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念のため、もう一度周囲を見回す。神経質になっているな、との自覚がニトロにはある。が、守るべきものを抱えていては当然だと思いなおした。先ほどの無様を繰り返したくはない。 「よし。ほれ、頭にでも止まっときな」 足元で狼が自分を見上げている姿。その頭に鳩を止まらせてニトロは微笑む。守るべき、そして守られた相手。再び危険にさらす気にはなれなかった。 「あ、そうだ。あんたが人狼だっての、一応は隠してるんだよな?」 ――な……一応もなにも……完全に隠していることですが。 「だよな。だったら俺も秘密を一つ。これ、絶対に喋るなよ? バレたら俺は非難囂々だ。俺が俺じゃなかったら正直、追放もんだし」 ――あなたがあなたでなかったら? 「俺なら『あの馬鹿がまたやらかしやがった』で済むかなぁ、済むといいなぁ、くらい?」 キアランは深刻な問題なのだ、と納得する。秘密を知った代わりに秘密をくれようとするニトロ。微笑ましい、と言ってしまっては申し訳ない。が、どこか嬉しくもなる。 そんなキアランにうなずき、ニトロの足は円を描く。大きく、自分たちを囲うように。すぐさまできあがった溝には水があふれた。狼の足が沈んでいるような沼地だった。 キアランは狼のまま、ニトロを見上げている。不意に真摯になるニトロの目。藍色の深い眼差しが沼地に落ちる。軽く片腕を広げ、反対の手は胸元に。そのまま何事かを呟いている姿。 ふっと背筋を風が撫でたような奇妙な感覚。結界の発動だ、と前にニトロに教えられた。それだけならばすでに経験していること。だがニトロは「役立たずになる」と言った。これから何が起きるのか、とキアランは不安そうに彼を見たまま。 ニトロは結界内の水気を抜こうとしていた。さすがに難しい。なにしろ水はいやと言うほど流れてきている、大地の底まで水が染み込んでいるのではないかと疑いたくなるほどに。ごく一部とはいえ、乾かすのはニトロほどの魔術師であっても至難の業だった。 意を決し、ニトロは胸元の手を口許に。指先を思い切りよく噛み破る。血の臭いが鼻をつき、キアランが鼻に皺を寄せた気配。狼の鼻とあってはニトロより遥かに敏感に嗅ぎ取ったことだろう。 手を振れば、あふれ出た血は目標過たず足で描いた円の上へと。じわりと魔力が巡り、染み込むのをニトロは感じる。高まった一瞬、詠唱を追加。 「……キアラン。ちょっとどいてくれ。そのままそこにいると、固まるぜ」 視線を伏せ、詠唱を続けるニトロ、その合間にキアランに言う。キアランはどういうことだろう、と首をかしげつつニトロに従い、そして驚く。 ――足が、抜けにくい。固まっている。 乾きはじめている沼地だった。キアランの足元は泥が固まりはじめ、硬くなりつつある。慌てて移動し、別の場所へと。もう足が沈むようなこともなかった。それでもまだニトロは詠唱を。次第次第に泥が乾いて行く。白っぽく色が抜け、いつしか完全に乾いた。 「あー。疲れる」 どさり、と腰を落としたニトロの側、キアランは小走りに駆け寄った。顔色が悪いにもほどがある。夕陽の中ニトロは青白かった。音に驚いたのか、鳩がキアランの頭から飛び立った。 ――ニトロ。大丈夫ですか。 「あんまり大丈夫でもねぇな。さすがに疲れる」 ぽんぽん、と大地を叩いていた。まるで乾いているか確認するかのよう。キアランは思わず匂いを嗅ぐ。乾ききった泥の匂いだった。信じがたいことがいま、目の前で起こったのだと染み込んでくる。 ――僕には、あなたの疲労の理由が、それでもよくわかりません。申し訳ない。 「そんなもんだ。気にしなくっていいぜ? そうだな……たとえば、だ」 わからないから黙って休んでいてかまわない、そう言ったつもりだったのにニトロは説明してくれようとしている。それにまた詫びたくなったキアランの耳が頭の上で寝ていた。気づかずニトロは天を仰ぐ。なかなか難しい説明だ、と思いながら。 「船で沖に出てる。で、船底に穴が開いた。大変だよな?」 ――沈みますね、普通は。 「だろ? そこで、穴からあふれてくる水を必死になってかき出す。かき出し続けて、頑張って陸地に戻る。できるか?」 ――穴を塞ぐ方が早いような気がしますが……いえ、そういう問題ではないのですね? それでしたら、難しいでしょう。 「ん、そういうこと。俺がいまやってんのは、そうやってなんとか水をかき出し続けてるに近いな」 それは疲れるとかそういう問題ではない、と人狼のキアランは思う。魔術師のニトロにとっては違うのだろうか。半ば呆れるような感嘆の思い。 「あー、さすがに飯の支度する気にゃなれん。悪いけど、荷物に鼻突っ込んで……」 ――ニトロ、少し向こうを向いていてください。 「ん?」 有無を言わさず鼻先でニトロの腕を押せば、苦笑してあちらを向いてくれた。時間は少ない。すぐさまキアランは人の姿に戻り、頭から服をかぶる。 「ニトロ、いいですよ。携帯食でいいですね? 