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なんの警戒心もなく、そっと微笑み立つ青年。ようやく少年の域を超えたか、という若き男だった。甘やかな金髪は緩い巻き毛、氷のような薄い青の目は、けれど優しい笑みに緩和されて少しの鋭さもなかった。ニトロの眼差しにもう一度彼は微笑みを向ける。 「……座れば?」 ぶっきらぼうになったのは、あまりにも驚いたせい。手の一振りで、いつの間にか気づかず張っていた結界を解除する。ふとニトロは気づく。青年は結界の存在を感知して、その寸前で止まったか、と。 「いいんですか?」 言いつつ屈託ない青年はニトロの隣に腰を下ろした。あり得ない姿だった。とても旅してきたようには見えない。少々埃に汚れているものの、ただそれだけだ。 「なにが?」 ニトロは苦笑する。己の馬鹿さ加減に笑い出したくてたまらない。が、いまは狼が気にかかる。勘が鋭いのだろうか、青年はそれに気づいたと見え口を開く。 「あの狼は人を襲いません。大丈夫ですよ」 「ほう?」 「――不思議な人ですね、あなたは」 「なにがだよ」 「僕の言葉をあっさり信じてくれる」 疑いもあらわだったはずの声音。けれどニトロは不思議と青年のそれは真実だと悟っていた。どこかがもぞもぞと落ち着かない。それにも笑えてしまう。 「どうしました?」 穏やかな、年齢不相応な口調だ、とニトロは思う。それだけ苦労をしているのかもしれない。魔術師ではない、それはわかっている。ニトロ自身、外見と実年齢が一致していない。青年はそうではない。 「改めて自己紹介と行こうか? あっちのおっさんには言ったけどな。ニトロだ。よろしく、鳩さん」 「あ……」 驚かされどおしでは魔術師の一分が立たない。にやりとしつつ片手を差し出したニトロに青年は晴れやかに微笑んだ。その片手がそっと取られる。羽でも触れたかのような軽い感触だった。 「鳩のシアンです。よろしく、ニトロさん」 「ニトロで結構。シアンか、いい名前だな」 「ありがとう」 にこりと笑う青年にニトロは苦笑する。こうも屈託がないと信用されでもしているようで落ち着かない。 「よく信じてくれましたね」 が、シアンは逆のことを言う。思わず首をかしげるニトロにシアンは目を細めていた。膝を抱えて座る態度が子供のよう。無邪気で、穢れを知らない。 「なにが?」 「僕が鳩だって」 「鳩だって先に言ったのはこっちだろ。――それにうちの師匠筋に似たような話があってな」 人間が別の生き物に変えられている、あるいは変身をする。魔術師としてはさほど珍しい話でもない。もっとも、長期間のそれは人間性の喪失に容易に繋がるため、話として珍しくないだけであって、実行する魔術師は多くはない。 「そう、なんですか?」 けれどシアンにとってはそうではなかったらしい。世にも稀な経験をしている、と顔に書いてあった。常人にとってはそのようなものか、ともニトロは思う。 「キアランのおっさんはあんたの彼氏?」 鳩に変えられたのか自分の意志かは知らないが、そうして旅をしているのならば恋人同士であるのかもしれない。ニトロの脳裏には当然にしてフェリクスとタイラントのことがあったからなおさらだった。 「いいえ、父です」 シアンは面白そうに微笑み首を振る。まるでそんな誤解は楽しいものだと言いたげに。 「悪い」 「気にしないでください」 くすくすと笑う青年にニトロは毒気を抜かれっぱなしだった。キアランは放っておくのがためらわれる男だったが、シアンはどうだろう。無理矢理付き合わされても気にならない、そんな青年かもしれない。 「そんで、鳩さん。なんか俺に話でもあるんじゃないのか?」 ならばさっさと本題に入るに限る。ニトロは不愛想に言い、しかしそれでシアンが気分を害するとは思わなかった。 「本当に、不思議な人。僕が顔を出しても、驚かなかったし」 「驚いてはいたぜ? 元気な幽鬼がいたもんだ、とは思ったからな」 「それで済ませてくれる人だから、不思議なんです」 「魔術師なんてそんなもんだぜ。茶でも飲むか?」 ありがとう、呟くよう言いシアンは膝を抱えたままニトロのすることを見ていた。日常の、こんなことが楽しくて興味深くてたまらない。そんな顔をする。 「ほら」 淹れてやった茶をシアンは両手で抱くように持っていた。温かさが嬉しい。たったそんなことを喜ぶ顔。本題はなんだ、と再びニトロは促さなかった。 「あなたに……父をお頼みしたくて」 「おっさんを?」 「えぇ。僕にはもう、どうにもできない。こうしてこのまま父と二人、さまよっているだけでは……」 ぬくもりが冷えていくような暗い声。シアンはそれでも無理に微笑む。子供に嫌がらせをしている気分になってニトロは顔を顰めた。 「ちょい待ち。まず、何がどうなってんのか話してくれ。そこからだ」 「あ……ごめんなさい。話が下手で。