夢のあとさき

 まだ迷うことがあるのだろう、一瞬キアランの眼差しが曇る。そして意を決したよう、ニトロに向かって目を上げた。
「足手まとい、と言ったばかりではあるけれど……。何もしないでただ助けを求めることは、したくない」
 痩せ衰えた頬、枯れた手。その有様でよくぞそんなことを言えるものだ、ニトロは思う。正直に言ってイーサウの物乞いの方がまだ太っている。ニトロはにやりと笑った。
「いいね、そういう気概は嫌いじゃない」
 助けると言ったからには助けるつもりではいる。シアンの頼みを容れたのはこの自分。だが、だからと言って助けろ、と開き直られてしまってはつまらない。
「だったらあれだ。ちょいとまわるとこがあるって言ったよな? その手伝い、してくれ」
「――どんな?」
「強いて言えば荷物持ち。あと俺の指示に従ってあれ取ってくれとか、そういうの」
 そんなことでいいのか、とはキアランは言えない。そんなことでもさせてくれる、そう言ってくれたニトロがありがたい。黙って頭を下げたキアランにニトロは苦笑していた。
「じゃあ……そうだな。昼くらいまで待っててもらえるか? 仕入れに行ってくらぁ」
 待つのはかまわないが彼は何をしにどこへ。まったくわからないながらキアランはまたも黙ってうなずいた。その目が見開かれる。
「あ……」
 いまそこにいたニトロが消えて行った。まるで幽鬼が朝日に当たるかのように。唖然とするような、これはなんだろう。
「魔法、なのかな。これが?」
 呪師の存在は知ってはいても、呪いをかけられたあの場ではじめて呪師にまみえたキアランだった。魔法というものに縁はない。
「おいで」
 呼べば鳩はぴょこん、と跳ねるようにキアランの下に。シアンとしての意識はいまここにはない。これは鳩であって息子ではない。それでも話し相手はこの鳩しかいなかった。
「君はあの人に何を言ったんだい?」
 どうしてこんなにもあっさりと助けの手を差し伸べてくれるのか、それがキアランにはわからない。街の人はそういうものなのだろうか。まさか、と思う。
「彼の人柄、なのかな。君はそれを見抜いた?」
 手の中に鳩を抱けば仄かに温かい。鳩も安らぎに満ちてくるると鳴く。シアンと話したことが本当はあまりないキアランだった。
「……無垢な子供の目、か」
 ニトロの言葉が突き刺さっていた。荷物もそのままに無防備に留守をしてしまったニトロ。間違いなくここで自分が待っている、と信じてでもいるようなその姿。キアランは黙って首を振る。朝の草原に風が渡っていく。
 シアンは確かに無垢な子供だった。なにも知らないことを無垢だというのならば正に。何を見ることも許されず、何を知ることも認められず。
「君は、何一つとして幸せを知らない」
 あのまま島主の娘の毒牙にかかっていた方がまだよかったのだろうか。キアランは迷い続けている。こうして呪われてさまよい続けることにシアンの幸福はあるのだろうか。
「あ――」
 ちょん、と指を噛まれた。見上げてくる鳩の眼差し。優しい息子の目を思う。何も知らない無垢な目を思う。
 島主の娘が産んだキアランの息子は、父の顔を知らずに育った。母の顔も知らずに育った。セヴィルには多くの坑道がある。いまは廃坑道になったものも。
 シアンはそんな廃坑道の一つで育った。天井が崩落し、多くの犠牲者を出した坑道だ。シアンにとっては天高くそびえる丸い空。坑道の崖のような壁に囲まれて、その中でシアンは育てられた。無口な乳母と二人きり。廃坑道の中で遊び、その暗い道だけが彼の知る世界。崩落した天井から差し込む光だけが彼の知る太陽。
「君は――」
 島主の屋敷に勤めていたキアランは、何度か隠れてシアンの様子を窺いに行った。会いたいと言って認められるわけはなかったし、そんなことを言えば島主から激怒の雷が降ってくる。それだけならばまだしも、シアンの命にすらかかわる。
 だから隠れて見に行った。乳母と二人、頑丈な鉄の柵の向こう、朗らかに笑っていた息子を見た。無口な乳母は何を語るわけでもなかったけれど、数度の訪問のうちキアランも気づいた。
「君の乳母は優しかったかい?」
 島主の命令だったのか、娘の命令だったのか、それはキアランも知らない。乳母は嬰児をただ育てていただけだった。それが次第に顔に和らぎが生まれた。シアンの言葉に笑うようになった。
 あんな暗がりで二人きり。廃坑道に灯りは少なく、互いの顔すら見分けられないことすらあっただろうに。
 何も知らない、幼子のままのシアン。いったいどんな気紛れか、十八歳になったころ、娘に召された。自分が産んだはずの息子を見る彼女の目。その場にいたキアランはぞっとした。
「世の中の母親というものは、あんなものではないんだよ。もっと温かくて、優しいものなんだ。本当は、君を守ってくれるはずの人なんだよ」
 鳩はまるでシアンのよう小首をかしげて手の中から飛び立つ。まるでそんなことはわからない、とでも言うように。
「エヴリル様は……おかしいんだ。もっと早くに、君を連れて僕は逃げるべきだった」
