夢のあとさき


 試験管に水を採り、ニトロが何かをしていた。何本もの試験管はそれぞれに色づき、美しかったけれど遊んでいるわけではないだろう。時折呟きながら手元の手控え帳に何かを書きつけている。
 キアランは竜の泉に到着してからずっとそんなニトロを見ていた。だらしない態度とは裏腹に、いまのニトロの横顔は精悍。おそらくはこれが彼本来の表情なのだろうと思う。何かに打ち込む姿は美しい、そうも思った。
 ――僕は。
 こうしてニトロのように真剣になることがあっただろうか。言い訳ならばいくらでもある。けれど、それを「言い訳」にしてはいなかっただろうか。
 シアンのこと一つとっても。息子の存在は知っていた。様子を窺いに行きもした。けれどそれだけ。ニトロはシアンからの伝言、という形で彼の言葉を伝えてくれたけれど、自分がそこまで案じられ、思いやりをかけられるに値するとは思えない。
 ――せめて。
 何か一つ、こうしてニトロのように必死になっていたとしたならば、現在は違うだろうか。キアランにはわからない。そうであればよかった、と思うのかもしれないし、それでも変わらないと思うのかもしれない。
「……ん?」
 不意にニトロが目を上げた。キアランは思わず背筋を伸ばす。眼差しに気づかれたか、と思うと恥ずかしい。ニトロは悟ったけれど、何食わぬ顔をしたまま伸びをした。
「ちょっと留守番、しといてもらっていいか?」
「かまいませんよ。どちらに?」
「泉の底」
 怪訝な声だ、とキアランは自分でも思った。ニトロが何を言っているのか、言葉自体しか理解ができない。ぽかん、と彼を見上げれば、立ち上がったニトロは苦笑していた。
「埒が明かなくってな。覗きに行ってくるから。――あぁ、ここ、たまにしか出ないけど、リザードマンが出るぜ。魔物が出たら呼びな。聞こえるから」
「え……あぁ、はい」
 じゃあ、と言ってニトロはさっさと服を脱ぎだす。目をそらすことも忘れて見てしまった。鍛えた肉体だ、とキアランは思う。故郷の島で漁師たちの体を見慣れていた。鉱山に入る男たちも見慣れていた。それとは違う、けれど撚りあげた鋼のような肉体。服の上からではわからないそれを惜しげもなくニトロはさらし、あっという間に泉の中へと。
「あ……」
 本当に行ってしまった。泉の底に行く、とはどんなものなのだろうか。キアランは想像しかできなかった。
 ニトロは水の中から上を見上げる。きらきらとした陽の光が入っていて、とても綺麗だった。揺らめく水は幻想的で、中々お目にかかれない景色だとも思う。
 ――シアンに見せてぇなぁ。
 滅多に見られない、常人の知らない世界。当たり前の世界すら知らなかったシアンに、これを見せてやればどれほど喜ぶことか。竜の泉についた晩のこと。手製の万華鏡を見せてやれば歓声を上げて喜んだシアン。
「花の咲き乱れる野原、というのはこういうものなの?」
「んー、こっちの方が綺麗かもなぁ」
「嘘。優しいね、ニトロ」
 にこりと笑ったシアンこそ優しいと思う。おっとりと優雅、とは彼のようなことを言うのだろうか。慈愛の塊のような青年をせめてニトロは楽しませたい。
 ――ま、それはそれとして、だ。
 調査に目途をつけてイーサウに戻りたかった。さすがにほぼ徹夜状態がこれからも続くとなればいくら魔術師でも体が持たない。キアランを放置するのは不安だったし、シアンは一人きりにしたくない。
 ――となれば、誰かの助けがいるってか。
 この自分が助けを求めるようになるか。思えば知らず笑いが込み上げる。ぷ、と笑った口許からぷくぷくと泡が頭上に立ち上っていった。
 さすがに長時間になるとわかっている。ニトロは空気の道を魔法で確保していた。おかげで苦しいこともなく調査に励む。
 外見からは信じられないほど深い泉だった。透明度が高いせいだろう、ここまで深いとは潜ってみなければニトロも思わなかった。はじめて潜った日の感動を思い出す。
 ――んー、なんか感覚が違ぇんだよなぁ。
 シャルマークを歩き回り、色々と調査をしたけれど、竜の泉はやはり独特だと感じる。水の組成自体は他にもあると結果が出た。けれど。
 ――ここだけは、本当に静かなんだよな。
 魚がいないわけではない。数はよくある泉に比べれば少ないが。水の流れはもちろんある。それでも静かで。ふとニトロは首をかしげる。その動きに従って、白金の髪が緩慢に水に揺れた。
 ――静かってより、これは。
 静謐、と表現すべきだろうか。腕を組み、泉の中に浮かびながらニトロは考える。底まであと少し。泉の底の土にはまったく問題がない、とすでに知ってはいる。足の裏が底につけば、ふわりと漂う白い砂。すぐに静まっていく。
 ――これは。
 周囲を見回しても、変わったものなどない。景色自体はどこにでもある泉の底。深さだけが際立っているけれど、それとて特筆すべきものでもない。
 ただ、気配だけが。ニトロはいままでさほど気にしてこなかった。というより、気づかなかった。切っ掛けは、たぶんあの父子だろう。感覚が鋭くなっている。彼らを守護すべき、と考えているからだろう警戒心がここの気配の差異に気づかせたのかもしれない。
 ――神官連れてきた方が早い、か……?
