夢のあとさき

 夜明け。かさりと音がして、狼が戻ったのを知る。ニトロは何も気づかない顔をしたままシアンを見ていた。徐々に薄れ、消えて行く彼の姿。一瞬たりとも目をそらさず見ていた。
「じゃあね」
「おう、また明日」
 言えば明日という時間があったのだ、と驚き微笑むシアンの目。次の瞬間にはそこに鳩がいた。くるる、鳴いた声はまるでシアンの返答のよう。また明日、彼もまたそう言ったよう。
「おかえり」
 振り向けば、キアランがいた。襟元を直し、袖を整える。意外と几帳面な仕種を笑ってしまった。自分でもそれと気づいたのだろうキアランは、けれど何も言わずに鳩をほんのりとした眼差しで見やり、抱き取る。
「もしかして、あなたは――」
 手の中で鳩が温かかった。狼の匂いがするだろう自分を鳩は嫌がらない。息子だからなのか、それとも呪いのせいなのか、キアランには知れなかった。
「あぁ、ちょっと眠いな。少し寝かしてもらっていいか?」
「そうしてください」
「悪いな」
「いえ……ニトロ」
 焚火の残りの元、キアランは座す。もう薪は残っていなかったけれど、火を守るようなその姿はやはり昨夜の狼を思わせた。ニトロは眠たい眼差しをキアランに送る。シアンには三日程度どうと言うことはない、とは言ったが旅の途中でもある。さすがに少々疲労がないとは言わない。
「……ありがとう」
 シアンと共にいてくれて。キアランの言葉にニトロは答えない。黙って片手を上げ、その場に横たわる。わずかに丸めたニトロの背中、キアランの小さな笑い声がぶつかって跳ねた。
 ほんのしばしだった。まだ昼にもなっていない。ニトロは唐突に起き上がり、キアランを驚かせる。
「どうしました」
「うん? よく寝たぜ。だから起きた」
 うん、と伸びをするニトロに唖然とした。二晩、ニトロは眠っていなかったのではないだろうか。シアンと共にいてくれた彼は。とても解消するような時間ではなかったとキアランは思う。
「魔術師だからな。徹夜は慣れてるし、それにちょいとした裏技もあってな」
「裏技?」
「疲労回復を速める魔法ってのもあるんだよ、世の中にゃ」
 そのようなものなのだろうか。キアランは知らないのだから判断ができようはずもない。とりあえずは納得することにしたらしいが。
 事実、魔法としては存在している。だが、いまのニトロは使っていなかった。
 ――あんなもん使ったら明日の俺は使い物にならん。
 回復を速めるのはいいけれど、反動が強すぎる。その点ではいま一歩実用にならない呪文でもあった。時間ができたら少し構成を考えるか、ニトロは内心に刻む。前と同じく、昨夜の残りで少し遅めの朝食を取り、そして出発。
「そういや……あんたも寝てないんじゃないのか」
 歩きはじめてニトロはようやく気づいたのだから、やはりずいぶんとぼんやりしていたのかもしれない。キアランの足取りは確かで、睡眠不足の気配がないせいもあった。
「寝ましたよ。大丈夫です」
 狼の姿で、どこかで。ニトロは彼の言葉を容れたふりをして、それ以上は問わなかった。問いを拒むキアランの硬い気配。ニトロが何も言わずに足を進めるのを見て、キアランはほっと息をつく。
「あぁ、そうだ。ちょっと荷物、いいか」
 自分の荷物を持たせ、ニトロは中を探る。ほどなく見つけ出し、また歩きはじめた。彼が取り出したのは片方が丸く閉じられた硝子の管のようなもの。あるいはごく細い一輪挿し、とでも言おうか。キアランは何をするのだろうと思う。調査、と言っていたからその一環、なのだろうか。
「あ……!」
「うん?」
「硝子が……」
 筒だったものが、板になっていた。何が起こったのか全く理解ができない。ただ現象だけがそこにある。
「俺は水系だからな。硝子は扱いやすいんだよ。硝子は性質としては液体だからよ」
「液体……?」
「そう。どう見ても固まってるけどな。本質的には溶けたまんまってこと。ものすっごくゆっくり動いてんだ、これ」
「理解できません」
「大丈夫だ。普通理解できねぇよ」
 からりと笑ってニトロはまだ何かをしていた。歩きながら器用なものだ、とキアランは思う。本当はそのようなものではない。驚嘆すべき偉業とも言える技術だ。
 けれどニトロは無造作にひょいひょいと手を動かし、何かを作りあげて行く。二本あった硝子の筒、一本はキアランに持たせたまま。キアランはしげしげとそれを見ていた。なんの間違いもない、硝子の筒だった。
 伸ばして板にした方にニトロは細工をしていく。口の中でまるで文句を言っているかのよう。実際は詠唱だ。キアランが息を飲むのが聞こえる。
 ――そりゃ指に火がつきゃ普通は驚くわな。
 それでも驚くだけであるキアランが不思議だった。初対面の日、魔術師と聞いて警戒したのは呪師の影響なのか。呪われているのだから当然であったのかもしれない。
 灯した火にニトロは意図的に不純物を混ぜる。途端に黒い煙が上がりはじめた。そこに板をかざせばあっという間に黒くなる。見定め、今度は別の魔法を。
