夢のあとさき



 研究をはじめて、いったいどれほど経ったか。軽く二十年は過ぎている気がする。指折り数えニトロはかすかな苦笑を唇に上せた。
 かの天才フェリクス・エリナードが健在であったならばこの問題は解決していただろうか。時折は考える。そのたびに否定する。
「最低限、同時代だからな」
 エリナードを知らないではないニトロだった。師の師に当たる天才魔術師の偉業の数々。憧れの目で見ていた若き日。いまはただひたすらに道の遠さを思う。それでも諦めようと思ったことは不思議と一度もない。
「どうすっかなぁ」
 ぼんやりと道を歩いていた。シャルマークの奥地でこんなことができるのも魔術師ならでは。それも氷帝の裔と呼ばれるアイフェイオン一門の中でも水系魔術師ならでは。火系魔術師同様に殊に戦闘に長けているせいだ。
「大師匠のせいだな」
 同じく戦闘を得手にしていても火系は水系ほど悪名が立っていない。もっともそれは歴代の魔術師たちが意図的に煽ってきた部分も無きにしも非ず。
 ニトロはゆっくりと草原地帯を歩いていた。このぶんでは今夜はノーリーンの町で宿を取れるだろう。とはいえ硬い宿屋の安寝台がさほど恋しいわけでもない。
「野営にすっかな」
 人付き合いが苦手なニトロとしてはたとえ魔物が出るシャルマークとあってもその方が気楽でもある。ならば早々に食料の確保をすべきだった。
 ノーリーンの町のある草原地帯はイーサウ連盟の中でも北部に位置する。ニトロが長年研究し続けている竜の泉の丘の更に北だ。泉の丘を越えれば広大な草原地帯が広がっている。
「昔は人なんか住めなかったって言うけどなぁ」
 エリナードがイーサウに暮らしはじめたころにも人家が点在するだけだった、とかつて聞いた。ニトロとしてはよくぞ「点在」していられた、と思ってしまう。いまだに魔物が出るのだから。常人の身ではずいぶんと恐ろしく、身も細るような気持ちで日々を過ごしていたことだろうに。
 いつからかイーサウの援助を得て開拓が進み、そしてノーリーンの町が生まれた。連盟内でもまだ若い町の一つだった。
 一陣の風が吹き抜け、ニトロは草原の波を見ていた。海の波のよう、草がなびき、揺れる。天空遥かで鳥の鳴き声。ひどく寂しく、それでいて心安らぐ。
「やっぱ野営だな」
 こんな気分の時には人に会いたくない。むしろこの静寂を楽しみたい。たとえ町があろうとも草原は静かだった。肉眼で見えるほどの距離にもまだ町はない、そのせいかもしれない。目に映るのはただひたすらに草の海。
「お、兎!」
 目敏く見つけてニトロは魔法を放つ。まるで小石を投げるような無造作。気づく様子もなく兎は倒れた。
「よしよし」
 獲物を手にニトロはうなずく。口に入るものを殺すのならばせめて一撃で楽にいかせる。旅暮らしをするようになってそんなことを思うようになった。
「しばらくイーサウ帰ってねぇな」
 二年ほど留守にしていた。イーサウにある間は何くれとなく師と共にであったり兄弟子がいたり。そもそも町場での暮らしだったから己の手で獲物を仕留めて食事を得る、などほとんどしたことがない。
 こうして旅に出て、ニトロはそんなことも覚えた。焚火を作る方法も、水を得る方法も。水に関しては完全に趣味だ。水系魔術師とあっては水球を作るなど眠っていてもできる。周囲一帯から水が涸れていてもその場で水を作り出せる魔術師に水場を探す方法ほど無意味なものはない。
「意味がねぇから楽しいんだろ」
 ふふん、と独り言を呟いてしまった。どこか遠くで兄弟子が無駄なことをする、と呆れているような気がしてしまったせいかもしれない。あるいは人と言葉を交わさなくなって長いせいかもしれない。
