夢のあとさき

 肉体的に頑健なのか、キアランはまるで遅れずニトロについてくる。もっとも、ニトロの足の強さも大したものだったが。魔術師でありながら肉体の鍛錬も怠らない一門に属しているおかげでニトロは研究ばかりをしている割に体が丈夫だ。丸一日かけて丘の麓までやってくる。このぶんならば明日の野営は竜の泉でできるだろう。
「そう言えばさ」
 ふと思い出してニトロは問う。キアランはだいぶ話すようになってきた。と言っても無口なのか警戒心が強いのか、さほどするすると会話が続くわけでもない。ニトロとしては心地よい感覚だったが。
「はい?」
「あんた、追手は?」
 だらしなく歩いているようでいてニトロは周囲への目配りを怠っていない。こちらは魔術師一人、と思っている。キアランが戦えるかどうかはわからなかったし、そもそも剣の一振りもない彼だ。何かがあれば守るのは自分、と彼は思っていた。
「ありましたが、いまは――」
 つまりそれは島を出るまではあった、ということか。問えばキアランは素直にうなずく。ニトロは怪訝な顔をしたらしい。キアランが首をかしげていた。
「いや、なんでそこでほっといたかな、とな。追手をつけるんだったら最後までつけるのが普通だろ?」
「そう、なのですか?」
「普通の追手ってのは相手を追い詰めて怖がらせた末に殺すもんなんだ」
 嫌な普通もあったものだが、そのようなものでもある。肩をすくめたニトロにキアランが低く笑った。
「でしたら……充分なのでしょう。僕らがこうして海を渡ってさまよっている。それで」
「ん?」
「島主様とお嬢様の前で、呪師が言いました。いずれ僕らは正気を失って死ぬと。それには時間がかかるけれど、そのぶん恐怖は募ると」
 ぎゅっと握ったニトロの拳がキアランの視界に。不意に胸に迫るものをなんと呼ぶのだろう。自分のことで憤ってくれる人がいたその驚き。
「詳細、聞いてもいいか?」
「と、言うと?」
「あんたとシアン、どうやって逃げたんだ?」
 そう言えば詳しくは話していなかったのだ、とキアランは小さく笑う。
「息子を伽に差し出せ、と命じられた」
 喉に絡んだキアランの声。ニトロは黙ってうなずく。すでにシアンが語った話ではあった。が、父の口から語られるそれは更に重い、そんな気がした。
「連れてこられたシアンを、僕は攫って逃げようとしました。――でも、果たせなかった。すぐ、捕まった」
 無理だろろう、とニトロも思う。小さな島とはいえ、全島を支配する島主がいる。何も知らない息子を連れてキアランが逃げおおせたはずはない。
「お屋敷に連れ戻されて、呪師が呼ばれました。呪われて、放り出されて。追手、なのでしょうね。追い払われるようにして、海を渡りました」
 あとはずっとさまよっていた、キアランは呟くよう言っては鳩を見やった。幸か不幸か、正気を失う恐怖とやらにはいままで遭遇していない。それを口にする気にはなれなかったが、だからといってこのままではおそらく死ぬのだろうとは理解している。せめて息子をどうにかしてやりたい。その気持ちだけ。気持ちだけがあっても。ふとニトロの視線を感じた。
「なにか?」
 眉を顰めたキアランの声。訝しいというよりは不快に多少は寄っている。その声音にニトロは自分が笑っていたのだと知った。
「悪い。人付き合いに慣れてないんだな、と思っただけだ」
「慣れては……いませんが……」
「あんた、言葉使いが安定しねぇなぁ、と思ってた。それだけだ。気に障ったなら詫びるよ。とりあえず追手がいないらしいのは了解。気はつけておくけどな」
 軽く片手を上げれば気の抜けた様子のキアランだった。何か問われるか、何か言われるか、そう警戒していたのだろう。ニトロはいまのところこれ以上踏み込む気がない。事情など問わずともすでに手を貸す気になっている。そんな自分を内心で笑った。
 野営の支度は簡単なものだった。何しろニトロがいる。厳重な警戒などしなくとも充分だ。獲物も道々兎を狩ってきた。香草も人参もまた見つけた。
「運がよかったな。ここら辺、昔は人家があったのかねぇ?」
「と言うと?」
 ニトロに渡された芋をキアランは剥いていた。人参をざくざくと切っているニトロに倣うせいか、あまり上手ではない。
「芋だよ、芋。それ、野生だと育たない種類だぜ。まぁ、ほとんど野生化してっけどな。いつか誰かが植えたのが、そのまま生き残ってたんだろ」
 それをこうして収穫し、いま口に入れようとしている。胸の中に湧き上がってくるのは世界の不思議と時間の流れ。いつか誰かが植えたものが、自分の身になる、それが胸を震わせる。
「面白いもんだよな」
 簡単なスープではあった。けれど一度ノーリーンに出向いたニトロだ。乾燥豆をついでに仕入れてきたから、具だくさんにはなった。最低限、キアランには食わせねばならない。この痩せ衰えた男を連れまわすだけでもかなりの罪悪感がある。キアラン自身は自分が窶れている、との自覚がないらしいが。
「ほら、どうだ?」
 乾燥豆を鍋に入れる前、鳩にも与えた。くるくる鳴いた鳩は喜んで嘴でつつく。その仕種の愛らしさ。ニトロは目を細めて見ていた。そうこうしているうちに鍋がいい具合になる。そろそろ夕暮れだった。
「……申し訳ない」
「うん?」
「僕を、気遣ってくれたのでしょう」
