような種族なのだろう。耐えきれなかったが、それでも息子の言葉を笑うことはしかねた、といった辺りか。ニトロはとりあえずは気づかなかったふりをしてやった。
「しょうがねぇなぁ」
 言って、呟く。そしてニトロが指さすにしたがって、星々を繋ぐ輝線が現れた。シアンの息を飲む音。キアランまで目を上げて見ていた。
「これが星座な? でもこのまんまだとちょっと狼さんには見えないよな。だからもう少し遊ぼうか」
 にやりと笑い、ニトロは更に細工をする。線で繋いだだけの星座が、ニトロの手によって狼の絵になる。鋭い眼光も、立派な被毛も。頭を上げたシアンがキアランを見やってにこりと笑った。
「父さまみたい。かっこいいね」
 そしてまた空の絵画に見入る。あれは何、これはどんなもの。シアンの問いに従って夜空に絵が増えて行く。ニトロは倦まず描いてやった。いくら疲れていたとしても、この程度はどうと言うこともない魔法だ。
 ――仕込んでくれた師匠にはじめて礼を言いたい気分だぜ。
 そんな殊勝なことを考えた自分に、よほど疲れているのを自覚する。あまりにもらしくなくて笑えそうだった。
 そうこうしているうちに問い疲れ、遊び疲れたのだろう。シアンが黙りがちになり、絵を見つめ続けることが多くなった。そしてシアンは眠る。
 はじめてだった、シアンが眠ったのは。キアランはおそらく知らないだろう。ニトロは毎夜、朝までシアンと話し続けていた。いまこうして眠る彼がいる。父の側で眠る子供を体験してみたかったのかもしれない。
 ――ニトロ。
「うん?」
 ――ありがとう、息子と遊んでくれて。
「どういたしまして。可愛いもんだよな、無邪気でよ」
 キアランはシアンをどう思っているのだろう。考えてみれば呪われてはじめて近々と接することができた父子だ。「シアン」という彼を知らなくとも当然だった。
 ――今更ですが、ニトロ。僕はこんな身の上です。
 そっと静かに聞こえるキアランの声。シアンには聞こえない精神の声。それでも眠る子供を起こしたくはないとの心。ニトロもまたそれを汲んで小声で返答をしていた。
 ――あなたはイーサウに戻る、と言いましたが。僕は街に入るわけにはいかないと思うのです。
「その辺は心配しないでいいぜ」
 ――します。
「断言すんなよ。あんたらの呪いを解くって約束しただろうが?」
 ――それは。ですが。以前のことです。僕が人狼だと知るより前のことでしょう。
「だから? 約束は約束だろうが。俺は約束破りたくねぇんだよ。自分で自分が気持ち悪いだろうが。で、だ。あんたらの呪いを解くのにな、どっか別の場所に匿って、ってのは可能と言えば可能だ」
 ――お手数でしょうが、その方がよいのでは?
「ぶっちゃけ可能なだけでよ。正直、それすると俺の体が持たねぇよ。あんたはいいさ、いい大人なんだしよ、一人でいても寂しいって泣きゃしないだろうが」
 シアンを考えろ、ニトロは言葉を切りつつもそう伝えてくる。夜の中、言葉も通じない狼である父と二人きり。黙ってじっと膝を抱える彼の姿。
「俺はそういうの、想像するのも嫌なんだよ。虐げられたガキが嫌いだって言ってんだろうが。俺にそれをさせるんじゃねぇよ」
 乱暴な言葉の中、ニトロの心を聞いた気がした、キアランは。一人ぽっちのシアン。寂しい思いをさせないように、そう配慮してくれるニトロ。キアランは言葉もなかった。
「そうするとな、どうしても誰かの助けがいる。率直に言えば、俺の身内に手を借りる」
 ――身内、ですか。
「師匠と兄弟子、あと神官に一人、伝手があるからな。そいつと」
 ――ニトロ。
「なんだよ」
 ――何度も言います、僕は人狼です。異種族です。魔物の同類と見做されることも……。
「俺の身内だって言ってんだろうが。感じ方はほぼ俺と一緒だ。あんたを魔物扱いすることはねぇし、逆にあんたらに不利益があったらちゃんと守ってくれるさ」
 心配するな、何度も言ってくれるニトロだった。シアンのために、そう言いつつ自分にも手を差し伸べてくれるニトロに万が一のことがあっては。それすらも大丈夫だと請け合われている。
「身内の手を借りたいってのにはもう一つ、理由がある。シアンみたいなガキをな、増やしたくない」
 ――それは、どういう。
「そのまんま。できりゃセヴィルの島主をなんとかしたい。親子共々どうにかしないとおんなじことだろうが。ちょいと拡大解釈だがな……イーサウ連盟には隷属雇用禁止令ってのがある」
 ――隷属、ですか。
「おう。あんたは島主に雇われて働いてたわけだ、形の上では。シアンはどうかと思うがな。あんたは息子を人質に取られてた形でもある」
 それを隷属、と言うのだとニトロは言った。考えたこともなかったキアランはさすがに驚いて頭を上げる。すぐそこで藍色の目が真剣だった。戯言ではないらしい。
「そのあたりで攻められるかな、と俺は思ってるがな。政治問題は師匠の方が得意だからよ、その手を借りたい」
 ひとえにただ、シアンのような子供を増やしたくないがために。人狼であるキアランという荷物を抱えたとしてもニトロはそうすると断言している。胸が詰まった。
 ――魔術師は、頭がいいものなんですね。法令なんて、考えたこともありませんでしたよ。
「そりゃ馬齢を重ねちゃいるがな、重ねてりゃ知恵の一つや二つあるもんさ」
 ふん、と鼻を鳴らしたニトロ。照れているのかもしれないし、自分の手段が気に入らないのかもしれない。わからないなりに、けれどニトロが心を変えはしないことはキアランにもわかった。
「じゃ、とりあえずイーサウな」
 キアランの決意を悟ったかのよう、ニトロが小さく笑ってそう言った。




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