「鏡、ですか。ニトロ」
「おうよ。これを、こうして……っと」
 黒かった板はみるみると鏡になり、ニトロの手が紙でも折るよう動いたと思ったら三角の筒になっていた。内側が鏡張りになった黒い硝子柱のできあがりだった。
「ほい、こっち持ってて。そんでそれくれ」
 持たせていた方と取り換えて、ニトロはまたも詠唱。楽しくなってきた。元々遊びで魔法を使うのは一門の魔術師として珍しいことではない。花火だの噴水だの、いくらでも遊ぶのが彼らの一門だった。
 今度もまたキアランは我が目を疑ったらしい。先ほどまで自分が持っていた筒。瞬きの間に太くなっていた。と思ったら筒の先端、閉じた方をニトロは軽く手で撫でただけで切り落とす。
「ニトロ。元々これは、何をするものなんです」
「試験管って言ってな。液体を入れたり、そのまま火にかけたり。そういう実験の道具だな」
「こんな風に使うものなんですか?」
「いいや? 予備に持ってきてたやつだからな、ちょっと遊んでるだけだ」
 楽しそうなニトロだった。なにがなんだかさっぱりわからないながらキアランも興味が出てきた。これがいったい何になるのか。出来上がったとしても理解が及ぶ自信はなかったが。
 つい、と伸びてきた手に三角の筒を渡せばニトロは太くなった方の筒にそれをはめ込む。二重になったそれが何を意味するのかやはりまだわからない。
「んー、なんかなかったっけなぁ。あぁ……もう一回、荷物。ちょっとこっち持っててくれ」
 がさがさと荷物を漁りはじめたニトロに筒を渡され、キアランは歩きながらそれを見ている。やはり硝子の筒だった、少々複雑な細工をされた。いまここでそれがなされたことが不思議で、面白いと思う。
「ほい、いいぜ」
 言って筒を取り返したニトロは荷物の中から見つけ出した硝子の小さな飾り玉を細工しはじめた。小さな種ほどもない、きらきらとした硝子玉。
「綺麗ですね」
「だろ?」
 細工が終わったのだろう、筒の一方に色とりどりの玉を納めた硝子の薄板をはめ込み、反対にも板をはめ、小さな穴を開ける。
「あ……」
「わかったか?」
「万華鏡……こんな風にして作れるものでしたか」
「簡単だろ?」
「それはあなたが魔術師だからでは?」
「まぁな。でも道具があれば誰でもできるぜ。俺は道具が魔法だっただけだ」
 魔術師にとってはその程度のことなのだ、ニトロは笑う。故郷の呪師とは違う、とキアランは感じていた。呪師のことはほとんど知らないも同然。それでも尊敬すべき恐ろしい人たちだとは思っていた。魔術師は、違うのだろうか。
「あなたは、いつもこんなことを?」
 それではニトロにはわからないだろう。かすかに頬を赤らめたキアランを愕然とさせることをニトロは言った。
「いつも遊びに魔法を使うのかって? 俺の一門はよくやるぜ。もっとも、俺がこういうガキの玩具を作ったのはいつが最後だったかちょっと忘れちまったけどな」
 通じていた。無造作に、何事もなかったかのように。まじまじとしたキアランの眼差しを受け、はじめてニトロも自身のしたことに気づいたのだろう。顔を見合わせあい、そして何も言わずに苦笑しあう。
「イーサウの街には魔法学院ってとこがあるんだ。言ってみりゃ、魔法の学校だな。魔力のある子供らがうようよ遊びながら勉強してる」
 そこでは魔法を使って遊び道具を作るのは日常のことだ、とニトロは言った。キアランはそのような場所があるのだ、というだけで驚きだ。
「島には、勉学所、というものがあったけれど。そのようなものでしょうか」
「そうそう。たぶんそんな感じだ。やってたのは、読み書き算術?」
「それと、海の知識。潮目の読み方、海図の作り方」
「なるほど、さすがセヴィルだぜ。鉱山にかかわってないやつらは漁をしてるわけか」
 理解が早いな、とキアランは思う。話すのが楽しい、そんなことを思う。決して会話が得意ではなさそうなニトロだった。懸命に会話をしている、というわけではない。それでも途切れながら続いていく会話が心地よい。シアンもきっと、こうして彼との話を楽しんだことだろうと思うと胸が詰まりそうだった。
「ほい、できたぜ」
 ニトロから渡された筒は、綺麗に外装が整えられ、美しい玩具になっていた。振れば小さな音がする。中で硝子玉がぶつかり合う音は涼しい。子供のように覗いてみれば、色とりどりの世界が視界いっぱいに広がった。まるで絢爛と咲き乱れる花だ、キアランは思う。
「素晴らしい……」
「……シアンによ、やろうと思ってな。花だの空だの、いまのあいつには見せてやれないだろ?」
 だからせめてもの慰めに。ぶっきらぼうなニトロ。キアランは知らず足を止めてその背中を見ていた。振り返ったニトロの訝しげな眼差し。慌てて小走りになって彼を追うキアランをニトロは照れくさげに笑っていた。




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