夢のあとさき

 キアランが茶を飲み終えるのを待ち、ニトロは切り出す。たいした話ではないのだけれど、どうにもやりにくいのは気を使ってくれている、などと言われたせいに違いない。
「頭。触っていいか?」
「え……?」
 きょとんとされてしまった。ニトロは内心で激しく頭を抱えている。どうして自分はこうなのだろうと。若干、他人のせいにしたくもある。魔術師は、殊にニトロの一門は遠慮がないにもほどがある傍若無人揃い。当たり前の反応をする人物、というのに心当たりが少なくて戸惑うばかりだ。
「あー、妙な意味じゃない。濡れたまんまだと風邪ひくだろ?」
 言えばキアランがニトロの髪にと視線を移す。すでにすっかりと乾いている白金の髪だった。魔法なのだとわかっていても不思議だ。
「僕の頭でも、できるんですか?」
「できるよ。魔術師の体質がどうのなんて話じゃないからな。やっていいか?」
「もちろんです。お願いします」
 数日ではある。が、ずいぶんとすらすらと言葉が出てくるようになった。こうなると逆にニトロのほうが口ごもりがちになってしまう。が、居心地のよさはあまり変わってはいなかった。
 ニトロは無造作に手を伸ばし、キアランの髪を指で梳く。くすぐったそうに目を細められてはやりにくいこと甚だしい。それこそ妙なことをしている気になりかねない。
「ほい、いいぜ」
 あっという間だった。何しろニトロは水系魔術師、乾かすのも濡らすのも児戯にも等しい。一番の遊び道具が「水」なのだから当然というものでもある。
「ありがとう」
 率直な言葉もやはり、仲間内にはあまりないものだと思う。言わなくても通じてしまう、あるいは精神に接触してしまう、そのせいかもしれない。
「いや……」
 ぼそりと言うニトロにキアランは首をかしげ、けれど何も言わない。ただじっと焚火の前に座っているその姿。孤独、と言うのではない。どう表現すべきか、横目で見ているニトロは迷う。
 ――孤高……でもねぇな? なんだ……強いて言えば、やっぱ「狼」ってとこ?
 佇まいが、狼に似てもいる、そんなことを思った。言われて気分がいいはずはないからニトロは言わない。ただその姿が顔形、体貌の問題ではなく、美しいとは思った。その連想が水底へ。
「泉の底、綺麗だったぜ。ここは魚が少なくってよ。そのせいで水も濁りが少ない」
「そういうものなんですか?」
「おうさ。魚がたくさんいると、水草もたくさん生える。逆か? とりあえず、そうすると食い滓だのちぎれた葉っぱだの、いろいろ出るだろ?」
 なるほど、とキアランがうなずいていた。考えたこともないだろうとニトロは思う。が、キアランは逆のことを考えていた。島の海は澄んだ海ではない。そのせいで魚がたくさん獲れたのかもしれない、ニトロの話にそんなことを考えていた。
「見上げると、水がゆらゆらしてよ。光がそこに反射して、色んな青になる」
「わかります」
「海?」
「えぇ。僕はやはり、島の男なので。あまり得意ではありませんが、泳ぎは一通り」
「あれ、綺麗だよな。海の水は独特で、俺はそっちも好きだぜ」
 故郷を褒められた、と感じたのだろう、キアランはそっと微笑む。その笑みからニトロは視線を外すことはない。外したかったからこそ。
「……あんまり綺麗でな、シアンに見せてやりたいと思った」
「あ……」
「あんた、見せたいもんとか、あったか」
 あるだろうな、ニトロは思う。詮索するつもりではなかったから答えずともかまわない。ただキアランの中にその思いが生まれることを望んだだけ。シアンのために。
「……冬の山を。雪で銀色になった山に、月の光が射すと、本当に美しい。この世のものとは思えない景色です」
「山?」
 セヴィル島のキアランなのに。詮索する気はなかったはずなのについ、問うてしまった。キアランは気にした様子もなく話し出す。
「僕の母方の祖母が山の民でした。右腕山脈の中に住んでいたんです。母は鄙には稀な美女だったらしいですよ」
 商用で本土に出かけたキアランの父が、怪我をして動けなかった女に出会った。それが母だ、と彼は言う。島に嫁いでキアランを産み、そして亡くなったと。
「僕は父が描かせた肖像でしか母を知りません。綺麗な人でしたよ」
「じゃあ、シアンは婆ちゃん似かな?」
「……ありがとう」
 礼の意味は本当のところではわからない。が、どことなく悟るものもある。シアンはおそらくは彼を産んだ島主の娘に似ているのだろうと。
「……僕は、よく祖母のところに遊びに行きました。父が行かせてくれたんです。亡くなった妻の母親を心配してもいたのでしょう」
「山の中じゃあな」
「父は代々の島の男ですから。山の民の生活は知りません。セヴィルも連盟に加入するようになって生活がずいぶん変わった……らしいですが。それでも慎ましやかに生きているものです。山はなおのこと、不安も多かろうと父は考えたようです」
「あぁ、そっか。あんたは加入前をあんま知らないのか」
「――覚えては、いませんね」
 二十年前、となればそのようなものだろう、ニトロは思う。劇的な変化を感じたのは旧来の生活が身に染みている壮年以上の人間。子供や青年はさほどでもないだろう。連盟に加入したとあっても体制が変わったわけでもない。島主がいて、日々の生活がある。
