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実際問題として、ここから先は本当に危険だ。竜の泉にはあまり上がってこないリザードマンがここには出る。 「棲息地がどっかにあるらしいな。俺は調べてねぇけど」 なにしろ調査中に何度かニトロは遭遇している。幸い殊に過激を謳われるアイフェイオンは氷帝派の魔術師であるニトロのこと、特に問題はなかったが。 「あんたが剣を使えるってんなら任せるけどな。違うんだろ?」 「さすがに持ったこともない、とは言いませんが……」 「だったら遭遇したときには俺の後ろにいてくれ。正直言って俺は強いぜ。背中は安全地帯だと思ってくれていい」 自信にあふれる台詞をニトロは淡々と言う。それだけ事実が滲んでキアランはどことなく微笑ましい。否、安堵する。それも違うような気がする。いずれ彼を信じる思いに偽りはなかった。 「そうします」 真剣なキアランにニトロは苦笑する。怯えさせるつもりはないが、何も言わずに出会ってからどうこうしろと言っても遅い。 「一応、俺も気をつけるけど、周囲は気にしててくれ」 これでもまだ調査中だ。最後に蛇の沼の水をもう一度確かめておきたかった。試験管に水を採り、ニトロは何かを呟く。竜の泉でしていたのと似たようなことなのだろうとキアランは思う。さすがに立ったままだったが。 それを繰り返しつつ進んでいく。鳩は飛んだり、羽をどちらかの肩で休めたり。楽しそうにしていたからキアランは安心してニトロに従っていた。中々につらい道だったけれど。 「足元、気をつけろよ」 ぬかるみが酷くなりつつある。何度か足を取られ、武器として渡されたはずの棒を杖代わりにすることも増えた。何より臭いがキアランはつらい。ニトロはたいして気に留めていない様子だったのでキアランもなんとか耐える。が、臭いの酷さに緊張が途切れそうになる。これではいけない、と頭を振れば気を張り過ぎるなよ、と忠告してくれるニトロがいた。 「えぇ、ありがとう」 酷い顔色だな、とニトロは思う。ぬかるみに体力を奪われるのは痩せて窶れたキアランにはつらいだろう。体力の塊のような戦士でもこの沼は厳しい、と聞く。もちろんニトロもつらいのだけれど、そこはそれ、経験が物を言う。何しろに長年にわたって調べ続けている。 採取する水は以前の調査と変化はなく、けれどニトロの観察方法が変わっている。他の地でも同じ性質の水がある、と知り、アルハイディリオン絡みかと推測しているいま、見方がまったく違った。 「あ……。だめだよ」 キアランが飛び立つ鳩に手を差し伸べる。何かに驚いたよう飛んだ鳩。ニトロはさっと顔を上げ、そのときには詠唱していた。キアランの腕を引き、背中に庇うまでが一動作。よろめいたキアランが目を丸くして彼の背中を見ていた。 「そこにいろよ」 振り返りもせずニトロは言う。返事など聞いてもいない。さすがに背中に冷や汗が流れそうだった。いつの間にこれほど接近されたのか。 「なんて……」 とんでもない大群だった。およそ二十五体のリザードマン。少数での行動を好むリザードマンがほぼ一群れ分。あちらにとっても群れでの移動中に遭遇してしまった、というところか。好戦的な種族のこと、目前に敵がいるならば排除する、とばかりこちらに向かって瞬かない目を向けて進んでくる。動きは信じがたいほど速い。 「僕は――」 「なにもしなくていい。自分の身の安全だけ考えてろ」 だが、何かは。キアランは言いかけ、ニトロの緊張に気づく。臍を噛んだ。何もできない、まただと思う。息子一人助けられなかった自分。戦おうとするニトロを前に何もできない自分。 そのときキアランは息を飲む。呟いていたニトロのしたことに間違いはない。あれほど多くの魔物の半数程度が動きを止めた。ついで破砕音。ニトロが手を打ち鳴らしたのは、キアランにも見えた。けれどそれだけとは思いがたい大きな音。思わず耳を押さえるほどに。その音に動きを止めた魔物が崩れた。 「……凍ってる」 蜥蜴にも似た魔物が泉の氷を割ったかのよう、がらがらと崩れていた。そのまま血も流れず死んでいく。死んだのだろうと思う。魔物とここまで近々と遭遇したことがはじめてで、キアランにはわからない。黒目しかない魔物の目が、光を失い、それでもこちらを向いていた。 その間にもニトロは詠唱を続けている。リザードマンはその名の通り蜥蜴にも似て、爬虫類に近い性質を持っている。おかげで氷系の呪文の効きがいい。 ――俺の得手ではあるんだけどな! 水系呪文の中でもひときわニトロは氷の呪文を好む。この辺りは術者の好き好きで、そんなニトロをかつてエリナードは苦笑して見ていたものだった。 かの俊傑フェリクスの跡を襲いたい、その一心で磨きに磨いた氷系呪文。こんなところで役に立つというのはどことなく納得しがたいものはあるのだけれど、守るべき相手がいる今ありがたいことに違いはない。 「駄目だ……シアン!」 キアランの悲鳴じみた声。鳩はシアンとしての人間性を失っている。昼の間キアランは決して鳩を息子の名では呼ばないものを。 ニトロは一瞬だけそちらを見る。愕然とした。人間性を失くしている鳩。