夢のあとさき

 昨夜のシアンの眼差しを思い出す。きらきらとした、無垢で純な子供の目。山の四季に歓声を上げていた。
「とっても綺麗! 本当に綺麗」
 何度も何度もシアンは声を上げ続けた。こんな素晴らしいものは見たことがないと言って。
「ねぇ、ニトロ。ニトロの好きなところはないの?」
 キアランの故郷だけではなく。首をかしげて微笑むシアンにニトロはイーサウの女神湖だの魔法学院だの、思いつく限りの景色を見せてやった。
 ただ見るだけ。それしかできないシアンは、それなのに本当に嬉しそうで、幸福そうで。この世の幸せはすべて自分のもの、そんな笑みを浮かべ続けた。
 それが腹立たしい。ニトロは背後の音を聞きつつ、シアンが残した茶を洗い、新しい茶を淹れてやる。そうこうしているうちに着替えたキアランが姿を現すだろう。
 そうしつつも、考えていた。腹立たしいのは、たぶんきっと哀しさの裏返しなのだろうと。何も知らない、知ることを許されなかったシアンが、その存在が。
「――おはようございます」
 ためらいがちなキアランの声。ニトロは黙って片手を上げた。それから強いて何事もなかったかのよう肩をすくめる。
「おはようさん。飯にするか」
「僕がしましょう」
「頼むよ」
 キアランはニトロの様子が違う、それだけは気づいた。が、鳩は元気にそこにいる。ならばシアンに異変があったわけではないのだろうと感じる。それは不思議と染み込むように信じられた。
「俺、食事の支度、すげぇ下手なんだよな」
 手持無沙汰を慰めようとする、そんな言葉ではなかった。ニトロの、返事をしてもしなくてもかまわない、いずれ独り言と大差ないような言葉なのだから。そう言ってでもいるような語調。キアランはあえかに微笑む。シアンと酷似した笑みだった。
「そうなんですか?」
「せいぜい食える程度ってとこだろ?」
「そんなこともないと思いますが」
 首をかしげ、キアランは微笑み続ける。普段の彼はよほど贅沢をしているのだろうか。キアランがご馳走になっている食事にしてもさほどまずい、というわけでもない。
「いや……こういう野営食だったらまだマシなんだよ。大差が出ないだろ?」
 そういうものなのかどうか、キアランは知らない。呪われて旅に出ただけであって、元々旅がちな生活をしていたわけではない。それと悟ったニトロがそのようなものなのだ、と言い足す。
「でもな、普通に台所で飯の支度して、とかってのがだめだ。まぁ、俺がやらなくっても好きでやってるやつがいるからな、そのせいもあるんだけどよ」
「これはお熱い」
「そんなんじゃねぇよ! 兄弟子だ、兄弟子!」
 くすりと笑ったキアランにニトロとしては大慌てで否定する。そんな自分が少し、おかしかった。それで少し、くつろぎが戻ってきた気がする。
 朝食は、昨夜シアンが見る前で冗談のよう釣った魚だった。小魚で、量も少ないのだけれど、二人分の朝食くらいにはなる。
「おいしい魚ですね。シアンが、喜んだのでは?」
「おうよ。もっと釣ってもっと釣ってって大騒ぎだったぜ」
「魚釣りなど、見たこともなかったはずですから、彼は。……セヴィルに生まれたというのに」
 ずっと乳母と二人、廃坑道に生きていたシアン。生きているだけで、なにも楽しいことも嬉しいこともなかったシアン。キアランの眼差しが皿の中へと。泉の小魚を釣る、そんな子供ならば誰でもすることをしたこともなかった息子を思う。溜息のよう、首を振った。
「昨夜は……?」
「あぁ。昨日、あんたに聞いた山の景色を見せてやったらこれもまた大喜びだったぜ。そうそう、曾祖母ちゃんってのはどんな人だったのかって、聞きたがってたぜ」
 言われた瞬間、キアランが強張った気がした。何も見なかったふりをしてニトロは茶をすする。次第にキアランの気配がほぐれて行く感覚。ニトロはそれまで黙っていた。
「……申し訳ない。驚いて」
「あんたの祖母ちゃんはあいつの曾祖母ちゃんだしな。なんかそういうのって、びっくりするよな。わかる」
 時間の流れに驚いただけだろう。ニトロはあっさりそう言った。詮索する気はない、これ以上ない表明だった。キアランは静かに笑みを浮かべ、目顔で礼を言う。そっぽを向いたニトロは見てもいなかった。
「あなたにも、そんな経験が?」
「あるよ。もっとも、俺は魔術師だからな。血縁との縁は切れてる。そういうもんなんだ。だから……そうだな、魔術の師匠が親で、兄弟弟子は正に兄弟。師匠の師匠ってたどっていくと先祖って感じか」
「それは……」
 寂しいような気がキアランはした。が、言葉を続けることはできかねる。ニトロにとってそれが普通のことであるのならば、こちらで勝手に寂しいだろうと言うのは不遜なような気がしたせい。気にし過ぎだ、感づいたニトロが目で笑う。その優しさに、キアランは甘えた。
「お尋ねしてもいいでしょうか、ニトロ」
「なんだよ改まって?」
「あなたは……どうしてここまでよくしてくださるのか。ありがたいことです、本当に。シアンを、息子を、楽しませてくれる。僕にできないことをしてくださる」
「その理由がわからない?」
「率直に言って」
