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雪のように真っ白な鳩だった。ふわりと舞い降りるその姿の優雅さ。思わず腕を差し伸べたニトロに恐れげもなく羽を休める。くるる、喉の奥で鳩が鳴いた。 「……ん?」 奇妙な違和感を覚えた。強いて言えば魔術師にとっての日常的な通信手段、鳩の魔法にも似た。この鳩は本当に生身か。疑いが確定するより先、驚かされることになる。 「あ……!」 声がした。草原に鳩だけならば驚かなかったものが、人がいた。ニトロはさほど勘が悪いほうではない。まして魔術師。生き物の接近に気づかなかったとは不覚にもほどがある。 くたびれた男だった。三十代も後半だろうか、否、もう少し若いのかもしれない。疲れ切り、痩せ衰えた肉体。よろよろと歩み寄ってくるのは助けを求めてなのか、違うのか。それすらもよく見てとれない、不思議な男だった。不意に男が手を伸ばす。同時に鳩が軽く羽ばたいた、それでいてニトロの腕から飛び立ちはしない。 「あんたの鳩か?」 男が飼っているのかもしれない。ようやくそれに気づいてニトロはばつが悪くなる。他人の愛玩動物を奪ってしまいでもしたような、居心地の悪さ。男は用心深くうなずいた。 「ほれ、ご主人様だぜ。戻れよ」 ひょい、と腕を差し上げ飛び立たせようとしても鳩は動かない。それどころか腕に痛みを覚えるほど踏ん張った。首をかしげてしまう。多少のおかしみを伴っていたが。 「どうも気に入られちまったみたいだ。あんた、これからどうするんだ?」 口にしてニトロは内心で首をひねる。彼はノーリーンの町の方角から現れたわけではない。ならば東に向かう街道か、否。竜の泉から下りてきたわけでもない。あえて言うならば右腕山脈の方角から、と言うことになるけれど、それでは海から来た、と言うのと大差ない。意味のなさにおいては同じだった。 「俺は野営だ。付き合うんだったら、火くらいはわけてやれるぜ」 自分で口にしておきながらニトロは訝しい。他人がいない静寂を味わおうと思って野営を決めたはずなのだが。くるる、再び鳴いた鳩にほだされてやることに決めた。 「今から町に入るんだと、ちょっと間に合わないぜ。さすがに夕暮れまでにはつけないだろ」 男が驚異の健脚を誇るのでなければ、だ。あるいは彼もまた魔術師でなければ。ニトロは、けれどそれは疑わなかった。魔術師ではない。しかし、と感じるものがある。何か違和感がないわけではない。鳩と同じだ。気づいて、どうでもよくなった。いずれ通りすがりの他人だ。 「……お世話に、なってもよければ」 震えがちの小声だった。一応はいい年をした男の声にしては、怯えが過ぎる。それだけの経験をしたのかもしれないけれど。 「あいよ。じゃあ、火でも作るか」 その辺でいいな、呟きつつニトロは座る場所を作る。草原の真ん中だ、どこで火を焚いてもあまり違いはない。さっさと焚き付けを集める手際の良さに男が目を丸くした気がした。 「……どこに、薪が?」 細い枝ばかりではあったけれど、ニトロの手には薪がある。見わたす限り草また草のこの場所で。ニトロは思わずにやりと笑う。 「野営慣れしてないな? 探すとけっこうあるもんだぜ」 こんな場所でもあるところにはある。地を這うような灌木を探す方法をニトロが知ったのもこの旅でのことだったのだが、男は輪をかけて知らないらしい。それにしてはくたびれ方が尋常ではなく、不思議でならない。 「あんた、腹減ってる顔してるな。火の面倒見ててくれるなら兎のもう一匹でも狩ってくるぜ。どうよ?」 イーサウから師の高笑いが轟き渡った気がしてニトロは顔を顰める。自分は断じて面倒見がよい方ではない、むしろ他人などいなくともまったくかまわない、そう常々嘯いているというのに。 「――ありがたい」 男は疲れた様子で頭を下げた。さすがにこれを見捨てるのは後生が悪い、それだけだ。ニトロは内心に呟いて火を作り、その番を任せてさっさと狩りに行った。 「おい、お前なぁ」 飼い主の下に留まらず鳩はニトロについてきた。つかず離れず飛んでいる鳩に知性を見てしまいそうになり、顔を顰める。 「面倒事はごめんだぜ」 ふふん、と鼻で笑えばなぜだろう、鳩が淡く微笑んだ気がしてしまったのは。相当に疲れているらしい、自分は。ニトロはそれだけだと心に決めて獲物を探す。幸いよく肥った一羽の山鶉が見つかった。先ほどの兎同様始末をしてほどなく焚火の所に戻れば男は膝を抱えて座っている。火を見るのは久しぶりだ、そんな顔をしてじっと火を見ていた。 「あ……」 お帰りなさい、とでも言うつもりだったのだろうか。けれど男の口からそれ以上の言葉は出ない。話し慣れていない、というよりは誰かと言葉を交わすのがあまりにも久しぶりで話し方を忘れてしまったかのよう。ニトロにも覚えがあることだから気にも留めなかった。 「ほれ、焼き串。焼く分はそっちでやってくれ。俺? 元々スープ作るつもりだったんだよ」 せっかく集めた香草を無駄にする気は毛頭ないニトロだ。