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野営地の始末をして出発だった。さすがにもう焚火の火など消えていたけれど、万が一ということもある。そのあたりニトロは神経質だった。 「今度こっちに来たときには焼野原、なんて御免だからな」 肩をすくめてキアランに言えば同感だ、と彼はうなずく。そうして旅をしてきたのだろう、彼らも。 「まわるところがある、と言っていたけれど……?」 どこへ、とキアランが問うたのは歩きはじめてしばらく経ってからだった。二人のあとさきに鳩が飛ぶ。 「あぁ、言ってなかったな。悪い。竜の泉に寄ってくよ。あの丘のてっぺんだ」 ニトロが指さしたのはこんもりとした丘だった。中々こちら側からのぼる機会がなくてニトロにとっても珍しい。 「さっきはその竜の泉に?」 「いやいや。あそこはなんにもないからな。泉しかねぇわ。ノーリーンの町に買い物に行った」 荷物をどこで調えたのかも言っていなかったニトロは内心で苦笑する。どうにも人付き合いが苦手で、こんな基本的なことすら言い忘れてしまう。だがキアランは気に留めた様子もなく、別のことに驚いていた。 「ノーリーンに……!」 野営地からはまったく見えない、しかし一番近い町。歩いて丸一日はかかると言っていたはずのその距離をニトロはいったいどうしたのか。魔法だとはわかっている。それは見当がつかないと同義だった。ノーリーンと竜の泉と。距離感すら掴めないキアランだった。その表情にニトロは解説を試みる。うまくできる自信はなかった。 「転移魔法って言うんだ。一瞬で、知ってる場所だったらたいてい行けるな。まぁ、距離の制限はあるけど」 そのあたりは腕の良し悪しだ、とニトロは言う。それにもキアランは首をかしげた。技量、というものがわからないのだろう。 「んー、イーサウの街、わかるか? 俺だったら今ここからイーサウまで跳べる。たいていのやつらだったらノーリーンが限界、かなぁ?」 首をひねっているからそれは自負などではないのだろう。ニトロにとってはただの事実なのだろう。だが驚異的な技量を持った魔術師なのだとキアランは察した。 ちらりと鳩を見る。楽しげに飛んでいる息子である鳩を。シアンはニトロの技量を見抜いたのだろうか、何も知らない子供だからこその直感で。キアランはふと思い、違うのだろうと思う。シアンが見抜いたのだとしたら、それはニトロという男なのだろうと。 「あんたらを連れて竜の泉まで跳ぶのも可能なんだけどよ」 「そう……なんですか?」 「おうよ。ただ、魔法に縁がないと吐き気に悩まされるからな。酷いのになると三日は苦しむことになる。非常時でもねぇのにそれは避けたいだろ?」 当然だ、とキアランは必死にうなずいていた。できれば遠慮したい。その中でもニトロにとっては便利な手段なのだろう、とは感じた。 「不思議、ですね」 魔術師と自分たちと。見ているものが違う、感じるものも違うのだろうか。それでもこうして手を差し伸べてくれた。 「だよな。だから世界は面白い」 キアランの言葉の奥に触れるようなニトロの答えだった。はっと顔を上げればどこかを見たままの彼。草原のあちこちに視線を向け、さも楽しげに目を細めている。 「あなたは、草原が珍しい? 僕にとっては、珍しいものですが」 「セヴィルは大草原なんてないだろうからな。俺はそこまで珍しくもねぇよ。なんで?」 「とても、楽しそうな顔をしていたので」 なるほどな、とうなずきつつニトロはどことなくくすぐったい。キアランの持つ、あるいは待たない、と言うべきか人の気配の薄さ。それがくつろいだ雰囲気を作っている。少なくともニトロは気負うことなく会話を続けていられた。 「だから、あなたは南の生まれなのかと。南の方の人はあなたのように浅黒い、と聞いていたので」 特徴的な容姿だった。白金の髪だけならば北のもの。けれど蜂蜜色の肌は南のそれ。ニトロは小さく笑って否定した。 「生まれはここからだと南だな。ラクルーサの北の生まれだ。言ってみりゃ大陸中央? 魔力が発現して、イーサウに移住したんだ」 二王国では魔法は嫌われている。だからだ、とニトロは言い足す。キアランはそれも知らなかったらしい。セヴィルのような隔絶した島に住んでいればそのようなものだろう。 「母親がラクルーサの人でな。父親は吟遊詩人だった。んで、その父親ってのが南の血の入った人でな。父方の祖母ちゃんってのが南の女だったらしいな。会ったことねぇけど」 母と出会った父は吟遊詩人を廃業してラクルーサに定住してしまったのだ、とニトロは言う。吟遊詩人、というものもまたキアランにとっては珍しい。セヴィルを訪れる吟遊詩人は滅多にいない。 「俺が草原を面白く見てんのは、実際に面白いからさ。見るたんびに違う。それでいて、季節が巡ってくるたびに、同じ芽が出て同じ花が咲く。世界はやっぱり不思議で面白い」 「世界は……面白い……」 「不思議だろ? なんでおんなじ花が咲くよ? 咲く時期だっていつも似たようなもんだ。それ言ったら太陽が巡るのだって不思議だ。なんでかなんか全然わかんねぇんだぜ?」 ふわりとニトロが両手を広げた。まるでこの世界を抱くように。