夢のあとさき

 欠けはじめの月が昇ってきた。見つめるシアンの、その憧れの眼差し。うっとりと甘やかな吐息。ふっと目が笑い、ニトロを見つめた。
「毎晩、月が見えるなんて。とても素敵」
 ぞくりとした。予感が確信になる。それにシアンはそっと微笑んだだけだった。それから小さく呟くよう、話しはじめた。
「はいこうどうって、わかります?」
「ん……廃坑道、かな? 山を掘ったりした、その跡だ」
「僕がいたのは、そんなところなんだそうです」
 乳母やが言っていた、とシアンは言う。ただそこで生きていたと。ニトロは何を言うこともできずただじっとシアンを見ていた。
 まるで一世代前の魔術師のようだ、と。かのエリナードは魔力発現を機に地下貯蔵庫に閉じ込められた、と聞いている。カレンにも何かがあったらしいがさすがに生々しい思い出なのかカレンは語りたがらない。シアンは魔力があるわけではない。ただ、そうされたのだと言う。
「お嬢様が産んだからって、言われました。よく、わからない」
「俺にも、理解はできないな」
「でも、そういうものなんだそうです。そこはその坑道?が、崩れてしまって、天井がなくて。だから空が見えたんですよ」
 もう誰も来ない坑道だった。シアンの家であり遊び場だった。天井のないその「部屋」はシアンのお気に入り。太陽の光を浴びて遊んでいた。
「僕も、そういうものだと思っていて。だから……こうして旅に出て、とても驚いて、嬉しくて」
「……うん?」
「ほら、お月様。こんな風に全部が空だなんて、信じられない。とても、綺麗」
 壁に囲まれていない空は知らなかった、シアンは笑う。坑道の穴から覗く月は毎晩ではなく、太陽だとて真っ直ぐ入ってくるばかりではなかった。
「だからね、ちょっと、残念。お日様を体中に浴びてみたかった」
 くすりとシアンは笑った。照れくさそうに身をよじり、恥ずかしそうに。叶わない願いでも、口にしてみたかった、そんなシアンにニトロは言葉もない。
「乳母やと二人きりでね、暮らしてたんです。食事を持ってきてくれる人はいて、でも、誰も口をきいてくれなくて」
 それがつまらなかった、シアンは笑う。色々な人とお話ししてみたかったのに、と屈託なく。ニトロは腹の奥が焦げそうな思いでいるというのに。
「父さまも、会いに来てくれたんですよ」
「そう、なのか?」
「うん。乳母やが見つけて教えてくれたんです。あの方が坊ちゃまのお父様ですよって。父さま、隠れて覗いてたの。面白いでしょう?」
 直接には会いに行かれなかったのか、ニトロは思う。島主の屋敷に仕えていたキアラン。夜伽を命ぜられ、気づけば望んだわけでもない子が産まれている。
「ニトロ? どうしたの」
「うん?」
「なんだか笑っていたから」
「いや……親父さんは優しいな、と思ってな。気になって覗きに行ってたんだろ」
 言えばシアンの顔が輝く。話したことはほとんどない、それでも気にかけて見に来てくれることが嬉しかったと。
「母さまは……わからない。会ったけれど、女の人だなって、思っただけ。父さまはなんでだろう。覗きに来てくれたのが、とても嬉しかった」
 キアランの思いがそこにあったからなのだろう、ニトロは思う。不憫で、監禁されてただ生きているだけの息子を案じる彼は、どれほどの危険を渡ったのだろう。シアンを盗み出したことが切っ掛けで彼らは呪われたけれど、そうでなくとも早晩破綻は訪れた、そんな気がしてならない。
「シアン」
 呼べばつい、と顔がこちらに向く。微笑みが淡くて、夜の中に溶けていきそう。それを留めているのはおそらくシアンの思いだけ。
「世の中は色んなことがある。親子も色々だ。――ただな、お前のそれは、異常だぞ」
「そうみたいだね。父さまも、そう言っていた。僕にはわからないよ」
「……だな、悪い」
「気にしないで。僕は父さまと旅をして、ニトロに会って。とても楽しいよ。乳母やは死んでしまったけれど、僕はきっと何不自由なく育ったって、言うんだと思う」
 そんなはずがあるか。ニトロは叫びそうになる。空すら知らなかった子供のどこが不自由でないと。それをなだめるようなシアンの眼差し。
「僕は父さまの顔を時々見られて、それで楽しかったんです。あの人が父さま。僕を見に来てくれてる父さま。その父さまとこうしていま一緒にいて。願いは叶ったなって」
「願い?」
「うん。父さまとお話ししたいなって。一緒に遊びに行かれたらなって。出ちゃだめって、言われていたし、硬い柵があって、出られなかったんだけれど」
 なにがなんだかわからないうちにこうして旅をしている。それは自分の望みに適っているとシアンは微笑む。
「だからね、ニトロ」
 聞きたくない。咄嗟に思ってしまった。自分の友人はどうしてこう叶えにくい願いばかりを口にするのだろう。ぎゅっと握った拳をそっとシアンから隠した。
「だからね、今度は父さまの番。僕は充分楽しんだよ。父さまに、僕は自由をあげたい」
「お前に縛られてるとでも思ってんだったら勘違いだぞ?」
