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カレンならば黙って見守る。彼女にはそれができるとエリナードは信じている。だからこそ、自分は彼女にできないことをしようと思う。そんな自分と気づいた弟子がためにくすぐったそうに笑おうとも。 「お前には逆で同じことを言っておこうか」 涼しい水のようなエリナードの声だった。聞き慣れているカレンが口許で笑う。本人は癒し手などではない、水の扱いがうまいだけだと言う。けれどエリナードの声は何もかもを洗い流すような響きを時折宿す。ニトロも何かを感じたのか目を瞬いていた。 「お前、言われる前にやっちまうだろ? とにかく頑張っちまう、そんな顔してらぁな? だからな、ちょっとした助言だ」 聞くか、と問うエリナードの目。深い藍色が柔らかに。魅入られたようニトロはその目を見ていた。ゆっくりとうなずけば、唇でエリナードは笑う。こんなことは柄ではないと言いたげに。 「無理無茶は、やめとけ。身にならん。――それでもな、結局お前は無理をする。無茶もやる。ガキなんてそんなもんだ。でも言われたことは覚えとけよ? 立ち止まる切っ掛け程度にゃなるからな。どっちにしたって突き進む、そんな目ぇしてらぁな」 ふん、と笑う彼だった。不快なのではない、そんな子供の挑戦心は悪いものではないのだからと言うように。そんなことを思う自分にこそ照れたように。 「それを師匠が言っても全っ然信憑性がないですよ」 「だから俺が言うんだろうが。突き進むだけじゃろくなことにならねぇって実例がここにあるんだぞ。後進のお役に立つなら本望ってもんさ」 かつての口癖を真似されたデニスが頬を赤らめる。ニトロ一人が真摯。考えることも、受け入れることも、飲み込むべきことも。たくさんあり過ぎて眩暈がしそうだった。 「……ゆっくり、立ちます。できるだけ、ちゃんと歩いて行きます」 「はいはい、期待だけはしとくぜ。まぁ、頑張んな。――で、ガキどもの時間はここまでだ。こっからは大人の時間。子供は遊んできな」 ひらひらと片手を振ったエリナード。カレンがこらえきれずに吹き出す。エイメまで一緒になって笑っていた。 「あぁ、そうだ。デニスならわかるな? ディアナにエディの伝言、伝えといてくれ」 「すまなかった、と言うあれですか?」 「おうよ」 「なんだ、あの男。そんなこと気にしてたのか?」 みたいですよ、とエリナードにカレンが笑う。その間にデニスがディアナとは何者かをニトロに話してやる様。一人前の顔をするデニスと一応は殊勝に聞くニトロ。面白いものだとエリナードは見ている。 「ついでにディアナに稽古つけてもらってきな。あいつの剣は鋭いぜ、ニトロ。いい鍛錬になるからよ」 「はい! 行こう、ニトロ。他にも見せたいものがいっぱいあるから!」 「わかったから。年上ぶるなよ!」 「そんなことして……ない。たぶん!」 断言できなかったデニスを小さく笑うニトロ。そうして二人は駆け出して行く。弾む足取りに大人たちはほっと息をしていた。 「なんで引き取ったよ?」 無論、ニトロの素性などエリナードははじめから知っている。学院で見かけただけ、などでは断じてない。 「あいつを学院に置いといたらろくなことにならねぇって確信があったから、ですね。最初は。――いまは、私の弟子だって言えますよ。こんなもんは相性だ。でしょ、師匠?」 「まぁな。――学院、まずいか?」 「まずいなんてもんじゃないですね。正直潰したほうがまだマシかと思う程度にゃまずいですよ」 「あぁ……感じてはいたんだがな」 「カレン様は悲観しすぎですわ。大丈夫、まともな教師陣もまだまだ大勢いますもの。