夢のあとさき



 ニトロはイーサウにいなかった。けれどイーサウにいた。イーサウ自由都市連盟は広大な土地にまたがっている。
「ここも一応はイーサウ、か……?」
 遠出をしたニトロは小さく笑う。一人だった。少しばかり研究したいことがあってここまで足を伸ばしたのだけれどあまり成果が上がったとは言い難い。
 イーサウ本市街から北に行くと大陸魔導師会本部があるタウザント街。そこからまた北に進めばかのフェリクス・エリナードが作りあげた人工の湖、女神湖。
 更に北へと進む。人口もぐっと少なくなり、シャルマークの大穴が塞がれて数百年経った今でも魔物が横行する土地になる。
「英雄たちも通った、とは言うがな」
 蛇の沼、と呼称される土地はいまもなおずぶずぶの沼地だ。自前の足で歩けば踏破に三日三晩はかかる。それも歩き慣れたものが全速力で、だ。
 シャルマークの英雄たちが通ったときにもここは酷い臭いがしていた、とニトロは聞いている。ニトロは師のカレンから聞いた。カレンはエリナードから、エリナードはフェリクスから。フェリクスはサリム・メロールより。そして英雄の一人、リィ・サイファの友であったサリム・メロールは彼から直接聞いた、と聞く。
 常人たちはこの時間の流れをなんと聞くのだろう。時々ニトロは思わないでもない。世代を経ることが常人よりは少ない魔術師たち。それでもこうして繋がっている。悪くない気分だ、とニトロは思う。
 その蛇の沼の臭いの元凶は毒だった。さほど有害ではないとはいえ、毒であるに違いはない。これをどうにかできないか、というのはイーサウの悲願でもある。直接イーサウに流れ込んでいる水とは水源が違う。が、蛇の沼を解毒し、沼地を埋め立て開墾が可能になれば。常人たちはそう思うらしい。魔術師としても挑戦しがいのある課題だった。
 とはいえ、あまり研究が進んではいない。それもそのはず。そもそも水系魔法による解毒が可能になったのとて、魔道の歴史としてはごく最近のこと。ここまで大規模な解毒となればいまだ手に余る、というのが正直なところ。
「不思議なんだよな」
 結局ニトロは蛇の沼を越え、その先の丘へと達していた。ここには竜の泉がある。何がどう竜なのだかさっぱりだったが。
「地名なんてそんなもん……か?」
 呟きつつ、ニトロは不思議でならない。あるいは、と夢想する。いつの時代かここには竜が住んでいたのかもしれない、と。そんなことを言えば兄弟弟子のデニスは笑うだろうか。
「まぁ、蛇の沼だってありゃどこが蛇だよって言いたくなるしよ」
 蛇の沼には魔物が出る。二足歩行する蜥蜴、とでも言うべきリザードマンの生息地だ。あれを評して蛇、とは少々言葉の定義が間違っている。それでもずっとそう言われてきた土地でもあった。
 何より不思議なのはこの竜の泉。細い流れが小川となって下の沼地に注いでいるのだけれど、この泉の水にはまったく毒が含まれていない。
「なのに性質は完全一致、と」
 水系魔術師の面目躍如と誇りたい。沼地の水と泉の水、解析結果は同一と来た。泉の水にも毒に「なり得る成分」は含まれている。それなのに毒として作用していない。これには何がどうなっているのか、頭を抱えるばかりだった。
「せめてなんか掴めねぇかと思ったんだけどなぁ」
 水源を調査すればどうにかなるか、と考えたことだったが甘かったらしい。少なくとも自然はいまだ不思議にあふれている、それが理解できただけ。
「ま、それはそれでよしってとこか」
 ふん、と負け惜しみに鼻を鳴らし、ニトロは砂地に腰を落とす。竜の泉の周囲は白い砂に囲まれた美しい場所だった。その周りは白樺の木立。春浅いいまはまだわずかな芽吹きが見られるだけの寂しい眺めだ。新緑のころになればどれほど美しいだろう。
 その眺めの中、欠落がある。泉の向こうの木立が崖となって崩れ落ちていた。ごっそりと崩落し、けれど時間が経っているせいで細い木々が斜めに生えていたりもする。
 それを見てニトロは小さく笑う。リィ・サイファの「しでかしたこと」と聞いていた。ちょっとした事故、とも聞く。いずれにせよとんでもない魔力が吹き荒れたのだろうとだけは予想がつく。
「さすが英雄? 真言葉時代は違うな」