疲れているなら、食べないと持たないでしょうし」 「おう……悪い、感謝」 「あと、水は水袋にありましたっけね」 ニトロが「水を作る」場面を何度かキアランも見ている。が、万が一のことも想定して水袋に水は欠かさない、以前ニトロはそう言った。これが万が一か、とキアランは思う。 水袋を渡せば、本当に疲れているのだろう、口の端から水をこぼしながら飲んでいた。それで一息ついたらしい。ありがたい、とニトロが笑みを浮かべる。 キアランこそ、ありがたかった。こうして人から狼に、また人に。変わっていく自分という存在を、当たり前のものとしてニトロは受け入れてくれている。ぱたぱたと飛び回る鳩は結界の存在を感知しているのか、足元にまだ見えている円から出ようとはしない。それに目を留め、キアランは言う。 「ニトロ。尋ねてもいいですか?」 互いに携帯食を齧りながらだった。焼き麦を飴で固めたそれは菓子のようでキアランは好きだ。こりこりと齧りながら問えばなんだ、と目顔が返ってくる。 「先ほどのあなたの言葉です。何が秘密だったのかと」 結界の構築が秘密なはずはない。それならばもう何度も経験している。キアランの不思議そうな眼差しにニトロはようやく気がついた。 「あぁ、そっか。さっき、血を使っただろ。あれ。外聞が悪いなんてもんじゃないからな」 「そう、なんですか?」 「俺ら魔術師にとって、血の魔術ってのは善悪で言うなら悪、なんだよ。たいていの血の魔術師ってのは他人の血を使うからな。いかにも悪い魔法使いっぽいだろ?」 物語に出てくる「悪い魔法使い」そのままだった、それは。キアランにも吟遊詩人の語りとして、覚えがある。ようやく納得した。 「今更ですが、だったら僕の血でもよかったのでは?」 「あんたの血を使うくらいだったらさっきのリザードマンの死体拾ってきてるさ。まぁ、他人の血を使うとこまで堕ちたくねぇしなぁ」 ニトロの言葉がわかるようでわからない。ただ一線を越えたくはなかった、と言っていることだけは理解した。 ニトロとしては別の言い分もある。おそらくは自分の血以外では無理だった。殺したすべてのリザードマンを持ってきていればまた話は別だが、あの少量で、という条件ならばキアランの血では無理だった。魔力の多寡の問題になる。高い魔力を誇るニトロの血は、それだけ貴重で異彩を放つ触媒だった。 「そろそろ、陽が落ちますね……」 「おうさ。あっち向いてようか?」 「からかわないでください。そうしてくれると助かりますが」 はいはい、と投げやりな返答にキアランは忍び笑いを漏らす。変化の瞬間を見られるのは好きではない。もっとも、好き嫌いで言えることが異常だ、とも思う。人間社会で目撃されれば間違いなく「魔物」として討たれる。 軽い音がし、ついで衣擦れの音。振り返ればそこには狼。ニトロはかすかに笑って肩をすくめる。顔を戻せばシアンがいるだろう。 「よう、おはよう」 いつも楽しそうだな、とニトロは思う。ゆっくりと目を開けて行く、鳩から戻ったばかりのシアン。その唇にはすでに笑みがある。 「おはよう、ニトロ。あ、父さま」 珍しく狼がすぐ側にいる。どこかに行こうとはしない。それにシアンの顔が輝く。ほらな、と言わんばかりのニトロが狼を見下ろした。 「父さま、おはよう」 狼を抱擁するシアンの腕、キアランは羽でも触れたようだと思う。ふんわりと軽い息子の腕。ぎゅっと抱いてやりたい、はじめてそう思った。 「父さま、かっこいいよね。ニトロもそう思わない?」 ぷ、とニトロが吹き出した。なんのことだと首をかしげるシアンだったが彼は応えない。思わせぶりに狼を見る。 ――あなたの……言ったとおり、でしたね……。僕は……。 「話してやってもいいんじゃないかと俺は思うけどなぁ。どうした方がいいかなぁ」 とぼけて、キアランには問わずどこかに向けて呟くよう言う彼。シアンが不思議そうにニトロを見、狼を見る。そして狼がうなずいた。 「これがな、親父さんだってよ。親父さん、呪いじゃなくっても狼に変身できるんだ」 「本当! すごい、父さま素敵。かっこいい!」 またも抱きついてきたシアン。嬉しそうで、無垢で、嫌悪もなにもないその姿。早くに話せばよかったか、思うキアランは、けれど言えなかったとも思う。 「親父さんから聞いた話だけどな」 そうしてキアランから聞いた話をニトロはシアンに話した。興味深そうに薄い青の目が輝いている。ニトロが灯した魔法灯火の中、シアンの頬は美しかった。ちょん、と狼の鼻がニトロの腕をつつく。 「ずっと黙っててごめんってよ。話しにくかったんだろうさ」 「ニトロ、父さまとおしゃべりできるの?」 「できるよ。魔法使いのお兄さんは心と心でお喋りできるからな」 「ずるい、ニトロ! 僕も父さまとお話ししたい」 頬を膨らませ、それでも狼の背を撫でているシアン。シアンは変化できない、と言ったときには残念そうだった彼。 出会ったときより、格段に幼い話し方をするようになったな、とニトロは思う。合わせるようニトロも言葉使いを改めている。シアンがそう望むのならば、それくらいは叶えてやりたい。幼い子供として父とすごす時間が欲しかった、と望む彼のために。 |