 キアランもまたある意味では犠牲者だった。島主の館に勤めてすぐ、エヴリルの目に留まった。その晩には寝台に放り込まれた。なにがなんだかわからないうちに伽を務めさせられ、そして島主はそれを無視し続けた。エヴリルが赤子を孕んでもなにもなかったことにされ、産み落とされたシアンはあのように廃坑道で育てられた。時折キアランは思う。なぜシアンは生かされたのだろうと。島主はなかったことにしている赤子だ。そのまま闇に葬られても少しもおかしくなかった。事実、「いなくなった赤子」は他にも多くいる。エヴリルが育てたいと言ったわけでもない。
「まさかね」
 シアンは見目形のよい赤子だった。生まれて一月もしないうちにエヴリルの下から廃坑道に移されたけれど、そのときにはもう母譲りの金髪が見てとれた。長じれば母より見事な巻き毛になるだろうと思ったとおり、シアンは可愛らしい少年だった。母と同じ薄青い目も、シアンのそれは優しい。エヴリルの獲物を狙う眼差しではない。
「島主様は、どうして」
 娘をそのままにしているのだろう。キアランも思う。自分一人が犠牲者か、と言えばそのようなことはまったくない。もしもエヴリルがキアランを見染めたがゆえの暴挙、であったのならばまだわかる。
「でも――」
 キアランが伽を命ぜられていた間にも複数、いわば同僚、とでも言うべき男たちがいた。いずれも見目麗しい男たち。キアランはそこに自分が入っていることにいつも不思議を感じていたものだった。
 彼自身がたとえそう感じていたにしろ、健康であったころの彼は美しかった。若々しい肉体とどちらかと言えば寡黙で毅然とした物腰。黒髪に金の目、というのも妖しく美しかった。いまは旅と呪いに窶れくたびれ果てた彼だったけれど。不意に鳩が楽しげに鳴く。顔を上げたキアランは太陽が高く昇っていることに気づいては苦笑した。ただひたすらにじっと座っていた自分の馬鹿らしさ。
「あ」
 ぽかん、と声を上げる。そこにはニトロがいた。戻った、と言うべきなのだろうか。ニトロもまた、驚いた。よもや出かけたときと寸分違わないキアランを見るとは思いもしなかったものが。
「えー、あー。ただいま?」
 何を言っていいか迷うニトロにキアランも戸惑う。喉から先に声が出ず、出すべき言葉は見つからない。数瞬の逡巡の末、やっとわかった。
「……おかえりなさい」
 互いに顔を見合わせ、首をかしげ合う。何かがおかしいのだけれど、少なくとも言葉の上では何も間違ってはいない。鳩がおかしそうに鳴いていた。
「あー、とりあえず着替えと道具類な」
 ひょい、と荷物を渡されてキアランは目を見開く。大ぶりな荷物の中身がもしいま言った通りのものだとするのならば、いったいどれだけの金を彼は使ったのか。
「気にすんな。働いて返してもらうからよ」
「返し切れる気が、しない」
「俺にとっちゃ荷物持ちしてくれる程度の金だからな」
 誰を雇ってもその程度だ、とニトロは言い放つ。事実だったがキアランはそうは取らなかった。眼差しがわずかに険しい。健康体であったころは毅然とした男だったのだろう残滓をニトロは見る。
「正直、俺は金持ちだぜ? 使う当てがあんまりないからな。ほとんど研究に消えるけど、それだってたかが知れてる。あんた一人養っても財布は全然痛まねぇわ」
「そんな」
「ん、違うか。あんたら父子養っても、だな。親子揃って面倒見たって別にどうってことはねぇな。だから、俺にとっちゃその程度。金の価値ってのは世間が決めるもんでもあるんだろうけどよ、それを俺がどう考えるかは俺次第だ」
 肩をすくめたニトロにキアランは何を言っていいかわからない。とんでもない恩義だとはわかる。が、ニトロにとっては真実その程度なのだともわかる。
「正直に言えば、俺が嫌なんだよ」
「……なにがです」
「それ。くたびれたかっこした男連れまわして荷物持ちさせるのかよ? 俺は雇人の着るもんの面倒も見てやれないダメ男ってか? 冗談じゃねぇ」
 せめて見てくれくらいはなんとかしてくれ。ニトロの放言にキアランは呆気にとられ、ついで笑う。ここまで利己的なことを言われるとかえってすっきりとした。その中に気遣いを聞き取れないほど悪い耳はしていなかったが。
「ありがたく、お借りします」
 荷物を押し頂けばニトロの嫌そうな顔。主人と従者扱いでは不満がある、と無言で言う彼。ただの旅の道連れ、ついでに手伝い、それでいいと。
「んじゃ、着替えて飯食って、出発しようぜ」
 わかった、とキアランはうなずき背を向ける。さすがにこの場で着替えるのは抵抗があった。草の中に身を隠すキアランにニトロはつい微笑んでしまう。
「お前の親父さんは意外と可愛いとこあんのな?」
 鳩がぴょい、とニトロの肩に止まり耳元でくるくる鳴いた。まるで本当に、と言っているようでニトロも楽しい。
 ニトロ自身、身なりにさほどかまう質ではなかったから、キアランのために求めてきたものも実用的な旅の衣服だ。元々着ていたものは袖はすり切れ裾はほころぶ有様だったから、旅の過酷さをニトロは思う。ふと眉を顰めた。
 ――こいつら、どんだけ旅してたんだ?
 呪われて、親子二人で。ニトロはしかしその疑問を誰に問うこともしなかった。




モドル   ススム   トップへ