 二年の間にニトロはシャルマーク中を歩いた。転移魔法と併用しつつであったから、ほぼシャルマーク全土を網羅した、と言って差し支えない。
 理由はただ一つ。研究のため。ニトロは竜の泉に端を発する蛇の沼の解毒を課題にしている。特別に害があるものではないのだけれど、解毒ができなければ干拓もできない、当時の連盟議長に泣きつかれての研究だった。
 もっとも、性に合っている。どうにもこうにも解決の切っ掛けすら手に入っていないのだけれど、これはこれで非常に楽しんでいる。それを言えば常人の反感を食らいそうなので悩んでいるふりをイーサウではしているが。
「お前もオトナの苦労をするようになったもんだぜ」
 柄の悪い師はそんなことを言って笑ったものだった。ニトロも返す言葉がない。せいぜい無言で脇腹に拳を見舞う。乾いた掌に受け止められてしまうのが常だったが。
 獲物の始末をして、少し離れる。さすがに血の臭いをまき散らしたままその場に留まる気にはなれない。肉を片手にニトロはぶらぶらと散歩でもするかのよう。こんな場所で。
「見られたら魔物扱いだな」
 自分でもそう思ってしまっては笑う。なにしろ軽装だ。旅装束ですらない。ほとんどイーサウに暮らしていたときと変化はない。強いて言えば厚手の外套をまとっている程度のもの。軽い胴着姿でこんなところを歩いていれば魔物か、そうでなければ気の早い幽鬼だろう。まだ日暮れには間がある。
「せっかくだ、豪勢に行くか」
 ニトロは料理が好きではない。食事は食べられればそれでよし、と思っている。うまい飯が嫌いなわけでも区別がつかないわけでもない。ただ自分でするのは面倒なだけだ。
 そんなニトロでも時折は食事に凝りたくなる。せっかく兎肉がある。手持ちにはろくなものがないからと周囲を探す。
「あるある」
 鼻歌まで出てしまいそうだった。シャルマークの草原は一様に有用植物が多い。アルハイド大陸中、最も多く薬草を産するのもシャルマークだ。魔術師とあってニトロの目は的確にそれらを見抜いて行く。
 が、薬草を摘むことはしない。いま必要なのはそれではなく、食用植物のほうだ。細かな葉が密生する茎を株ごと引き抜く。
「おー、立派立派」
 野生の人参だった。ぷん、と鼻をつく土の香りに負けない、いい匂いがしている。香草の類など探すまでもない。手を触れればそこここにある状態だ。手あたり次第に摘んでもよい香りだろうけれど、ニトロはあれこれと探し回って目当てを見つけて行く。
「すげぇな、探せばあるもんだ」
 無論、これはニトロが魔術師だからだ。植物を知っている。何より魔物の襲撃を恐れる必要がない。ここはすでにニトロがノーリーンの町に転移が可能な距離だ。いざとなったら跳んで逃げてしまえばいいだけのことで、それだけ熱中して探し物ができる、というもの。常人ではそうはいかない。
「それがわさわさ生えてる理由の一つ、かもなぁ」
 イーサウは逞しい。商売になるのならばどんなものにでも手を出す。ここにこれだけの薬草が生え、けれどそのままになっているのは間違いなく危険と儲けが釣り合わないせいだろう。
「片手間仕事にするのも悪くねぇかな」
 薬草を摘んで商人に売るのも悪くはなさそうだ。が、それをすると研究の時間が取れなくなる。よって魔術師は手を出さない。ニトロも考えを弄ぶだけだった。
 座り心地の良さそうな場所を求めて散歩を続けた。風が心地よい。白金の髪を風になぶらせニトロは歩く。放ったらかしのせいで前髪が伸びすぎだ。いささか邪魔になってきた。それもいまの気分にはちょうどいい。
 実際、苛立ってはいる。楽しい研究だと嘯きつつも、まるで捗っていない。それも二十年、なんの進捗もないと言っていいほどだ。
「楽しんでなきゃ、やってられっか」