 器を押し頂き、キアランは表情を隠した。陽が落ちれば彼は人の体でいられなくなる。せめてその前に食事は済まさせたいニトロだった。気づいていたか、そう苦笑する。
「ま、食えるときに食った方がいいからな。あんた、痩せすぎだぜ?」
 さっさと食いな、言い放ってニトロも夕食にした。それにキアランがそっと微笑した気がする。蒼い夕暮れだった。次第に染まっていく空。赤味を増し、禍々しいほど。
「綺麗だな」
 けれど美しかった。何度見てもいつ見ても。たぶんきっとそれは一度として同じ空はないからだとニトロは思う。
「本当に」
 ふっと忍び込んできたキアランの声。今までで一番率直な声だとニトロは思う。しかし何も言わなかった。ただ黙って食後の茶を飲みながら二人で空を眺めていた。残光がそろそろ消える。
「――ニトロさん」
「おうよ。ってか、ニトロでいいからな? で?」
「え、え……? あぁ……、その。そろそろ、僕は行きます」
「ん? 見られるの、嫌か。俺だったら気にしないぜ」
 何事もないかのようなニトロに唖然とする。これから化け物が現れようとしているのだと、ニトロは理解しているのだろうか。真っ直ぐとその藍色の目を見る。理解した上で、気にしない。断言していた。
「驚くと、思うのですがね」
 苦笑しつつキアランは、けれど鳩を見やった。切なげに手を伸ばし、鳩はそれに気づかない。残光が消えた。
 瞬間、蕩けるようキアランの姿が形を失う。くたりと力を失った衣服の塊の中から素早く狼が抜けだした。
「おはよう、シアン」
 そのときには鳩もまたシアンへと戻っていた。そっとその膝先に狼が鼻を擦り付ける。シアンは微笑んで狼の首をかき抱いた。
「おはよう、ニトロ」
 にこりと微笑み、シアンは狼を放す。大きな獣だった。夜を切り出したかのような漆黒の体毛。艶々と光を放つ。
「人間の時のあの窶れっぷりはなんなんだよって言いたくなるくらいだよな。狼だったらすげぇかっこいいじゃん、お前の親父さん」
 金の鋭い眼光がニトロを見ていた。ニトロは内心でおや、と首をかしげるがシアンのくすりとした笑い声に笑みを返す。何はともあれいまはシアンだった。
 シアンは自慢そうに狼の頭を撫でていた。その彼の手を狼がちょん、と鼻面で押し、くるりと振り返っては夜の中に消えた。
「でしょう? 自慢の父なんです」
 狼の姿であってもニトロはまったく厭わなかった。それにシアンは微笑む。きっとそんな人だと思っていた。
「ほら、座れよ。夜は長いぜ」
「長いですね。だから、僕がいます。ニトロは眠って」
「気にすんなよ。話し相手くらいだったら俺でもいいだろ」
 狼のいた場所にシアンは座る。草が少し押し潰されていて、それだけが狼のいた名残。シアンは父の気配を求めるようそこに座した。ニトロは何も言わず黙ってキアランの服を畳んでやる。少し離れた場所に置きに行った。
「優しい人ですね、ニトロは」
「どこがだよ」
「だって、そうでしょう。父が人の姿に戻ったとき、ばつの悪い思いをしないようにって、そういうことでしょう?」
 衣服が脱げ落ちた、となれば人の体に戻ったときキアランは全裸だろう。着替えるときですら背を向けた彼だった。
「このあたりは道連れの気遣いってとこだな」
 たいしたことではない、ニトロは言うが、シアンが信じたとは思わなかった。そんなにきらきらとした目で見られると居心地が悪くてかなわない。茶を淹れてやれば嬉しそうに手の中で包んだ。
「あぁ、そうだ」
 思い出してニトロは荷物を漁る。子供のような彼のことだ、本当は甘い菓子の方が喜ばしいのだろう。けれど。考えた末にニトロはノーリーンで求めてきたものを取り出す。
「ちょっと遊ぼうぜ。ほら」
「あ!」
 ニトロは言い様に焚火の炎に手をかざす。途端に火の色が変わった。涼しい青緑のその色。シアンは息を飲んで見ていた。
「綺麗! これは、魔法?」
「いいや。お前でもできるぜ。これが種明かしだ。銅の粉をな、炎にかけるとこんな色になるんだ。やってみな」
 シアンの掌に粉を置き、その手を下からニトロは支える。そしてそのまま炎の上に。シアンがほんのりとした表情でニトロを窺い、そして炎に見入った。またも立ち上がる鮮やかな炎。
「こんな色にもなるぞ。こっちはホウ素だ」
 今度は萌葱色に。シアンはただただそれに見惚れていた。あんまりにも美しくて、何を言うこともできない。
「本当に、魔法ではないの? こんなに綺麗なのに」
「自分でやっただろ。魔法じゃねぇよ。銅の粉はわかるだろ?」
「ホウ素はわからない。それは、なに?」
「んー、お前が知ってるんだったら……そうだな。陶器の器、見たことあるか?」
「あるよ。とても可愛らしい器だった。乳母が僕のために隠してくれたの」
「つやつやしてただろ? そのつやつやを釉って言うんだが、その材料さ。珍しいもんでもないんだぜ」
 目を丸くしてもう一度炎に見入るシアン。こんなに美しいものは見たことがないと。その横顔に胸をつかれる思いでいた。
 シアンの汚れを知らない目を思う。あまりにも無垢な目を思う。嫌な話を聞きそうだ、そんな予感がした。




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