夢のあとさき

 食事は腹の中に、食器は荷物の中に、片づけてしまえばそろそろ陽が落ちる。くるくる鳴く鳩が落ち着きを失くしはじめていた。
「鳥は暗いと見えないって言うからな」
 周囲が見えないのはどんな気分だろう、とニトロは思う。時々はその中に常人はどんな気分か、という疑問も混じる。
「そう、ですね」
 ぎこちないキアランの答え。鳩同様にそわそわとしているらしい。飼い主と動物は似る、とも言うか。ニトロは内心で小さく笑う。
 ぱちり、と焚火が爆ぜた。火の匂いがニトロは嫌いではない。イーサウの家の暖炉を思い出すせいだろう。魔術師とあって気温への耐性は常人の比ではない。だから暖炉など飾り以外の何物でもない。その飾りを楽しむよう、師は秋口になると暖炉に火を入れていた。
 それも違いの一つか。ニトロは心の中で呟く。不思議とそうしていることに違和感がなかった。すぐ手の届くところに他人がいる。が、キアランはあまりそれを感じさせない。
 キアランはどうなのだろうと思う。自分をどう感じているか、ではなく、常人として今この瞬間、周囲を彼はどのように認識しているのだろうかと。ニトロは目も鋭い。たぶんキアランよりずっと周囲が見えている。魔法で補助すれば昼間と変わらず見ることすら可能だ。いまは用がないからそこまではしていない。それでも暮れなずんでいく景色すら、キアランと見えているものが違うのだと不意に思う。
「あの――」
 忍び込むような不思議な声だとニトロは思う。気に障らず、それでいて我の強さも感じる声。相反するそれが「キアラン」という男の在り方だとしたら、ずいぶんと彼は生きにくいのではないか、そんなお節介を考えてしまう。
「おうよ」
 だからこそのぶっきらぼうな声。わずかにすくんだキアランこそ癇に障る。そんな態度を取った自分だというのに。
「そろそろ……」
「あぁ、なるほどな。どこら辺がいいよ?」
「……すみません。あの辺りで」
 あいよ、気楽に返事をしてニトロは口の中で呟く。何が変わったようにも見えなかったけれど、魔法はすでに発動態勢に入った。
「いいぜ」
 言えばキアランは黙って頭を下げた。火の側から立ち上がり、腕に鳩をそっと抱える。それにふと思いつく。
「ちょい待ち」
 言うだけ言ってニトロもまた立ち上がり、キアランのための場所に火を作る。薪は尽きていたから、そのあたりに落ちていた石を熱しただけだが。
「触んなよ? 見た目以上に熱いからな。朝までは持つようにしておく」
「……ありがとう」
「どういたしまして。んじゃ、おやすみ」
 片手を上げてニトロは元の場所に。鳩がその背を追うよう、くるると鳴いた。その鳴き声が意外と嬉しい。イーサウに戻ったら動物を飼うか。思った瞬間だめだと思う。
「研究に熱中する魔術師が動物飼ったりしたら絶対まずいわ」
 どうなることか目に見えすぎている。せっかく可愛がりたいと思っているのに逆の結果しか出ようがない。
 ニトロが焚火の側に腰を下ろすと同時に、キアランの方の結界が発動した。彼もまた腰を据えたらしい。そのように発動させているのだからニトロにも不思議は何もない。
「さて」
 どうするか。今すぐ結界を張って寝てしまってもいいのだけれど、辺りはまだ薄明るい。何も早寝をする必要性もない。
「となれば、と」
 ニトロは荷物を漁ってごそごそと探りまわす。こんなとき自分の雑さが少々恨めしい。どうやら荷袋の中で筆記具が散乱してしまったようだ。
「うわ。インクだらけじゃねぇか」
 筆入れから飛び出してしまったおかげで、荷袋に墨がついてしまった。顔を顰めてニトロは、けれど悲壮感はない。なにしろ水系魔術師だ。清掃の類はお手のもの、と言える。あっという間に染みは落ち、だから自分は雑なのかと改めて思う。
「魔法で片がつくってのも善し悪しだな、こりゃ」
 嘯いて小さく笑った。そんなことを微塵も思っていない自分と知って。取り出した道具を手にニトロは胡坐を組んで座り込む。
「メディナ、星見が丘……竜の泉。んー。ついでにハイドリンの調査もしとくべきか、これは?」
 もしもアルハイディリオン絡みであるのならばハイドリンの地は重要だろう。あの叙事詩の中でハイドリンこそ、アルハイド古王国の首都であった、と歌われているではないか。
 旅の間に書きつけてきた手控え帳にニトロは新たに所感を書き込んでいく。手元が暗くなった、と思ったときにはすでに魔法灯火を灯していた。そんなところばかりは手際がいい。自分で自分に笑ってしまう。
「どんだけ籠りっぱなしなんだ、俺は」
 研究三昧で日が落ちるのにも気づかず机にかじりついているから、こんなことができるようになる。魔法などそんなものだとニトロは思う。楽がしたい、要領をよくしたい、そのあたりから発展して行くものだと。
 茶が飲みたくなって石を見つけて熱した。とっくに焚火は消えている。こんな風に野営では茶を淹れるのだ、兄弟子に言えばどんな顔をするだろう。料理上手の兄弟子は殊の外に楽しむ、そんな気がした。
「絶対教えてやらん」
 顔を顰めてしまうのは妙に人恋しいような自分に苛立つからかもしれない。すぐそこに他人がいる。だからこそ、もっと遠い他人を思うのかもしれない。
