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翌朝、焚火のところに戻ったキアランは呆然と立ちすくむ。長々と体を伸ばして眠るニトロがいた。朝風に白金の髪がきらきらと輝き、傍らで鳩が草の実と一緒にその髪を啄む。 「あ……」 何が起こったのか、よく理解できなかった。いまここにニトロがいる、それがまず理解できない。キアランはじっと鳩を見やれども、鳩の方は何をするでもなくただ草の実を食む。 「ん? あぁ、朝か。おはようさん」 視線に気づいたニトロだった。これほどあからさまに凝視されればいやでも目覚めるというもの。そもそもニトロは熟睡などしていない。ほんのしばし目を閉じていただけ、というのが正しかったのだから。だがキアラン自身はそんな自分の眼差しに気づいていない様子だった。 「座れば? 飯にしようぜ。って言っても、携帯食しかねぇけどな」 言いつつニトロはさっさと石を熱する。疲れはまだないに等しい。おかげで今朝も快適だ。手早く茶を淹れて、荷袋から携帯食を取り出す。 「ほれ」 半ば放るように手渡せば、唖然としたまますとんと腰を落としたキアランがそれでも受け取った。まじまじと携帯食を見ているのは、見慣れないせいか。 「焼き麦を飴で固めてあるんだ。自家製でな。俺の兄弟子が料理上手でよ。それだけじゃうまくないって、干し果物だの木の実だのも入れてある。けっこういけるぜ」 かりり、歯を立てれば香ばしさが口いっぱいに広がる。兄弟子のお節介は癇に障るけれど、こういうことはありがたい。心の中、素直にイーサウに向けて礼を言う。二年前、大量に作ってくれた携帯食だった。魔法で小さくし保存していたこれもそろそろ尽きる。 キアランは無言で食べていた。ちらちらと鳩を見ているけれど、ニトロに何を問おうともしない。 ――色々言いたいことも聞きたいこともあるはずなんだけどなぁ。 そんなことを思う自分は意地が悪いのだろうか。内心で首をかしげるけれど、意地が悪い、と言うよりは自分でもどう話を持って行けばいいのかわからないだけだと思う。それを友人は「根性がねじ曲がっているからだ」と評したが。 「詮索する気は、なかったんだけどな。――あんた、これからどうするのさ?」 渋々話を持ち出したのはニトロの方。このまま黙られたままでは埒が明かない。食事を終えたら、では、と言って別れるだけになってしまう。 「これから?」 一瞬にしてキアランが警戒をあらわにした。ニトロは肩をすくめる。たいしたことは聞いていないだろう、とでも言うように。そう解釈してもらえるとは思わなかったが。 「いや……。詮索する気は、なかった、と、あなたは言った。それは」 どういう意味だ。以前はなかったのに、なぜ今その気になった。金色の目が射抜くよう。ニトロは気にした素振りもなく残りの茶を飲んでいた。 「シアンに会ったぜ」 ただ、その一言だけ。それですべてが解決するだろう、と。事実、そのとおりだった。ぎょっとしたキアランは腰を浮かせかけ、手を鳩に伸ばす。けれど鳩の方がわずかに羽ばたいてその手を拒んだ。 「あ……」 そんなに頼りない顔をするものではない、と言いたくなってしまった。頼られているのはキアランの方だろうに。 「話はだいたい聞いたぜ。で、だ。シアンに頼まれ事をした」 「……なにを」 「あんたを助けてやってくれってよ」 「なぜ」 「そりゃ、素人にどうにかできる問題じゃないからだろ」 「違います。なぜ」 訥々とした言葉ながら、鋭さを増していた。あるいは逃亡に入る前のキアランはそうであったのか。ちらりと鳩を見やったニトロだったけれど、鳩はなんの反応もしなかった。 「あんた生まれたばっかみたいな無垢な目ぇしたガキにお願いって言われて拒んだら俺は極悪人だろうが?」 「戯言でしょう」 「でもねぇよ。実のところ我ながら信じがたいが本心だ。だいたいおっさんがどうかできる問題じゃねぇだろ? 逃げ続けてどうするよ? シアンと一緒に死んでやるくらいしかできねぇだろうが」 「それならばそれでいい」 「だったら死ねよ。今ここで。なんだったら助けてやろうかい?」 「な……!」 「これから先、まだまだ大変な思いをすることなんかねぇだろうが? どうせ解決なんかしねぇんだ。死ぬんだって腹くくってんだったらここで死のうが来年死のうが一緒だろ。助けてやるよ、ほれ」 すらりとキアランの目の前に剣が出てきた。青碧の、見たこともない剣。ぎとぎとと鋭い刃に目が釘づけになる。軽い音がして、刃の上、鳩が止まった。ニトロをただじっと見上げる。 「俺を非難するんじゃねぇよ。死ぬって決めてるんじゃ助けようがねぇっつの」 鳩に向かってニトロはむっとした口調を隠しもせずに言った。それにキアランは呆然とする。確かに彼はシアンに会ったのだと。 「……息子は、なにを?」 「だから」 「僕は……こうなってから、息子と話せたことが一度もない」 ニトロが剣を引くと同時に鳩は器用に飛び立ち、キアランの肩先にと羽を休めた。