 現在の魔法、鍵語魔法と真言葉魔法はそれほど威力に差がある。絶大な効果を発揮することはなくなった代わりに事故は激減したらしい。
「これで、だからな」
 伸びを一つ。休憩とばかり砂地に仰向けに横たわる。さらさらとした砂が心地よかった。常人の友人がニトロにもいる。彼らはニトロの研究も鍛錬もその目で見ている。その彼らがこのリィ・サイファのちょっとした事故の跡を見ればなんと言うだろう。真言葉時代から事故が減ったのだと言えば何を言うだろう。ニトロにはわからない。
 連想が、嫌な方に行ってしまった。思わず顔を顰める。エリナードが逝ってしまって何年経っただろう。ニトロは健康であったころの彼に言われた言葉がいまでも棘のように痛む。
「全身全霊をかけられる相手はいるのか」
 いなかった、当時は。いまもいない。友人すらいなかったニトロ。ダモンとティアンという友人はできた。アイラもいまは友人と呼べるようになった。少しずつ友人は増えた。デニスにも兄弟としての情はある。カレンには師への尊崇を捧げ、言いたくはないが親として慕ってもいる。
「それでも」
 何かが足らない。決定的に何かが足らない。自分はやはりどこかが欠けているのだろうと思う。人の情に対する興味か。人への関心そのものか。欠けている本人にそれがわかるくらいならば改めようもある。少なくとも改めるふりや努力はできる。けれどニトロには何が欠けているのかもわからない。ただ、欠けている、とわかるばかり。
「これが、俺、か……」
 そう言い切れるのならばエリナードは心配しなかったのではないだろうか。おそらくこうしていまでも不安に駆られる自分だからこそ、よくよく考えろ、己の依って立つ場所を省みろ、そんなつもりでエリナードは言ってくれたのだろう。
 風が吹き抜ければ鼻をつく甘い香り。白樺の木立になぜか一本だけ立つ杏子の木。花盛りの杏子はまるで蜂蜜の香りだった。不思議なことにここに生える杏子は香りが強い、ほとんど香らない他の杏子とは大違いに。
「ダモン――」
 あまりに強い香りがするので彼に言ってみたことがある。それにダモンは答えた、この杏子の香りはそれだけでは強烈過ぎて香油には向かない、と。
「蜂蜜をこぼしたのかと思われるのが落ちだろう?」
 そう顔を顰めていたダモン。無論、腕のいい調香師の彼のこと、解決策は充分にあり、勝算もある。いくつか試作をし試させてくれた香りは杏子を思わせながらそればかりではないよい香りだった。
 満開の杏子の花が風に揺れ、はらりと零れる。水面に散りかかり、水に揺蕩う。ひどく穏やかで、だからこそ落ち着かないようなその景色。ニトロはじっと見ていた。
 友人を思うからこそ、欠けているものが自覚できてしまう自分を。誰かに心を傾ければいいのだろうか。誰かとは誰だ。そんな相手が現れるのか。傾けたとして、この欠落が埋まるのか。
「わっかんねぇな!」
 思わず砂地を叩けば舞い上がる白い砂。思い切りかぶってしまって咳き込んだ馬鹿らしさ。笑いが込み上げ、硬直する。
「よう。差し入れだ。どうよ?」
 ぬっと見下ろしてきたのはカレンだった。仰向けのままの自分の頭の方から覗き込んでくる師の姿にニトロは溜息をつく。その腹の上に落とされた温かい包み。
「なんすか、これ」
「だから差し入れだって言ってんだろうが? 食おうぜ」
「あんたは食い盛りのガキか」
 文句を垂れつつニトロは包みを開く。唐突に師が現れたとしても驚かない。魔術師の師弟などそのようなものだ。しかも竜の泉に行ってみる、と言いおいて来たのだからなんの不思議もない。
 包みの中は軽食だった。少し厚めに切ったパンに野菜だの肉だのが挟まっている。まだ温かかった。一緒に甘い菓子まで添えられている。こちらもまだ焼き立て。
「なにが差し入れ、ですか。作ったのデニスじゃねぇか」
「私が作んなきゃ差し入れにならんとでも? つかな、お前。私の飯の方がいいのか?」
「ごめん被る。デニスの方がうめぇし」
「だろ?」
 にやりと笑い、気にした素振りもなく隣に座ったカレンは葡萄酒の小瓶を取り出す。ニトロも体を起こして小瓶の一つを受け取った。
 二人、なにを話すでもなく食べていた。ここに現れたこと自体は不思議ではない。が、来たことは意外だ。別に何があったわけでもないらしい。共に研究をしたい、というようなこともないだろう。