 見るともなしにキアランのいる方に目を向ける。草原地帯は深き浅きはあれど草ばかり。周囲から丸見え、と思えて意外と座っていれば見えないほど丈の高い草もある。キアランの姿は見えなかった。横になっていればなおさらだろう、とニトロは思いなおす。
「変なやつだよなぁ」
 それが悪いと言うのではない。面白い、と思うだけだ。人間の様々なありようを面白い、と思う。そんなことを言ったら以前師には「お前は神人の子か」と笑われたものだが。ニトロ自身、少なくとも常人を見る目は神人の子らの方に近いような気がしている。彼らは人間を異種族、と言う。ニトロにとっても常人は異種族だった。
 ふと意外なほど近くで狼の唸りを聞いた。草原ではあっても、山は獣が下りてこられないほど遠くはない。ちらりとキアランの方を見る。
「常人は怖いもんか?」
 狼に襲われるのも魔物に襲われるのも、結果として死ぬのならば常人には同じなのではないのか。武器もない、逃げ足もない、とくれば恐れは同程度、とニトロは考える。
「信用されてんのかねぇ?」
 が、キアランは起きる気配もなかった。元々人間とは思えないほど気配が薄い、と思った男だ。生きている気配すら薄いのかもしれない。そこにいるらしいのはわかるし、結界が破壊されてもいないから中にはいるのだろう。
 信用されているにしては、不思議だとは思う。野営で同席を拒むとはいささか珍しい。そうは言っても行きずりの赤の他人だ。夜闇の中で共にありたくない、という気持ちは理解できないでもない。
「善人面した盗賊はいるしよ」
 ニトロは旅の間にそんな輩にも遭遇している。気安く焚火を囲ませたニトロを与しやすしと見たのだろう旅人は瞬く間に盗賊に早変わりした。
 生命に不安を感じたものだった、あのときは。ニトロは回想する。無論、言うまでもない、自分の命ではなく盗賊のだ。さすがに不快だったニトロはあっという間に盗賊を伸している。その際、迂闊にやり過ぎないよう気をつける方が大変だった。
 世の中にはそんなこともある。キアランが同席を拒むのはそんな理由なのかもしれない。何か過去に痛い目にでもあったのだろう。
「妙にビビりだしな」
 ためらいがち、というよりは怯えがちに見える。このまま放っておくことにこそ、ためらいを感じるほど。朝になれば別れて行く。たぶん、きっと。
「どこ、行くんだ……?」
 ふと疑問に思う。ノーリーンからでも街道からでもなく現れた男。行き先はどこなのだろう。さまよっている、そんなことを思う。鳩だけと共に、彼はどこまで行くのだろう。大陸中をさまよい、いつかどこかで誰とも知れず倒れる、そんな空想。
「馬鹿か、俺は」
 不思議と羨ましいような気がしてしまったせいかもしれない。単に逃げているであったり、別の理由であったりして人家に近づかないだけかもしれない男だというのに。
「あぁ……」
 知らず声が上がる。キアランを犯罪者、と考えてはいない自分にはじめて気づいた。こんなところにひっそりいるのならば一番に考えるべきはそちらだろうに。
「どうも、いかんな」
 武力で対処できる、というのはこういうところで疎漏が出る。ニトロは苦笑する。だがそう思っても、やはりキアランはその輩ではない、とも思う。
「逆、かな……?」
 むしろ追われている方だろう。不当に追われ、逃げているのならばあの窶れ切った様子にも納得がいく。だからどう、と言うわけでもなかったが。
 内心に嘯いた途端に蘇る言葉が一つ。
 ――お前は他人に興味がなさすぎる。
 かつてフェリクス・エリナードに言われた言葉。師には気にするな、と言われたけれど、いまに至るまでニトロは忘れられない。他者に興味のない自分を、これが自分だ、と言える気がしないうちはだめだろうと思う。
 長い溜息を一つ。手控え帳に目を落とし、せめてそちらに集中する。エリナードの言葉を思い出したときにはいつも研究に励んだ。逃げているだけかもしれない、最近ではそうも思うが。
「とりあえず……竜の泉にもう一遍いってみるか」
 二年前と何かが変わっているわけではないだろう。が、二年前とはニトロの知識が違う。少なくとも調査結果は手にしている。あの奇妙な水が竜の泉の独自性ではない、といまのニトロは知っている。その上で何かがわかるかもしれない。
「ん、そうすっかな」
 ここから竜の泉ならばそれほど遠くもない。どこからでもニトロ自身は転移してしまうのが常だったが自前の足で歩いてもせいぜい二日、というところだ。それも、不思議なことだった。水源とはそのようなもの、と言ってしまえばそれまでだけれど、竜の泉の水は蛇の沼に流れ込むだけで、丘のこちら側には一切流れてこない。
「世界の不思議ってやつかね、これも」
 こんな些細なことであったとしても不思議は不思議。それを不思議と思えるうちは魔道の続きを確信できる、ニトロはそう思う自分の青さを笑った。その目がふと上がる。結界の破壊を感じた。内部から。
「どっか行ったかね?」
 出て行きたいと言うのならば止める気はない。けれど聞こえる狼の遠吠え。すぐ側で聞こえて、それが気がかりと言えば気がかり。忠告くらいはするか、思ったときニトロは客の訪問を受けて目を丸くした。




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