「父さまの気持ちは嬉しいよ。こういうの、罪悪感って言うんでしょ。本で読んだけど。父さまは悪くないよね? そんな風に考えてほしくないんです」
 廃坑道にどんな本があったのだろう。乳母が読ませたのか、誰かが持ち込んだのか。なるほど、少なくとも多少の学習はしているのだとニトロは思う。道理で何も知らないにしてはまともな言葉使いだったと今更思う。そんなことを思いつつ、掠めるよう金の巻き毛の頭を打つ。あ、と声が上がった。
「親子も色々。言ったよな? 確かにそういう状況で罪悪感を持つ親ってのもいるだろうさ。でもお前はキアランをちゃんと見てるか?」
 見ている暇があったのか。ニトロは言ってしまってから顔を顰める。廃坑道では会う機会すら少なく、こうなってからは昼と夜とに泣き別れ。言葉すらかわせない父子だった。
「キアランは、お前を助けたい。その一心でここまで来た。そりゃ罪悪感なんかじゃねぇんだろうさ」
「わからない。なんて言うの?」
「お前が可愛いんだろうさ。親父が息子を心配してなにが悪い?」
 シアンの綺麗な目が丸くなった。それからほんのりと蕩けて行く。異常な環境にはあった。それでも父の愛はあった。それをいま会ったばかりのニトロに言われ、シアンは天にも昇る気持ちとはきっとこんな気分だと思う。
「でも、ね……。父さまを助けて、ニトロ」
「努力はする。勘違いするなよ? せめて、お前とまともに話ができるように、俺はしてやりたいんだよ」
「あ……」
「こんなまんまは、嫌だろ? 親父さんになんか言いたいことくらい、あるだろ」
「あるよ。僕は幸せって、父さまに言いたい。父さま大好きって、言いたい」
 屈託なくシアンが笑う。こんなことを恥ずかしげもなく言えるのは人間でも本当に幼児のころだけ。それだけシアンは何も知らない。空恐ろしいような気がふとした。
 ――イーサウ帰ったら、ちょっと議長に話をしとくか。
 イーサウ自由都市連盟加盟都市でそのようなとんでもないことが行われていたと聞けば、あの議長はどうするだろうか。加盟各都市の自治は保証されている。だからこそ、議会は手出しがしにくい。それでも、連盟の名誉にかけて、正すべきではないだろうか。
 ――まぁ、それも魔術師の勝手……かな。
 人間社会にはそれなりに色々あって、正義感だけで物事は動かない。それを言うならば大陸魔導師会だとて同じこと。
「お前に、もっと早くに会いたかったよ、俺は」
 手を伸ばせば届く場所にもしもいたならば。廃坑道でシアンを見つけていたならば。この目でセヴィルの島主の不行跡を見ていたならば。仮定に過ぎない。それでもニトロは思ってしまう。自分の言葉ならば議会に通じる可能性があったのに、と。
「いまでも僕は嬉しいよ、ニトロ。こういうの、お友達って言うんでしょう?」
「……おうよ。俺は友達が少なくってな。お前が三人目、かな」
「そうなの? 僕はニトロがはじめて! 他の二人はどんな人?」
 ニトロはきらきらとしたシアンの目に苦笑しつつ話してやった。この世にいない友人と、イーサウに健在の友とのことを。
「いまも元気なやつはダモンって言ってな。調香師、わかるか?」
 首を振るシアンに調香とは何ぞや、を話すことになった。そのたびにシアンは楽しそうな目をする。知らないことがこんなにあるのだと。まるで知りたがりの魔術師だ、ニトロは小さく微笑んだ。もしもこれがニトロではなかったならばこう言っただろう、小さな子供のようだ、と。
「香油って言って、いい匂いのする油を作る。ちょこっとな、手首の内側とかにつけて香らせるんだ。花の匂いとか、木の匂いとか。色々な。ダモンはそれがとても上手で、たくさん作ってるぜ」
 商売、と言ってわかる気がしなかったニトロはそんな風に言った。イーサウで著名な調香師の一人となっているが、彼もまた過去には苦難を抱えていた人間。
 ――世の中、間違ってるよな。
 不思議がまだまだたくさんあって、この世は捨てたものではない。嘯くのはきっとそんな暗い部分をニトロもまた多く知るせい。ダモンや、亡くなった友人。そしてシアン。子供がそんな目に合うのはじくじくと体中が痛む。
「面白いね。そんなものがあるなんて、知らなかったな……」
「ま、普通の男はあんまり知らない。女の方が好きだからな、そういうのは」
「あ、聞いたことあるよ。贈り物をするんでしょう? 好きな人にって」
「ませガキめ。そういうのはまだ早ぇよ!」
 からりと笑えばシアンのくすくすと笑う目。早くはない。シアンの年齢ならば、恋の一つや二つ、していてもなんのおかしいこともない。それでも彼は。無垢な子供。無垢なまま、止まってしまった彼。
「ねぇ、ニトロ。少しは寝たら。僕は大丈夫」
「気にすんな。魔術師は三日やそこら寝ないで仕事すんのは普通だ」
 せめて話し相手くらいは。廃坑道から脱しても、シアンにはいままで話し相手などいもしなかった。夜の中、膝を抱えてじっと空を見ているシアンを幻視し、ニトロは笑って彼の知らない様々を話してやった。




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