「やっぱりデニスの飯はうまいな」
 うん、とうなずきカレンは手についたパン屑を払う。直接小瓶に口をつけて飲んでいるのに奇妙に優雅さを失わない女だった。ニトロも同じよう酒を飲む。イーサウでは無頼師弟、と名高いらしい。デニスが一緒にされて迷惑だ、と笑っていた。
「で、師匠」
「なんだよ?」
「そんな顔してもだめですから。率直に行きますよ、なんの用事です」
 丁重なふりをしたニトロの恫喝。カレン相手にどうにかできるなど思ってもいない。踏んだ場数が違いすぎる、こんなときによく思う。案の定カレンは笑った。その目にかすかな戸惑い。それが意外だった。勘づかれた、と悟ったのだろうカレンが肩をすくめる。
「面白いもんだよな」
 ふ、と遠くを見るような目をして笑うのは憧憬だろうか、羞恥だろうか。ニトロはどちらでもあるような気がした。
「お前も知ってのとおり、私は師匠の記憶を継いでる」
 正当なフェリクス・エリナードの後継者として、カレンは継承式をもって彼の魔道における全人生を見聞きした。ニトロにとっては憧れだった。黙ってうなずくのは、けれど不審なせい。今更何を言うのかと。
「あの男の記憶の中でな、弟子時代のことも見聞きしてる」
 それが継承式をする意味なのだから当然と言えば当然。首をかしげるニトロは本人が意図しないところで無垢だった。昔からそうだ、とカレンは思う。引き取った当時からニトロは魔道に関してだけは純粋で真っ直ぐだった。
「面白いもんだぜ? あのカロリナ・フェリクスがな、どろどろに甘いんだ」
「それこそ今更、じゃねぇの?」
「だってあれだぞ? 冷血の権化、みたいに言われてたんだぞ、当時もな」
「あれか、あいつの血は青いんだ、みたいな?」
「烏賊や蛸じゃあるまいし、血は青くねぇだろうが」
「青いか!?」
「さばけば青いだろ」
「そういう問題かよ」
 むっとして声を低めたニトロをカレンが笑った。師のこんな冗談はいつものこと。ニトロも師とよく似た仕種で肩をすくめた。
「そんな評判を勝ち得てたフェリクス師がな、弟子には本当に甘いんだ」
「エリナード師に?」
「他にも。星花宮のガキどもには本当に甘い。あんたは砂糖菓子かって言いたくなるくらい甘い」
 エリナードはそれを見ていた。カレンはその記憶を見た。世で何を言われようとも、それがフェリクスの姿だと覚えている。氷帝戦役、とたとえ言われようとも。
「その甘さがな、裏目に出ることもある」
 ニトロにはあまり見当がつかない。直接フェリクスを知らないせいもある。その時代を知らないせいもある。カレンは星花宮出身だった。
「お前だってそうだろ? 一端の年齢になりゃべたべたかまわれんのは嫌だろうが?」
「は?」
「ちょいちょいかまわれると鬱陶しくねぇか?」
 不思議そうなカレンにニトロは無言でうなずいた。と言うより、うなずいたことにも気づいていなかった。まさかそんな話だとは。否、フェリクスがそんな人だったとは。弟子をこの上なく慈しむ男だった、とは聞いていた。甘いとはその意なのだろうとばかり。
「ガキが心配ですることで、悪意はねぇし、昔のお前が学院でしたみたいな嫌な思いをさせてたわけでもねぇよ」
 それは保証する、とカレンは言う。彼女自身、フェリクスにそれとない手助けをされた経験があるらしい。それでいて、彼が自分を覚えているとは思わなかった、とかつてカレンは言ったものだったが。
「ただな、やられた方はちょっと鬱陶しいだろ。うるせぇなクソ親父って言えるようなガキばっかじゃないしよ。そんなことが言えたのはうちの親父くらいなもんだろうが」
「相手は四魔導師ですしね」
 現在の魔導師会を率いる頂点の四人を「四導師」と言う。星花宮に倣ったものだろう。それだけ魔術師にとっては強い印象を与える呼称でもあった。
「だろ? そうするとな、師匠が動くんだよ」
「はい? だって、まだ弟子時代でしょうか」
「関係ねぇんだろ。あの男にとっちゃ、大師匠がなんかやらかしたら尻拭いは自分って決めてたんだろうし」
「尻拭いって!?」