そちらに援助の手を差し伸べれば、きちんと改革はできるはずです」 「とは言えなぁ」 「いや、師匠。本題はそっちじゃねぇんだ」 言ってカレンは懐から小箱を取り出す。エイメに頼んだ闇の手の構成員の血だった。一目でエリナードは顔を顰める。そして真っ直ぐとエイメに向かって頭を下げた。 「まぁ、よしてくださいませ、エリナード師」 「カレンの無茶を詫びる。危ない橋を渡らせただろう?」 「率直に言えば、はい。ですが、大事なお友達のことですもの。何より子供たちが、大人の世界にかかわりのない子供たちが狙われるのは私も不愉快です」 だから詫びなど要らない。エイメは言い放つ。普段の優しさが影を潜め、屹立した強さを感じさせるエイメの眼差し。カレンは無言でその手を取る。和らいだ眼差しがカレンを見つめて微笑んだ。 「じゃあ、まずは解析と行きますかね。せっかく渡ってくれた橋だ。成果は出したいもんだからよ」 二人の姿にエリナードはにやにやとしてみせる。思わず赤くなって言い返そうとしたカレンと、見せつけるように寄り添うエイメ。どちらに何を言ったものか、カレンが迷った一瞬でエリナードとエイメは笑い合っていた。 一方その頃、弟子たちはアリルカを散策していた。途中で出会った神人の子にデニスが「彼がファネルさんだよ」と紹介してくれたりもした。 「さっきさ、エリナード師に、お前。何か言いたいことがあったんじゃないの」 見られていたか、はじめてニトロはデニスを評価する。偉そうではあったけれど、自分の態度に気づいていたとは思いもしなかった。ついで顔を顰めてしまったけれど。 「そんな顔するなよ。聞かれて嫌なことだったら――」 「違う。デニスが気づいたんだったら、師匠たちはみんな気づいてただろうなって思っただけ」 「それはまぁ、そうだと思うけど。でも」 「俺が言いたくなさそうだったから、誰も何も言わなかった。――わかってる」 ふと胸元に手を当てた。学院で感じていた思いがなくなるとは言わない。失くしてはならないとも思う。ゆっくりと立ちあがる。エリナードに言った通りにできそうな、そんな気がした。 「ちょっと、な。――でも、いいんだ。俺がもっとちゃんと立てるようになったら、そのときには、お話ししたいと思う」 彼はもう一度胸元を押さえる。そこに何かを持っているのだろう、デニスは思った。けれど問わない。見守る、と言えばまた年上ぶる、とニトロは言うだろうか。けれどそれができるようになった。そんなこともできなかった三年前の自分。 「魔術師で、よかったなって、こんなときには思う」 「なに?」 「僕たちには、常人より時間があるってこと。失敗しても、まだまだ取り返せる。頑張れる。そういうこと」 ニトロのことではなく自分のことだ、言い添えてしまうデニスにニトロは微笑む。はじめて見るようなニトロの笑みだった。 それからもあちらこちらと歩きまわり、エディが言っていたディアナという戦闘班の長にも会った。伝言を伝えれば馬鹿なことを気にしている、と笑う彼女。ここでも友人たちの姿を見た、ニトロは思う。 おやつをご馳走してくれたお返しに、とデニスは彼女の手伝いを申し出てニトロも付き合う。道具類の片づけだったけれど、武器防具は意外に重くて足がふらつく。それを笑われるのも悪くはなかった。つけてもらった稽古はまるで実戦まがいでニトロは目を白黒とさせる。デニスなどふらふらだった。 月が一巡りするほど滞在し、ゆっくりとすごした。カレンたちやエリナードは時折難しい話をしているらしかったけれど、弟子はかかわるな、と笑顔で封殺され、二人はアリルカを堪能することに忙しくしていられた。 ――ちょっと笑顔が戻ったかな。きっと、戻ったんだろうな。 