さっさと肉を切り、鍋に放り込む。人参と共に軽く炒めて、そして一言。 「あ!」 鍋に満ちる水。水袋もなにもない。ただニトロの言葉のみ。男がまじまじとニトロと鍋とを見ていた。息を飲み、ゆっくりと言葉を紡ごうとして、けれど果たせない。結局男が口を開いたのは鍋が煮立ち、香草を放り込んだ頃だった。 「あなたは……魔法を……」 「ん? あぁ、魔術師だぜ」 あっさりと言ったニトロに男はなんとも言い難そうな顔をした。頼りたい、しかし頼れない。そんな顔とでも言えばいいのだろうか。イーサウで師が文句を垂れている気がしてならない。ついでに言えば生きた友人にも死んだ友人にも責められている気がした。手を貸せるのならばなぜしない、と。放っておいてくれ、すべての声にニトロは言う。無駄だろうな、どこかですでに感じてはいた。 「魔術……師……」 「そんな顔するか? いや、連盟圏内で魔術師名乗ってビビられたのが久しぶりだってだけだ。気にしないでくれ。人の考え方なんざ色々だしよ」 「申し訳、ない……」 どうでもいいのに。ニトロは思う。詫びられるようなことでもないし、はっきり言えばかかわりたくない。ならばなぜ火を囲んでいる。耳に届く鳩の鳴き声。すべては鳩の陰謀だ、言いたくなってきた。 「あなたは、魔術師だから、野営を?」 「だからってわけじゃねぇな。人が大勢いるところが好きじゃない。魔術師なら自衛が可能だ、それも理由の一つではあるか」 「自衛?」 ゆっくりと確かめるように口にする男。いまは男の肩に止まった鳩が励ますよう男の黒味の強い髪を啄む。火の照り返しのせいか、一度は思った。が、男は驚くほど鮮やかな金の目をしていた。 「魔物に襲われても平気ってこと。そもそも襲われないがな」 「襲われ、ない」 「おうよ。適当に結界……なんて言えばいいんだ? 見えない壁を作っとくってこと。入れなきゃ襲われようもねぇ。結界の外で朝まで魔物に宴会やられたって害はねぇよ」 ぐっすり安眠できる。ニトロは言うが、その状況で安眠できるのはアイフェイオンの一門であったとしてもごく一部だろう。もちろんニトロの師はその中に入っている。 「……それは、とても羨ましい、ことですね」 「わざわざあんたを排除する気はねぇよ?」 羨むようなことか。ニトロは首をかしげる。どうせ一度は火を囲んだのだ。もう陽も落ちる。ならば朝までこうしていればいい。一人きりの静寂はだめになってしまったけれど、意外と悪い気分でもない。 それはたぶん男のせいだ。ニトロの感覚に触れもせず突如として現れたことと言い、こうして佇んでいる姿と言い、男には人間として当たり前にある気配があまりにも薄い。 「ですが、僕は――」 一度男がためらった。口ごもりがちなのではなく、確かに言葉を切った。ぽん、と男の腕にと鳩が下りてくる。顔の前に男は差し上げ、じっと鳩を見ていた。 「あー、もう!」 突如の大声に男が身をすくめる。悪い、と片手を上げれば鳩に抗議をされた。それにニトロはかすかに笑う。見事な白金の髪をがりがりとかきむしり、ニトロは視線を遠くに投げる。溜息を長々とつき、そして男に視線を戻した。 「あんた用にもう一個、結界作ればいいか?」 「え……」 「同じ火を囲んで朝までってのはなんか嫌なんだろうが? かといって今から町に向かうにしてもどこに行くにしても、見送りゃ俺は見殺しにしたも同然だ。そんな後生が悪い」 文句を垂れれば兄弟子が笑う声まで聞こえた気がした。どうにもイーサウを留守にしていた期間が長いとこんなものかもしれない。 「そんな、申し訳なさすぎる……」 「たいした手間でもねぇよ」 「ですが……」 ためらう男は、しかし素直なのだろう。体貌から険しさが取れている。野営ができることに対してか、それとも一人にしてもらえると知ってか。そんなことまではニトロにわかりようがない。 「できたぜ。食おう」 携帯用の食器は二組あった。ニトロは絶対に一組でいい、と言い張ったのだけれど「なにかで必要かもしれないだろ」と兄弟子が無理矢理荷物に入れたもの。忌々しいことにいままで何度か活用している。 「鳩はこっちがいいな。ほれ」 獲物を余分に狩ったついでに草の実を集めてきていた。くるると鳴いた鳩は嬉しそうに実をつついて遊び出す。男がそれに目を細めていた。 「名前は?」 掌からこぼしてやる実を鳩はせっせと食んでいるらしい。意外なほどに可愛い。動物を飼う、というのはこういう気分か、とニトロは思う。 「――キアラン、と」 「ふうん。あんまり鳩の名前っぽくないのな。いや、批判したわけじゃ……って、俺が聞いたのはあんたの名前じゃねぇよ!」 すぐそこで男が赤くなっていた。勘違いで名乗ってしまったらしい。ニトロとしても誤解を招く表現だったか、と思わなくもない。詫び代わり、手を差し出す。 「カレン・ニトロだ。ニトロって呼んでくれ」 わざわざ正式名を名乗ってしまったのは多少なりとも慌てたせい。照れくさかったのもある。キアランは小さく口許をほころばせてニトロの手を握った。 |