 ただ、キアランが言葉を濁したのは、感じた。何をどう濁したのかは、見当もつかない。むしろ、知っているのに知らないふりをした理由が、というべきか。当時の彼は十代半ばだろうか。加入前後の変化を覚えていないとは思えない。けれど濁された言葉を追及するような真似をしたくないニトロはなるほど、とうなずいて見せるだけ。
「祖母の家から見る山の景色が僕は好きでした。あれを……シアンに見せてやりたい」
 銀に輝く夜の山。月の光、雪の色。影になった木々。キアランの目にはいまも鮮やかだ。知らず視線を落とし、眼差しは過去に。
「他には」
 切り込むような、けれど忍び込むようなニトロの声。涼しく洗い流すような声だとも思った。顔を上げればそっぽを向いたままの彼だった。ふと口許が緩む。
「春のたんぽぽも、可愛らしかった。斜面が全部黄色なんですよ。それが春闌けて一面の綿毛になる。風が吹くと飛んで行くさま。綺麗でした」
「あぁ……それは見たいな」
 夏は青。茂る木々の緑の匂い、土の香。獣たちが子育てをし、飛び出す小鹿。滴る泉の水の冷たさ。
 秋は織物のよう、キアランは言う。イーサウにも絨毯で知られた地があるけれど、それよりずっと豪華で絢爛だ、キアランは言う。
「赤に黄色、緑に茶色。木々の葉の色づいた様子は、山が舞踏会のドレスをまとったようですよ」
「詩人だな」
「よしてください、恥ずかしい」
 肩をすくめて顔をそむける。ちらりと見やればほんのりと赤らんだ頬。くつり、とニトロは笑い空を仰ぐ。
「そういや、寒くないか。大丈夫か?」
「大丈夫です。あなたは」
「これも言ってなかったな。魔術師は温度に耐性があるんだ。暑い寒いは、ほとんど気にならない。気がつかないことも多い」
「それは……寂しいことですね。いえ、申し訳ない」
 ニトロの目がふと和んだ。友人たちも同じことを言う、そんなことを思ったせい。四季を肌で感じることが少ない魔術師は寂しいものではないか、そんなことを言っていた彼。
「いや、気にすんな。便利なものでもあるからよ。寒かったら言ってくれ。夏もここまで来ると朝晩は冷えるからな」
 はい、とうなずいたキアランにニトロもまたうなずき返す。どことなくありがたく、どことなく気分がいい。こんな気持ちをなんと言うのか、よくはわからない。イーサウの師が腹を抱えて笑うだろうことは見当がつく。
 ――ぜってぇ知られたくねぇぞ、これ。
 とはいえ、協力を仰ぐつもりではあった。自分一人では睡眠不足確定なのだから致し方ない。兄弟子に、とも思うが、彼では手に余る予感がある。
 ――もうちょっと頼らせてほしいもんだぜ、兄弟子さんよ。
 内心でふん、と鼻を鳴らす。事実は違う。頼りになっている。それを言いたくないニトロの、これは我が儘だった。それを笑っていなしている兄弟子が忌々しくもありがたい。
「薪、面倒見ててくれ」
 火を絶やさないように、と言うのだからニトロはまたどこかに行くのだろうか。あるいは集中するのだろうか。考えたキアランは驚く。
 ニトロがその場で魔法を紡ぎはじめた。おそらく、否、間違いなく魔法だろう。突然に泉の水が立ちあがるのだから違うはずはない。
 そしてそこに映し出されたのは、キアランが語った思い出の景色。四季の山がそこにあった。
「違うところがあったら言ってくれ。俺はあんたの知ってる山を知らない」
「え……。あぁ、はい。そうですね、もっと深い山です」
 それだけでニトロは景色を変えて行く。色合い、外観、木々の種類や住む獣、道の具合。キアランの言葉に従って刻々と山が思い出のものになっていく。
「素晴らしい……。僕の記憶にあるとおりです」
「そうか?」
「えぇ! あの木々の向こう、小さな祖母の家があったんですよ。二間ばかりの、小屋のような、でも頑丈な家でした」
 言った途端に家が描き出される。それにキアランは驚き、けれど笑っていた。これが魔法か。そんなことを思う。楽しく、美しく、素晴らしい。ずきりと胸の中が痛んだ。
「こんな感じ?」
 水の膜に映し出されたキアランの思い出。ゆらゆら揺れて、幻想的で、思い出をそのまま取り出したかのよう。うなずくキアランに小さくニトロは笑う。
「じゃあ、夜になったらあいつに見せてやるよ」
「あ……」
「喜んでくれるといいけどなぁ」
 天を仰げば西日が。木々に遮られ、色の濃い光がニトロの横顔を翳らせる。微笑んでいるのだろうその横顔が、けれどキアランにはよく見えなかった。
「ありがとう」
「俺が好きですることさ」
「それでも」
 息子のために自分は何一つとしてしてやれない。こうしてさまようことしか。ニトロを頼る、そう決心したのもシアンだった。
「僕は、だめな父親です」
「そう悲観したもんでもないだろ。いざって時に体張ったあんたは、立派な父親だと思うぜ」
 そんなことはない。ただ連れて逃げただけ。策もなく、考えもなく。挙句捕まって呪われて。黙って首を振るキアランに、ニトロは何も言わなかった。代わりに思い出の景色に彩を。朝から夜に、夜から朝に。移ろう光をただキアランは見ていた。




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