――人と、話す機会がなくて」 「気にすんな。ここまできたら乗り掛かった舟……いや、無理やり乗せられた舟、だな。岸までとりあえずはつかないとにっちもさっちもいかねぇんだったらそうするまでさ」 肩をすくめたニトロにシアンは莞爾とした。頼られてしまうとそれはそれで胸が痛い。自分に何もできなかったらどうしよう。思いはした、けれどニトロは別のことも考える。何も自分一人で解決しろ、とは誰も言っていない。有能で経験豊富な魔術師にも常人にも異種族にも心当たりはいくらでもある。ならば腹を括って話を聞くだけ。 「ん……。キアランのおっさんとは父子って言ったか。だったらセヴィル島の出身か?」 ふと思いついてニトロは問う。実はキアラン、と聞いたときにも思ったことだったが、彼には問いにくかった。あの重たい雰囲気が問いを封じてもいる。が、幸い息子のほうは屈託がない。詮索するつもりはなかったから、嫌なら答えないでいい、とは言い足した。 「さすがですね。都会の魔術師とは、そういうものなんですか?」 大らかな感嘆に腰の据わりが悪くてかなわない。たぶんそれほど特殊な知識でもないだろうと思うのだが。 「さぁ、どうだろうな? 地域独特の名前ってのはあるし。キアランってのはセヴィル島の名前だろ」 「それをご存じだからすごいなって。――えぇ、僕たちはセヴィルの出身です。父は島主様のところにお仕えしてたんです」 それがなぜこんなところをさまよっているのか。追われている、感じたのは間違いではなかったらしい。何やら面倒事に首を突っ込んだ気がしたものの、すでに遅い。引く気がニトロにもなかった。 「ですが、僕のことで父は追われて」 そのときだけシアンの表情が曇った。太陽に雲がかかったような翳りぶり。申し訳なくなるような、なんとしても笑顔を取り戻してやらねばならないような。 ――俺は教師向きじゃねぇと思ってたんだけどなぁ。 ニトロは内心でぼやいてしまう。兄弟子は独り立ちするや否やさっさと教職についたけれど、ニトロは年少者の教導には向いていない、と研究三昧の日々だった。それなのにシアンの無垢さを守りたくなっている。 ――実は神官向きだったか? 盛大に溜息をつく。心の中で。イーサウに帰ったら付き合いのあるエイシャ神殿にでも顔を出すか、とも思いつつ。 「追われた理由は?」 「……気持ちのいい話じゃないんです。いいですか?」 「普通、その手の話は気分が悪いもんだって相場が決まってる。気にすんな」 肩をすくめるニトロにシアンはほっと微笑んだ。そして父とこうなった理由を語りはじめた。 「僕の見た目、どう思います?」 「ん? 美人さんだと思うぜ。鳩になっても美鳩だったしよ」 なるほど、そちらの話か、思ったニトロは茶化す。シアンが気にせず話せるように。そんなことができるようになっている自分に少し驚きつつ。 「ありがとう。――原因はたぶん、それなんです。僕には、よくわからないけれど。――僕が島主様のお嬢様の目に留まったのが、原因、みたいです」 「みたい?」 あまりにも現実感の薄い声音だった。シアン自身がよく理解していないのだろう。シアンも父に聞いた話だから、と首をかしげつつ語る。 「僕はずっと島主様のところ、というか……島主様が持ってる場所? そんなところで育って。だから外のことがさっぱりわからなくて。お嬢様から伽を命ぜられたら、父がどうしてもそれはだめだって」 なぜだめなのかシアンはわからない、と言う。自分が理解していないことだからこそ、現実感がないのだろう。まるで他人事のような話しぶりだった。 「父が言うには、母親に伽を命じられる息子などいないって」 「……はい? ちょっと待て、話が見えなくなってきた。そのお嬢様ってのはお前の母親? その女が伽を命じた? お前に?」 「はい」 なんの疑問もなくシアンがうなずく。なるほど、確かに世間を知らない。否、そのようなものではない。生易しいものではない、とニトロは気を引き締める。 シアンは言わなかったし、ニトロも問う気はなかった。が、彼は島主の屋敷ではないどこかで育った、と言った。そして外を知らないとも。あまりしたい想像ではないが、軟禁までニトロは想像する。間違っている気はしなかった。 「それで父は僕を連れて逃げようとして」 島主の娘がキアランの妻であったという含みはなかった気がする。物を知らないシアンだからこそなのかもしれないが、息子を寝台に引きずり込もうとする女であるのならばキアラン自身がそうされた可能性も考えておくべきか。ニトロはわずかに唇を結ぶ。シアンによけいな懸念はさせたくない。そしてふっと顔を上げた。 「逃げ、ようと、した?」 いまこうして逃げているではないか。問うてニトロは自分に呆れた。キアランと島主の娘の間に生まれたのならばそれは鳩、ということはないだろう。けれどシアンは。ニトロの考えに気づいたのだろう、シアンがそっと微笑んでいた。 |