 真っ直ぐとした金の目。狼の姿の時には精悍なその目が、いまは揺れていた。真正面から見ているのに、ためらいのよう眼差しは揺れ続ける。ニトロは一度天を仰いだ。しばしの後、口を開く。
「……ガキが」
 これを言うのか、とふと思った。キアランにはなんの関係もない。だからといって、言うことをためらう理由はない。普段から、ニトロはこの話を誰にも隠していない。問われれば誰にでも話している。それなのに、いまなぜかキアランに対してためらった自分。不思議だった。
「ガキが、酷い目にあってんのをほっとくのが、嫌なんだよ」
「それだけとは……」
「そんだけだぜ。めちゃくちゃにされたガキってのを、見過ごしたくない」
「あなたは……なんて優しい人なのか」
 本当に、それだけが理由だとしたならば。キアランは信じる。ニトロのその理由を、すとんと胸の中に受けたかのよう、信じた。それにニトロが苦笑する。
「優しくなんかないっつーの」
「僕にはそうは思えません」
「そりゃな、勘違いって言うんだ。俺は、ガキが可哀想なんじゃない。そんなガキ見て、自分が嫌なもん思い出すのが、嫌なんだ。この違いはでかいだろうが?」
 シアンのためではない、自分のためだ。言い切ったニトロにキアランは無言で眼差しを向け続けていた。
「どんな思いを?」
 聞いてはいけないことであるのならば、ニトロは言わないだろう。そもそも話題にもしないだろう。出会ったばかりと言っても相違ないニトロではあった。が、キアランはそれを疑わない。事実ニトロは肩をすくめて話し出す。
「俺が十三歳ん時だった。仲のいいダチがいたんだよ。こいつが、とんでもない育ちでな。――暗殺結社に拾われて、人殺しだけを仕込まれて、俺が通ってた魔法学院に潜入してた」
「……な」
「そんなことがあるのかって顔してるな? 事実あったんだぜ」
「その、ご友人は」
「学院のガキどもに毒薬盛ってな、まぁ幸い死人は出なかったんだけどよ。偶々出なかっただけだ。あいつは俺を殺したくないって、俺だけを死なせないように手を打って。そんで、自分が殺された」
 小さな声がした。痛々しいキアランの眼差し。まるで自分の体が痛みでもするかのよう、胸元を握りしめていた。その膝、鳩がぴょいと乗る。くるくる鳴いてキアランを見上げれば、揺蕩う眼差しが鳩に。信じがたいとばかりただ首を振っていた。
「後日、そいつの遺書で俺は事件の全貌を知ることになった。俺の大事な友達は、たった一人の友達は、そんな馬鹿な育てられ方して、殺された。冗談だろって思ったぜ。どこの世界にそんな馬鹿がいるよってな」
 友達も馬鹿だと思った。どうして素直に殺される道を選んだと。結社も馬鹿だと思った。なぜそんな非道を平気でできると思った。
「……大人になってからな、俺はその結社をこの手でぶっ潰す機会を得たわけだけどな」
 あの事件の概略を語れば唖然としたキアランだった。島の生活からはとても考えられないことだったのだろう。
「でもまぁ、そんなことやったってダチは帰ってこない。あいつとおんなじ境遇のガキがもう生まれることはない、それだけが慰めではあるけどよ」
 彼を思い出すから、シアンの境遇が嫌だとニトロは言い切る。キアランは、首を振り続ける。比べてどうなるものでもない。が、シアンの方がまだ。
「勘違いだぜ。あんたの顔に書いてある。シアンの方がマシなんてことはない。ガキが、当たり前に生きることもできねぇってのが、俺は嫌だね」
「……申し訳ない」
「詫びる必要はねぇだろ?」
 ばっさりと切って捨て、ニトロは冷めた茶を飲み切った。キアランは何も言わず、新しい茶を淹れてくれる。さっさと順応したものだと思ったら笑えてしまった。ありがたく頂戴すれば強張ったキアランの表情。気にするな、と軽く肩を叩いた。
「あれを思い出すからな。だからシアンを助けたいって言うよりゃ、せめてシアンを少しでも幸せにしてやりたい。俺が嫌な思いをしたくないがためにな」
「それが真実の理由であったとしても、行為は行為だと思います。あなたは、とても優しい方だ」
 さてな、とニトロは肩をすくめた。本当は少し、驚いている。誰にでもこうして話しているのだけれど、そしてニトロにとっては事実なのだけれど、いままで誰もが言った。露悪的、照れ隠し、あるいは利己的に過ぎる。毀誉褒貶いずれもされて、結果としてニトロの真意と信じてくれた者はいない。否、友人がいるか。ニトロは思う。彼は少なくともそれでニトロの気が済むのならばいい、そう言った。
「結社を潰したのが二十年くらい前か。あぁ、セヴィルが連盟に加入する前後の事件だったな、ありゃ。そう考えると昔の話なのか、ついこの前なのか、微妙ではあるか」
 ふむ、とニトロは腕を組む。常人にとっては長い歳月が過ぎたことだろう。が、ニトロにとってはそうではない。幼友達の復讐をしたわけでもなく、ただ決着がついただけ。思えば自分の気持ちの区切りにすら、なっているようないないような曖昧さ。
「あなたは……」
 訝しそうなキアランの目。感情のままに揺らいだり険しさを帯びたりする金の目。いまは何かの色にくすんでいた。




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