 独語してしまうのもそのせい。エリナードであったならば、考えてしまうのもそのせい。それでも道が閉ざされたわけではない。なにかまだ自分が知らないことがこの世界にはある。人間が充満しているような気がする世界でも、まだまだ知らないことはたくさんある。そればかりは心底から楽しい、とニトロは思う。
 二年でシャルマーク全土を調査し、ニトロにはわかったことがいくつかはある。竜の泉の異常性。それだけははっきりと理解した。
「なんか変、程度じゃねぇな、あれは」
 そもそも竜の泉では毒性がなく、蛇の沼に至って軽い毒を帯びる。それなのに水の組成からまったく同一、というのがまずどうかしている。
 それは二十年前にも認識していたことだった。今回、ニトロはあまりにも埒が明かなくてあの水の性質は竜の泉の独自のものなのか、それを調査しに行ったようなもの。
「思い出しただけで腹立つな……」
 結果は惨憺たるものだった。竜の泉独自のものではない、それはよかった。他にも例があるのならば研究の切っ掛けにもなる。が、問題は。
「俺、アルハイディリオン断片集の解析まですんのかよ……」
 竜の泉の水と相似を見せた性質の水。数カ所はあった。が、最近になってよく聞く地名だった。「アルハイディリオン断片集」が編まれたのは三十年以上前のこと。が、元が古語で、しかも叙事詩だ。単語の解読にも一苦労したが、最近になって成果が出はじめている。解読を続けているのはニトロの一門の中でも吟遊詩人の技を修めることも多い風系魔術師だ。他にもイーサウ有志の学者たちや呪歌の一門が共に額を集めて努力を重ねている。
 その断片集に出てきた地名と、異常性を見せる水の産出地。数が少なすぎて資料としてあげるには不適当だ。が、ニトロの勘は正しさを告げている。
「間違ってなさそうっぽいんだよなぁ……」
 今回の調査で顕著な異常性を見せたのはメディナの街の泉と星見が丘の湧き水だった。星見が丘は名前こそ丘だったけれど、丘の影などどこにもない荒地だ。そこに滲み出す貧弱な湧水からは竜の泉とほぼ同一の性質を見てとることができた。
「もし、星見が丘が、あの星見の丘なら」
 エリナードの伴侶であった神人の子に聞いてみたかった。地名の変化はあり得ないわけではない。ましてまったく変わってしまったわけではないから蓋然性は高いだろう。ならばあの地は断片集に歌われるファーサイトの地なのかもしれない。
 ニトロは妙なこだわりを持ちたくなくて主要文献にざっと目を通しただけだが、かつて「闇の手」と呼ばれる暗殺結社があった。彼らはスキエントなる存在を崇めていたと言う。アルハイディリオンに歌われる混沌の化身、ファーサイトの賢者スキエントとまず同一人物だろう。闇の手の地下神殿から接収した文献からもそれは確かなことのように思う。
 闇の手の書物とアルハイディリオン、突きあわせてみる必要があるかもしれない。ニトロ自身はほぼ確定だと感じていた。
「メディナは確定だしな」
 そちらは現在も過去も地名が変わっていないおかげで間違いはないだろう。いずれも断片集に頻出する地名だった。
「と、すると……。竜の泉もなんかあるのか……?」
 いまのところ断片集にそれらしき文言があったとは聞かない。だが、いまニトロが知らないのであって、今日誰かが発見している可能性は否定しにくい。
「アルハイディリオン絡みかよ……」
 間違ってはいない気がしてならない。歴史の闇に埋もれた澱から発生しているのかもしれない、あの水の毒性は。溜息をつくニトロの下、一羽の鳩が舞い降りた。




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