くるくると鳴く声はキアランを慰めるかのよう。 「そりゃ、ないだろうな。シアンがそうなってる間、意思の疎通はできなそうだしよ」 漠然と通じてはいるらしい。が、シアン自身、自分が鳩にと変化している間のことは覚えていない、と昨夜言っていた。 「だから、息子は」 「セヴィルの呪師に呪われた。父でも自分でもどうにもできない。だから助けてってよ」 「それをなぜ、あなたが手を貸してくださる」 「んー。魔術師の倫理観ってとこかな」 言いながらニトロは改めて茶を淹れた。キアランにも渡してやれば素直に飲む。鳩は安堵したのだろうか。二人の周囲で遊びはじめていた。確かにそこに「人間」の意志はない。 「誤解を招く表現だろうがな、うちの師匠も四六時中いわゆる呪いをかけちゃいる」 ぎょっとしたキアランだった。当然だろうとニトロも思う。呪いの張本人の手を脱して、別の虎口に入ってしまったかのような、そんな気がして当たり前だ。 「ちなみに俺たちの間ではそりゃ『制約の呪文』って呼ばれてて、相当に強力だ。師匠は相手みてかけてるぜ」 「たとえば」 「更生の余地のない犯罪者。ただし殺せない、とかな。あとは気安く死にたがる馬鹿を死なせないように、とかな」 「それは、呪い……?」 「一応な。同じ呪文ではある。で、そこであんたがたの呪いだ」 そもそもとニトロは言う。自分は鍵語魔法の使い手であって、セヴィルの呪師とは系統が違う、と。 「系統って言ってもわかりにくいか。ちょっと違うってのだけわかっててくれればいい」 ニトロも呪師なる存在がいる、とは知っていても実際に会ったことがない。それだけ少なくもあるし、隠れ住んでもいる。 「うちの系統の魔術師がやったことだったら今ここで解呪することも可能だ。俺も腕はいいんでな。でも、そうじゃないとなるとちょいとばかし調査がいる」 精神操作系の呪文は殊に、不用意な解呪は容易く廃人に繋がる。制約もその一種であれば、呪師の呪いも同系統に属すると考えるべき、とニトロは思う。 「――あなたは、シアンと僕が呪われるに値したとは、考えないのですか」 「考えないね。理由? 簡単だ」 顔の前に一本、指を立ててニトロは内心で顔を顰める。どうにも教授をしている気になってしまったせい。教えるのは性に合っていない。 「俺たちの魔法ではって限定がつく。呪師のそれは違うって可能性は否定はしない。ただ、おんなじ生き物のすることだからな」 ニトロはそこまで劇的に違う、とは思っていない。なにしろ鍵語魔法では神官の扱う神聖魔法すら同じ魔法の一種、と捉えることが少なくない。 「獣への変化は、確かに俺にもできる。自分が変わることも、誰かを変えることも。ただし、長時間はやらない」 「なぜ」 「人間性を失うからだ。たとえどんな魔法の使い手であろうと、それを理解してないとは俺は、思わない。少しずつ理性を失って呪いの中で死んで行けってことだぜ? 残酷なことをするもんだ」 ニトロはキアランを見ず、シアンである鳩を見ていた。朝日が昇ると同時に微笑みのまま、顔色一つ変えずに鳩へと変化した彼を。諦めきったというのとは違う。受け入れているわけでもない。ただ、シアンの目には透明な笑みだけがあった。 「そういうことをされた場合、俺はやられた方が被害者だと思うことにしてる」 あんただ、とニトロはキアランを指す。それから鳩を。いまはただ朝の草原に遊ぶ鳩を。可愛らしい鳩ではあったけれど、人間性の欠片もない鳩を。 「ただ……疑問はある」 キアランはじっとニトロの話を聞いて考え込んでいるようだった。それでいいとニトロは思っている。シアンのよう真っ直ぐと信頼されても困る。とはいえ、これを口にすることにためらいがないわけでもない。シアンからの頼まれ事を果たせなくなる懸念。そのときはそのとき、と覚悟を決めた。 「ところでな、あんた。昨日はどこ行ってた?」 「どこにも」 「即答しすぎだっつの。だいたい結界張ったのは俺だぜ? 出てきゃわかるわ。つまり、こういうことだな? あんたもシアンと一緒だ。変わってる間はどこで何してるかわかんねぇと。昨日の狼は、あんただったわけだ」 シアンが人を襲わない、と断言していた狼。聞きそびれていたことを確認するつもりでニトロはじっとキアランを見る。キアランもまた、ニトロを見返した。その目にどんな感情があるのか、ニトロにはわからない。金の目は、なにも映していないのに、息子同様に真っ直ぐだった。 「とするとだ。あんたがたを呪った呪師に疑問が残る」 「待ってください」 「ん?」 「……あなたは、僕が恐ろしくないんですか」 「シアンがあの狼は人を襲わないって言ってたしな。だいたい襲われても対処はできるし。別に?」 きょとんとしたニトロにキアランは毒気を抜かれた。肩から力を抜けば、体に痛みが走る。相当に緊張していたらしい。じっとニトロを見る。不思議な人だと思った。鍵語魔法の使い手、というのはわからない。が、こんな魔術師がいるのだ、とは思っていた。 |