ただの生物としての反射だったのだろう。けれどキアランにもニトロにもまるで二人を守ろうと鳩が魔物に突き進むかのよう。 青ざめたキアランが棒を投げ捨てニトロの背中から飛び出した。せめて鳩をその手に。胸の中に抱き取って、その身を守ろうと。リザードマンが腕を振りあげ。 「キアラン、動くな!」 駆け出した足、差し伸べた腕。眼前に鳩。キアランは後になってもわからない、なぜその声に従えたのかは。そしてニトロの魔法が間に合う。魔物は彼らの目の前、見えない何かに切り裂かれていた。咄嗟に鳩を抱き取ってキアランはニトロの下に駆け戻る。その目が恐怖に見開かれた。 キアランを助けるため、無防備になって崩れたニトロの体勢。目の前の敵をいつどこから現れたのかもわからない青碧の美しい剣が切り裂き、魔法が撃つ。次々と倒れて行く魔物。しかしその背後に別の一体が。 「ニトロ――!」 振り返るまでもない、ニトロは間に合わないと感じた。背中にいるのは知っている。が、目の前の魔物に対応するので手一杯だった。甘く見ていたわけではない。逃げ遅れた、とは思うが。 キアランの目に、ニトロはにやりと笑う。すんなりと覚悟が決まってしまった。君の決断は早すぎる、友人の苦言が耳に蘇り、けれどニトロはすぐさまここからキアランと鳩をイーサウまで転移させようと。その時間くらいならばありそうだった。 「いけない!」 ニトロが何をするつもりであったのかは知れなかった。が、彼が何かを決心したのはキアランにも見てとれてしまった。キアランこそ、覚悟を決める。上空高く鳩を放りあげる。頼むから、逃げていてくれと願いつつ。 そのキアランの姿が形を失った。崩れゆく服の形。そのまま塊となった布から抜け出る一頭の獣、漆黒の狼。まるで颶風だった。襲い掛かる狼の鋭い牙。ニトロの背後の魔物の首、ひと噛みで食い千切る。 その間にニトロは残りを片づけはじめた。助勢があるのならば計画変更だとばかりに。口許が緩んで仕方ない。こうして背中を預けて戦うのはいいものだと。 狼と魔術師と。一人と一頭の旋風に魔物は消えた。辺り一面血だまりだった。さすがに臭いが酷い。ニトロは肩で息をし、大きく息を吸いたくないとぼやく。そして振り返れば狼。 「助かったぜ、ありがとさん」 狼こそ見物だった。ぽかんとした狼などニトロは見たことがない。それを言うのならばそもそも狼をあまり見たことがないのだが。 「なるほどなぁ。それでつらそうだったのか。体力がきついのかと思ってたんだが……臭いのほうか」 うんうんとうなずくニトロに狼は佇むばかり。気にした様子もなくニトロはキアランの服を拾い上げる。 「あぁあ、どろどろだ。洗って乾かすまで、狼でいるか?」 ――あなたは。ここまで驚かれないと、僕がおかしいような気がしてくる。 「魔術師なんてそんなもんだ。気にしてると胃に穴空くぜ?」 ――な……! 「あぁ、返答したのが不思議か? 魔術師は精神に接触して会話することもあるからな。あんたがそのまんま喋れるんだったら都合がいい。で、どっちにするよ?」 あまりにも狼である自分を当たり前に受け入れられてしまったキアランは、何を考えることもなくうなずく。と言うより、うなずいた、という思考を放つ。それを受け取ったのだろうニトロはわかった、と呆気なくうなずき返してきた。 「とりあえずここを離れるぜ。別の魔物が寄ってくるとさすがにちょっとな」 苦笑してニトロは手を伸ばした。その手に舞い降りる鳩。惨事が終わった、と鳩は知っているのだろうか。ぼんやりとキアランは鳩を見上げていた。 「一時的に嗅覚を麻痺させることもできるぜ。どうする?」 ――感覚が鈍ると、恐ろしいので。遠慮します。 「了解。じゃあ、ちょっと我慢しててくれ」 ぽすん、ぽすん、と狼の足が沼にはまり、抜ける音。歩きにくそうだとニトロは思う。四足のほうがこういう場所は厳しいらしい。 ――ニトロ。僕を責めないのですか。 「なにを?」 ――お気づきなのでは? 僕は……呪われてるだけでは、ない。僕は、人間ではない。元々、狼に変ずるのです。 「それを隠してたって? 責める道理がどこにあるよ。俺とあんたは行きずりに毛が生えたようなもんだろうが。べらべら喋られたらこっちが驚くっつーの」 ニトロは呪いの性質だと思っていた。昼間の鳩に人間性はない。シアンとしての意識はまるでない。が、キアランが狼に変じたとき、違和感を覚えたのは事実だ。人間の姿を取り戻したシアンに見せた一瞬の眼差し。苦しむ目だ、と今にしてニトロは思う。 「呪われてるのは、事実だろ。それでも?」 ――えぇ。夜になると、強制的に狼に変じます。僕の意志ではない。 「そりゃ大変だな。町に入りにくいのは一緒だし」 ならば嘘をついていたわけではない、ニトロは無言で言い切る。キアランは黙ってその後ろを歩いていた。見上げるニトロの背中。白金の髪が戦闘時に飛んだのだろう泥で汚れている。 ――ニトロ。 「んー?」 ――いえ、なんでもないです。気にしないでください。 「あいよ」 何事もない、万事は予定通り、そんな彼の背中。キアランは問いたい言葉もないのにニトロを呼んだ、と気づいてしまった。当たり前に返ってくる返答がただ、欲しかったのかもしれない。 |
