|
根本的な問題として、まだ蛇の沼に入ったばかりだった。要するに、野営に適した場所などない。どこか適当な場所を、と探そうとしても見わたす限り沼地なのだからどうにもならない。結果として、戦闘地より離れるのがせいぜいだ。 「もうちょっと行くかー」 面倒そうに歩いているニトロ。少し疲れているのかもしれない。あれだけの大群と遭遇し、撃破している。当然だろうとキアランは思う。 「今日はあんたも野営だからな?」 振り返りもしないニトロが言った。ぎょっとして足が止まりそうになる。そうすると泥に沈んで難儀する、とすでに経験済みのキアランは必死になって足を動かしていた。 ――ですが。僕は。 「さっきの大群、見ただろうが? あれと同規模のが出ない保証はないぜ? あんたにふらふらされると朝になったら死体も残ってねぇ、なんて話になりかねん」 だからだめだ、とニトロは言う。キアランは話の筋は理解する。守ってくれようとする心遣いもありがたく思う。が、ためらう。 「シアンか?」 ニトロの肩にいまはいる鳩だった。気分のいい天気に鳩は心地よさそうに羽を休めている。陽が落ちれば、キアランの息子にと戻る鳩が。 ――えぇ。 短い言葉。狼の歩きにくそうな足音。ニトロは前を見て足を進めながら考えている。思わず鳩の羽を撫でれば、くるくると楽しそうだった。それで決心がつく。 「色々、思うところはあるんだろうがな。――息子を信じてやれよ、親父さん」 ――そう、簡単に言わないでください。 「俺にとっちゃ他人事だしな。まぁ、シアンはあんたが大好きだぜ。この際、世の中を知らないってのは都合がいい。親父さんは狼に変身する人だったんだ、かっこいい!って言いそうな気が俺はしてるんだけどな」 馬鹿な、と一蹴してもよかった。それができないのはニトロの軽いけれど、染み込んでくるような言葉のせい。流れて洗われるような声の響き。 ――僕は。こんな身の上なのだと、シアンには知らせていませんから。 「知ってたらシアンだって俺に言ってるだろうしな。ちなみにシアンは?」 変化をするのか、とあっさりニトロは問う。こうして狼の体でいる間に人と話す、ということが不思議で、キアランは何もかもを放り投げたくなってくる。同時に、よくわからない安堵もしていた。 ――息子には伝わってません。祖母の言葉ですが……もう僕らは血が薄いのだそうです。祖母の子供たちの中でも変化するのは一人きりだったそうです。母は違ったので、人間に嫁がせた、と。 それなのに孫に血が出てしまった、と驚いた祖母。嘆いてはいなかったな、と今にしてキアランは思い出す。 「ふうん。そっか、仲間は少ないのか……そりゃ、寂しいような、そんな気がする話だな」 ――あなたは、どうして。僕はあなたがたから見れば化け物でしょう。魔物と同類でしょう。 「ちらっと思ったことはあるぜ。いや、同類がどうのって話じゃない」 誤解を招く表現だった、と前を見たままのニトロの手が狼の頭に置かれた。ぽんぽん、と何気なく撫でて、それだけ。隣を歩いているのが「人間」でなくともニトロはまったく気にする素振りさえない。 「一応は魔物……なのか? ワーウルフってのがいる。狼に変化する、言ってみれば呪いだ。しかもこれは傷つけた相手を同じ境遇にする。感染する呪いでもある」 ――呪い……。 「おう。これは、たぶんあんたがたが元だったんだろうな。ただの人間にとって、狼は怖いもんだろうが? 隣にいるやつがいきなり狼になったら、やっぱ怖いと思うぜ?」 だから恐怖の代名詞として、ワーウルフの呪いがどこかで作られたのではないか、ニトロは言う。基本になったのはキアランたちなのではないかと。 ――あなたは僕が恐ろしくはないんですか。 「ねぇよ? あのな、キアラン。さっき俺は何したよ? ほぼ一瞬で十体以上のリザードマンが木端微塵だぜ。いまこの瞬間、ドラゴンに変化してあんたを踏み潰すこともできるぜ? 俺は俺を怖がるか? 自分が怖くねぇんだったらあんたを怖がる道理がねぇだろうが」 ――普通は。 「魔術師はそういう意味で普通の『人間』じゃねぇしな」 ――それこそあなたの話にあるよう、僕は異種族でしょう。僕の祖母は、僕らを人狼、と言っていました。 「ふうん、人狼族か。なるほどなぁ」 それだけなのか、と言わんばかりの思念が漂ってくるが、ニトロとしてはその程度だ、としか言えない。怖がられたいのか、今更逃げられるのが怖いのか、キアランの感情は定かではない。自分でもわかってはいないのではないだろうか。 「ちょっとした歴史の話だけどな。シャルマークの大穴が塞がって四百年近くか? それでシャルマークに平和が戻ったと思うか?」 ――いいえ。現に、さっきみたいな魔物も出る。 「だな。それでもだいぶ数は減ったらしいがな。要はな、シャルマークの探索なんか済んでねぇんだ。シャルマーク全土をまわれるようになったのだって、たかだかここ五十年くらいのことだ。わかるか? いままで隠れて暮らしてた異種族に再会したって、なんの不思議もねぇんだよ」 ――再会……ですか。 「だろうが? 大穴以前には、人間はあんたらと共存してたのかもしれない。