ニトロの姿にデニスは思う。内向的な彼だったけれど、決して人嫌いではないらしい。積極的にかまわれるのもかかわるのも好きではない様子だったが、他人を排除しようとはしない。それがニトロの立ちあがる意志なのか、本来の姿なのかはデニスにはわからない。ただ、こちらの方が好きだな、と思うだけ。 デニスは今後の参考に、とエリナードから絵の具をもらっていた。ミスティという火系の雄がいる。その弟子たちが色々と遊んでいる絵の具だ、と彼は言った。 「まだ開発初期だからな。お前も遊べんだろ」 嬉しそうに絵の具を握りしめるデニス。羨んだわけではなかったけれど、何かの思いが顔に出たらしい。ニトロの頭の上にぽん、とエリナードは手を置く。いまはファネルの腕に抱かれている彼だった。 「お前の土産はこっち。一冊多く筆写しちまったんだ。やるよ」 ひょい、と差し出されたのは『アルディオン三瀑考』の写本。目を丸くし礼を言うのも忘れてニトロは本を抱きしめる。そんな弟子たちそれぞれの姿をカレンとエイメが笑って見ていた。 イーサウは狼の巣に戻ってから弟子たちは各々「お土産」を手に研究に励む。時折は感想を言い合いもした。楽しくて、ただ魔法が楽しくて。 ――これなら。俺は。 アリルカから帰って二月は経っているだろうか。ニトロが内心で呟いたのはもう夏の盛りも越え、けれど暑さの疲れにぐったりとするころだった。エイメたち黒猫隊はまた仕事に出ている。おかげでカレンは少し寂しそう。そんなことに気づくようになった自分にもニトロは自信を持つ。 夜更けだった。デニスは先に眠ってしまって、規則正しい寝息が聞こえる。暗がりの寝室にぽ、と明かりが灯る。ニトロの小さな魔法灯火だった。 「……うん」 デニスの寝顔を見ていた。なにに自分が納得したのかは、よくわからない。けれど何かは納得した。それならばそれでいまはいい。魔法灯火を消し、ニトロは少し長めの髪を手指で梳く。そして眠った。 「う……朝……。眠い、けど、起きな……きゃぁぁぁああああ!?」 「うるさいよ、デニス」 「ちょっと待てニトロ!? ニトロだよな!?」 「お前は部屋に他人が入ってきて寝てても平気で寝てられるわけ? そうじゃなかったらここにいるのは俺に決まってる」 「なんでそんなに理路整然としてるんだよ! 驚くに決まってるだろ! どうしたんだよ、その頭!?」 黒髪だったニトロ。朝起きたら銀髪に。否、白金と言った方がいい独特の色合いに。まさかいくらなんでもおかしいだろう。混乱するデニスにニトロは冷静に肩をすくめた。 「朝っぱらから何騒いでやがる。おう、ニトロ。戻したのか? はじめて見たけど、似合ってるな。私はそっちも好きだぜ。ま、好きにしな」 「戻したって、師匠!?」 「こっちが素顔。デニス、飯の支度するよ」 淡々としたニトロだった。背中からまだ悲鳴が聞こえる。それでも拒絶ではなくただ驚いたと言っている。隠し事をしていたと非難されてもいない。 「……師匠、はじめから知ってたんですね?」 すでに歩きはじめているカレンの背中に言えば振り向きざまににやりとした笑み。ニトロは小さく笑って目礼をする。 蜂蜜色の肌に白金の髪という否が応でも目立つ容貌。いままで見せたのはネイトだけ。素顔に戻る気になったのはどうしてだろう。切っ掛けは、なんだったのだろう。 「なんとなく、かな」 内心での問いに自分で首をかしげ、それでもニトロは歩きだす。朝食を作りにだった。けれど爪先は未来に。きっとまだ見ぬ魔道の先に続いている。 ――歩いて行くよ、ネイト。 ふっと背中の空気が揺らいだ気がした。きっといまだ騒がしいデニスのせい。それでもどことなく、ネイトが笑った、そんな気がニトロはした。 |