 この静謐さは、まるで神殿のもの。泉の底には何もない。白い砂が広がるばかり。水草も少なく、揺らめく水があるだけ。それなのにニトロは感じる。神殿の中にいるときの静けさを。
 ――静かってわけでもねぇんだけどなぁ。
 ニトロと縁があるのはエイシャ神殿。青春を司り、青春とは戦うことだと定義する、幻想と真実の女神。吟遊詩人からの信仰も篤いことから神殿の中はいつも音楽に満ちている。静かなはずはない。けれどしかし。
 ここと似ている、そう感じる。他にも知っている神殿を思い浮かべる。花街の男女が詣でる双子神のもの。婚姻を司る契約の神でもあるドンカ。戦士たちからの篤い尊崇を集めるマルサド神。死と秘密の月神サール。
 ――似てるが……それでもない。似てることは、確かだ。もっと……根源的……とでも言うのか……?
 信仰があるようでないようで、あるとは言い切れないニトロにはそれが精一杯の感覚。ならばここは神々のものなのか、と聞かれればたぶん即答する、違うと。
 ――だめだ。わからん。
 が、わからない気配を察知したのは前進だ、と思う。はじめて感知したのだから。今度は神官連れで来よう、と思う。幸い平神官ならば当てがある。
 そこまで決めてニトロは泳ぐ。周囲を一巡り。変化はないと見極めて、それから頭上に。水面までのしばし、ニトロは泳ぎを楽しんだ。
 ――水系ってか?
 ニトロの魔法が水に属しているせいだろうか。こうして泳ぐのがニトロは好きだった。一人でのんびり水に揺蕩っているのも好きだった。
 ――とはいえ、あんまり一人にするのも不安っちゃあ、不安なんだよな。
 立派に中年男だろう、キアランは。それでも頼りなくて放置がためらわれる。シアンの無垢さとは別の意味で、守護の必要がある気がしてならない。
「……あ!」
 ざばりと水から顔を出したニトロを迎えたのは、正に不安を顔中に浮かべたキアランだった。身を乗り出し、泉の際まで膝で這い寄っている。
「どうした?」
 額に滴る水を髪ごとかき上げ、背後に流す。頭を一振り。水滴が飛び散り、キアランにかかる。ぬかった、とニトロは内心で申し訳なくなっていた。つい、一人きりで調査研究に励むものだから所作が雑でいけない。が、キアランは気づいた様子もなくニトロを見上げていた。
「……あまりに、上がってこなかったので」
 溺れてしまったのではないかと心配していた、とキアランは言う。それにはじめて言っていなかったことに気づくありさま。片手を上げて詫びた。
「悪い。言ってなかったよな。俺は魔術師だから――。泳ぐって言うより……なんて言うんだ? 息ができなくなる心配はないし……んー、要するに溺れることはない」
「そう、なんですか。それは、よかった……」
 ほっと息をつかれて本気で済まなく思った。あらかじめ伝えておく、ということを忘れがちなのは悪癖だろう。常人の友人には何度となく言われているのだが改まらない。
 ばつの悪さにさっさと服を着て、気づく。キアランは大きく焚火を作っていた。水の中では冷えるだろう、あるいは溺れているのならばとの気遣いか。ありがたく傍らに座せば、ようやくキアランもそこに戻った。
「悪かったな」
 言いながら濡れた髪に指を通す。手櫛で梳けばみるみるうちに水気がなくなる。それにキアランが驚いた顔をした。
「便利だろ?」
「それも魔法、ですか?」
「おうよ。――あぁ、そうだ。ついでだ、水浴び、してきていいぜ」
「大丈夫ですか、あなたは」
「おう、気にしないでいいぜ。ほら、これ持って行きな。石鹸使うわけにはいかないけどな。ちょっとはさっぱりするだろ」
 旅に汚れたままだったキアラン。もっと早くに気づけばよかった、とニトロは後悔する。言い出せなかったのか、頓着していないのか、まだ互いを知らなすぎてわからない。
「ありがとう」
 が、ニトロが渡した布を持ってキアランは立つ。ほんのりと笑う顔はやはり息子と似ている。その後ろ姿を目で追えば、水際で彼は振り返る。慌ててそらす無様を見せたくなく、にやりと笑ってニトロは体ごと背を向ける。
 しばらく水音が聞こえていた。見ようと思えば背を向けたままでも見ることができるニトロではあったが、なにもそこまでする意味もない。せっかく作っておいてくれた焚火だ、ここは熱い茶でも淹れておいてやるべきだろう、と支度をしていた。
「さっぱりしました。ありがとう」
「おう……。あのな、俺は人付き合いが苦手でよ。他人を慮るってことをつい忘れがちだ。だからな、なんかあったら言ってくれ。遠慮会釈なくやってくれていい。つか、そうしてくれ」
 口ごもりがちなニトロにキアランは目を丸くした。ついで笑い出す。それに気分を損ねた彼がいた。その横顔を見てはまた笑ってしまう。
「どこがでしょうか。あなたは、僕を気遣ってくれているではないですか」
 言えば肩をすくめたニトロ。ぶっきらぼうな調子で熱い茶が出てきた。キアランは無言で受け取り、口に運ぶ。冷えた体に茶が染みた。




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