他の種族ともな。大穴ができて、人間族は二王国に撤退した、あんたらはシャルマークに残った、そう考えれば辻褄は合うだろ」 合うだけだが。言っているニトロ自身がそう思ってはいる。が、違ったとしてもその程度だとしかやはり思わない。 アルハイディリオンという例もある。叙事詩であるだけにそのすべてが事実とは思いがたいが、中には「妖精の女王」なる記述すらあるのだから。 かつてフェリクス・エリナードは言っていた。この大陸に妖精譚が残っているということは、遥かなる時代に妖精族が存在していた証左であるのかもしれない、と。ニトロとしてはいたら楽しいな、程度の話だったのだが、最近ではアルハイディリオンのおかげで疑い深くなっている。 「まだこの世界には異種族がいるのかもしれない。――そりゃな、あんたが人間が出会う最初の異種族ってんだったら驚いたりビビったり、色々あるだろうさ。でもな、考えてみろ。そもそも俺は人間じゃねぇよ。そもそも、この世界にはもう異種族がいる、神人の子しかり、その子供らしかり。俺ら魔術師もな」 今更もう一種族増えたところでどうと言うこともないだろう、ニトロは言い放つ。無論、ニトロ個人の感想であって、キアランをイーサウに連れて行き、彼がどのような存在なのかが知れれば問題が起こる可能性は否定はできない。だが、大問題になるとも思わなかった。 「あんたは理性ある、広い意味でのヒトだろうが? だったら俺が怖がる必要はないしな。さっきは助けてもらってありがたかったしよ」 ――あれは、シアンが悪いのです。急に飛び出したりするから。 「鳩としては驚いたんだろうさ」 あれほど大量の魔物がいたのだ。ニトロはそれだけだっただろう、と言い切る。キアランは信じたいのかもしれないな、ふと思う。あれが息子の意志であったのだと。ニトロは違うと感じていたからこそ、そんな言葉になってしまったが。 「とりあえずこの辺でいいかな……」 ニトロが足を止め、周囲を見回す。まずは何も見えない。もっともリザードマンは隠密行動に長けている。いま見えないからと言っていない、とは限らなかった。 「ほい、こっち来てくれ。――で、覚悟はいいよな?」 なし崩しにうなずかされてしまった。ニトロの側にいる、ということは陽が落ちたのち、シアンにこの姿を見られる、ということ。姿だけならばもう見ている。が、彼は呪いのせいだと思っている。 ――呪いのせいのままにしておいては、なりませんか。 「嘘つくのは感心しねぇなぁ。ほんとのことってのは受け入れがたくっても、嘘つくよりずっといいと思う。まぁ、俺はそう思うってだけだからな。あとはそっちで決めていいぜ」 何はともあれ野営は共に。それにはキアランもうなずいた。それに小さくニトロは微笑む。見上げれば、泥に汚れた頬だった。髪にも飛んで綺麗な白金が台無し。それでも。 「見惚れるなよ?」 にやりとするニトロのふくらはぎ、軽く牙を立てればからからと上がる笑い声。先ほどニトロは言った、ワーウルフの呪いは傷によって感染する、と。いま彼はただ笑うだけ。ぽん、と頭に手が乗っていた。 「俺は腕のいい魔術師だって、言ってんだろうが? さすがにワーウルフの呪いは見りゃわかるっつーの。あんたは違う」 ――どう、違うのでしょう。 さては、魔物としての呪い、などと言ってしまったのを気に病んだか。ぬかったと思うもののもう遅い。 「たとえ話だけどな。あんた、狂犬病の犬見たことは?」 ――あります。 「元気な犬と間違うか?」 ――間違えません……ね。なるほど。 「ま、我ながらたとえ話が悪かったな、すまん」 ――いえ。わかりやすかったですよ? あぁ、僕が狼だからですか。なるほど。どうぞお気になさらず。 くん、と鼻面が腿を押す。くすぐったいような感触にニトロは笑う。悪くない気分だった。その気分のままにまずは仕事を。手に持ち続けていたキアランの泥だらけの衣服。 ――あ。 一言でびしょ濡れになり、次の一言で洗われる。最後にもう一声。きれいに乾いた。さっぱりとした、まるで火熨斗を当てたかのような衣服のできあがりだった。 「どうする?」 人間に戻っても、狼のままでもいい。ニトロは本当にあっさりとしたものだった。話ができて、そこにいる。ならばどちらでもかまわない、態度が雄弁に物語る。 ――面倒ですから、このままで。 「あいよ。だったらお次は結界の構築っと。さぁて、まいったな。座りてぇよなぁ、さすがに」 沼地はこうして立っているだけでずぶずぶと足が濡れる。キアランなど狼の足はもうずいぶんと沈んでいる。 「俺、今夜は役立たずになるけど、それでもいいか?」 ――たとえば。 「事実上、問題はない。結界張っちまえば魔物が外で大宴会してたって関係ねぇし。ただちょっとぼーっとするかもな、程度」 ――ニトロが大丈夫なら、僕は。あなたが何をする気なのかわかりませんが。 「座りたいんだよ、それだけ」 首をかしげる狼。ことん、とかしげた首が可愛いと言えば狼には失礼だろうか。犬に似て、けれど遥かに強い獣。じっとこちらを見上げている様に知らず胸を打たれた。 |