 普通、師が弟子の尻拭いをするものであって、そこは常人だろうが魔術師であろうが変わらないのではないだろうか。意味がわからない、と半ば腰を浮かせたニトロをちらりとカレンは見やる。その仕種に己が体たらくに気づいたニトロがむつりと座りなおした。
「鬱陶しがってる相手んとこ行ってな、気持ちはわかる、自分もそうだ、とか言ってよ」
 カレンの眼差しは遠い。かつて師の記憶をその心の中で見聞きしたそのままに彼女は語る。そのくせ軽く投げ出した足に肘をつきつつ葡萄酒の瓶をあおったりもする。ニトロもまた胡坐を組んでは酒で唇を湿した。
「でもな、師匠の本音はわかるだろ? あの人の本当の気持ちはわかるだろ。それだけは汲んでやってくれ。――いっつもそんなこと言って歩いてたな、あの男は」
 カレンが小さく笑った。エリナードの口真似をした自分に照れたのかもしれない。ニトロにとってはフェリクスこそ遠い人物ではあったけれどエリナードのそれは想像できるような気がしなくもない。
「正直な、その記憶を見た時。――馬鹿かこいつら、と思ったわ」
「いくらなんでもそりゃないぜ、師匠」
「お前も直接見りゃそう思うに決まってる。これのどこが師弟だ? 彼氏の間違いだろ、そんな風にも思った」
「あー、それ。なんつーか、その。タイラント師、どう思ってらしたんです?」
 そんなことを言うニトロの内心にカレンは気づいている。気づかれていることをニトロもまた、気づいている。
 本当はさほど興味がない。世の人はこういうときにこういう質問をするものだ、そんな風にも思うからこそ口にした言葉。カレンはうまくやっている、とでも言うように笑っていた。
「気にしてなかったらしいぜ? と言うか、自分の手の届かないところでちゃんとやってくれてるって喜んでたみたいだ」
「……正直な感想、言っていいですか?」
「おうよ」
「意味わかんねぇよ!?」
「安心しろ。誰に聞いてもそう言うわ」
 まったくなんの安心もできない。が、おそらくはそういう師弟だった、という事実だけがあればそれでいいのだろう。少なくとも自分にはわからない、ニトロは思う。それを寂しく思うこともない。やはりどこかが欠けている、とは思う。
「ほんとな、私にとっても意味のわかんねぇ師弟だよ、あの二人は。この人らはなんなんだってずっと思ってた」
 いまは違うとでも言うのだろうか。なにか思うところがあるのだろうか。ニトロはけれど視線を向けず竜の泉を見ていた。はらはらと散りかかる杏子の花。少し風が出てきた。
「まさかな、この私がおんなじことするようになるとは思ってもみなかった」
「……はい?」
「師匠のことさ。あの男はお前のためによかれと思ってよけいなことを言ったんだろうさ」
「あ――。つか、知ってたんですか」
「知ってるよ。あの男は私に隠し事はしない。しなかった」
 されていたのをカレンは知っている。いまになって明らかになったエリナードが渡った危ない橋の数々。それでも己の死後にカレンが知るよう、きちんと彼は手配をしていた。生前にされていた隠し事も、間違いなくカレンのため。いまだ至らない若い身で知るべきではないこと、知れば危険であること。対処ができないこと。カレンは隠されていたことを少しずつ知るに至って、ずいぶんと甘い師であったのをそっと笑ったものだった。そのときには自分がすでに同じことをしている、と肩をすくめたのだけれど。
「だからな、師匠の差し出口をお前が気にする必要はねぇんだよ」
「差し出口って……」
「お前はうまくやってるさ。ガキんときにも言ったよな。お前に必要なのは人づきあいの技術、それだけだ」
「それでも……」
「あのな、ニトロ」
 ひょい、と飲み終わった小瓶が放り投げられた。慌てて受け止めてしまったニトロは顔を顰める。ひどく子供扱いされた気がした。
「お前はまだ他人を必要としてない、それだけだ。周りとちゃんとうまくやってる、それは私が保証する。――誰もがな、師匠や大師匠みたいに絶対の誰かに会えるわけじゃない」
「……師匠だって」
「うん?」
「エイメさんがいるじゃないですか。大事な友達。俺には、そこまで大事な相手がいない。欲しいと、あんまり思ってねぇし」
「だから必要性の問題だって言ってんだろうが、飲み込みの悪い男だな」