風がニトロの腕の間を吹いて行く。すり抜けるようでいて、確かにニトロに抱かれた風だった。 「魔術師ってのはその不思議を追っかけるやつらのことを言うのかもな」 魔法のみに専心するのではない。否、結局はそれが魔道に繋がっていく。ニトロもこの不思議を見て、いつかそれが自分の魔道の何かになるだろうと感じる。 「目的の、竜の泉も不思議な場所でしょうか」 少しずつキアランの言葉が滑らかに出てくるようになった。とすればよほど人と話していなかったのだろう。はじめより丁寧な話し方になってはいるけれど、むしろそれは彼が緊張を解いた証のような気がする。雑談をしながらニトロはそんなことを考えていた。 「不思議と言えば不思議……いや、完全に意味がわかんねぇ不思議な場所ではあるんだがよ。そっちは依頼があってだな」 そしてニトロは竜の泉と蛇の沼にまつわる不思議をざっと話してやる。キアランはよい聞き手で、話している方も楽しい。 「干拓、ですか……。とんでもない話だな」 想像もできない、とキアランは言う。イーサウの人造湖、女神湖を見せてやったらキアランはどんな反応をするだろう。ふと思ったニトロは心の奥で苦笑した。 「一応はそういう依頼があってのこと。ただ、俺はそこまで手を出すかどうか、わからん」 「依頼……仕事では?」 「まぁな。ただ……これはすべての不思議に言えることだがよ。この不思議を解決しました。別のところに被害が出ました、の可能性は否定できないどころの騒ぎじゃない、よくあることなんだ」 瞬間ニトロの眼差しが精悍になった。キアランは知らずまじまじとその目を見る。深い、藍色とでも言うべきその目。無頼のような態度の向こう、ひどく真摯なものを見た。 「もしその可能性が高いなら、俺は調査結果だけを魔導師会に報告して、後は何もなかったことにする」 「依頼を果たせないことに、ならないのですか。それでは、あなたは」 「果たせてないよな、確かに。ただ……俺は魔術師が人間世界の破壊者になっちゃまずいと思ってる。発展すりゃいいってもんでもないとも思ってる。世界はあるがままで充分不思議さ」 地上で生きる人々の手で解決していいこと、してはならないこと。区別などつけようもない。わからないのならばわかるまで放っておく。それがニトロの誠意ある回答だった。もっとも、「人間社会」ではまた別の見解があることも知っている。 「そのあたりは俺じゃなくて上のやつらが折衝してくれるもんだからな。俺は気楽な身の上だしよ」 いまだ弟子の一人も取っていない。本来ならば師の名を継いだ身だ、そろそろ弟子を、と言われてはいる。が、少なくとも竜の泉の調査を終えるまでは待ってくれ、と言ってある。出歩き続けで弟子を放り出す師ではいくらなんでも問題があろうし、何より調査が半端のままでは師としての自信が持てない。 「あなたは、誠実な人だ。――息子が頼るのも、わかる気がします」 ぽつぽつとそんな話をしたニトロにキアランの真っ直ぐな言葉。話してしまった自分に驚いていたところにそれだったからニトロは無言になるしかない。それをキアランは咎めなかった。歩き続ける二人の間、風と鳩とが抜けて行く。心地よい沈黙だった。 「セヴィルにも、不思議はあるかい?」 咳払いを一つ。くすぐったくなってしまったのはニトロの方。小さくキアランが笑った気がした。痩せ衰えてはいるものの、キアランは健脚だった。ニトロに遅れずついてくる。もっとも緩やかな足を心がけてはいた。 「色々と。――もし、あなたは不思議を見たら、どうします」 「別にどうも? すごいな、不思議だなって喜んでおしまいかな」 肩をすくめた。今回のよう調査を頼まれれば受けることもないとは言わない。けれどニトロはただ不思議は不思議として享受したい質だった。 「この世界はまだまだ不思議だらけだ。既知世界の常識では計れないことがいくらでもある。だったら俺は面白れぇなぁって眺めてたいな」 その言葉をキアランはどう受け取ったのか。横目で見やれば目許にほんのりとした笑みと緊張。なるほど、ニトロは納得する。 ――まぁ、呪われてる身だと色々気になるわな。 日中は人の姿に。夜になると狼に。これでは人の見方、というものに不安を抱いても、それこそなんの不思議もない。 「……ま、色々な。考え方もあるし、感じ方なんざ千差万別。不思議だから怖いってやつもいるし、知らないものは全部悪って言い切るやつもいる。――俺はそれじゃつまらんと思うだけだな」 「つまら、ない?」 「だってそうだろ? そうやって世界を拒めば自分で世界を狭くする。見て知って感じて。自分で確かめて、それで自分の心を決めたい」 「見た上で悪というものも?」 「あるんじゃないのか? あってもいいし、それはそれだろ」 ただそんなものにお目にかかったことはない、とニトロは大らかに笑った。そうする自分に不思議を覚えつつ。 ――なんかうちの連中にも言ってねぇようなこと話してねぇか、俺。 魔術師ではない行きずりだからか。そうも思うが違うだろう確信がある。あえて言うならば相性の良さ、とでも言うべき何かが。内心でそっとニトロは肩をすくめた。不思議ならばそのまま放置。自分の言葉を確かめるように。 |