 笑う彼女がいた。他愛ないことで悩むな、と言うよう。これを言えば、変わってしまうかもしれない。カレンとの間に何かできてはならないものが生まれてしまうかもしれない。そう思いつつ、けれどニトロは口にする。
「師匠だって、俺は信じてないのかも。大師匠がフェリクス師を信じるように、師匠が大師匠を信じるようには、俺は思ってない」
 とん、と背中を叩かれた。気づかず視線を外していたニトロは驚いてカレンを見やる。にやにやと笑う師がいた。
「なぁ、ニトロ」
「なんすか」
「あのな、お前。それを言って私が怒ると思ったか? 気分悪くすると思ったか?」
「そりゃまあ。思わなかったら馬鹿でしょ」
「だろ? でも、お前は、口にした。わざわざ、言った。ちゃんと、自分の口で。わかるか? それを『信頼』って言うんだ。勉強になったか、坊主?」
 もう一度叩かれた背中。ニトロはまじまじと師を見る。そんなことで。たかがこの程度のことで。それを師はよしと言ってくれた。褒めてくれた。ここまで歩いてくることができたその足を、認めてくれた。
「生き物には時がある。お前にも必要があればその時が来る」
「必要なかったら?」
「お前ひとりで満たされてるってことだろ。それはそれで充足した生き方だろうが。あんまり気に病むなよ、禿げるぜ」
 からりと笑ってカレンは立ち上がる。ニトロは何も言わずその背を見ていた。背を向けたまま手を振り、転移して行くカレンを。
 大きな背中だ、と思った。女性にしては高い身長ではあったけれど、男に比べれば狭い背中。それでも広く頼もしい。舌打ちを一つ。
「まだまだじゃねぇか」
 追いつけない。追い越せない。至らない、遠すぎる。そんな風に思うことがカレンにはあっただろうか。エリナードにもあったのだろうか。
「あったに、決まってる、か――」
 未熟なときにはそのようなもの。嘯くカレンの声が聞こえる気がしてならない。それでも悔しい。
「大師匠」
 本当は、見せたかった。エリナードが逝ってしまうその前に、自分は立派になりました。そう言えるようになりたかった。
「師匠は」
 エリナードにその姿を見せた。毅然と立つ魔術師の姿を。彼女自身の魔道を師に見せた。エリナードが歩んできた道を追い越し、発展させ、その先にまで行かんとする姿を。
「俺は」
 カレンに追いつく姿すら、見せることができなかった。魔術師としていまだ至らず、人としても未熟。せめてエリナードには、いずれエリナードを追い越したカレンすら追い越す、その気概だけは見せたかった。
「見せらんなかったな……」
 漠然とした自分自身への不安だけがあった。こんなどこが欠けているのかもわからないままに生きていてよいのか。こんな自分が進む価値はあるのか。言葉にすればそのようなもの。遥かに淡々とした不安ではあったけれど。
 ニトロは黙って立ち上がる。せめて、竜の泉の研究は目鼻をつけたい。蛇の沼の解毒に挑戦したい。何かひとつ達成できたなら、そのときには。何かが見えるかもしれない。
「俺も青いなぁ」
 空になった小瓶を洗い、水を汲む。とりあえずの研究資材、といったところ。沼の方でも採収して、後は道具の揃っているイーサウに戻ってから。
 ふと目を上げれば一陣の風が吹き抜け杏子の花が散っていく。はらはらと、はらはらと。蜂蜜の香りだけがあたりに。落ち着きのない、春に心騒ぐような、こんな気分。いつか誰かに抱くことがあるのだろうか。
「あってもよし、なくてもよし。か――」
 せめて。カレンの言葉ではなく、己の言葉でそう嘯けるようになりたい。研究に成果が上がれば、少し成長できたような気がするかもしれない。
「だから研究馬鹿って言われんだけどな。ほっとけ」
 ふん、と鼻を鳴らしてニトロは再び杏子を見る。竜の泉に散りかかる花びら。水面に映り、揺らめく姿。これを一人で見ていたい、そう思ううちは「その時」ではないのだろうと思う。
「欠落を抱えたまま、それでも俺は生きている」
 杏子に、エリナードに。先に帰ったはずのカレンに。あるいは自分自身に言い聞かせるようなニトロの言葉。いまは呟くしかない言葉も、いつかは言い切れることを願って。杏子の花は風に舞い、ニトロはもういなかった。




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