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きょとんとしたニトロの、その眼差しがふとエリナードの膝掛に落ちる。フェリクス・エリナードはかつての事故で体の自由を失った、と言う。そのためのものなのだろう。それにしても素晴らしい逸品だった。ニトロの視線にカレンも思い出したのだろう、手を閃かせるなり淡い緑のレースが現れる。二人の弟子たちが顔を見合わせ「あの呪紋のレース」とうなずきあう。そんな自分に気づいたニトロがそっと視線を外した。 「あぁ、そうだ。師匠。返しますよ、これ。参考になりました。ありがとうございます」 最後だけは折り目正しいカレンだった。そんな弟子にエリナードは片手だけを突き出す。どうやら照れたらしい。 「本当に素晴らしいお品ですわ。実用品でありながら芸術品でもある。素敵なことですよね?」 「あんまり褒められると……なぁ?」 「あら。でも素敵ですもの。私も一枚いただきましたの。カレン様が編んでくださって。私のは乳白色のレースでしたわ」 「エイメにはこういう色物よりそっちのほうが似合うからよ」 「相変わらずの仲良しだよな。さっさと付き合っちまえよ、お前ら」 「そんなんじゃねぇって言ってんだろうが!?」 カレンが怒鳴っていつもどおり。ぷ、と吹き出したのはエイメ。そして弟子たちにこんな調子なのよ、と言うよう微笑んだ。その優しい目がエリナードを見やる。まるで陥れるように。 「この飾り櫛、素敵でしょう、エリナード師?」 「おう、さっきから実は気になってた。イーサウの新作か?」 「えぇ、そうですの」 「見せてもらってもいいか?」 うなずくエイメは唇で笑いながら金の鳥をかたどった飾り櫛を外す。弟子たちはちらりとも視線を合わせない、妙なところで順応性の高い弟子たちだった。 「えぇ、もちろん。でも、大切に扱ってくださいませ、カレン様が買ってくださったんだもの」 「だから、エイメ!」 「ほうほう、なるほどなぁ?」 師匠、と怒鳴るカレンとまるで頓着しないエリナード。間でエイメが笑っていた。こうなるとわかっていてやっているのだからさすがエイメ、ということか。エディの言葉がニトロの脳裏に蘇る。エイメはカレンの友人なのだ、と。その思いに知らず口許が緩み、そして緩んだ自分に驚く。その間にもカレンはぶつぶつと文句を言い続けていた、弟子の思いなどお見通しであったとしても。 ――悩んだり戸惑ったりするのも生きてる証拠ってな。頑張れよ、次男坊。 内心での思いに気づいたエリナードが目だけでちらりと笑う。弟子たちに気づかれることを恐れて睨みもできないカレンと知っていてやっている彼だった。 「いい細工だな。石の留め方が変わってる。新しい方法だよな」 素知らぬ顔のエリナード。今更改めて思うほどのこともない、この男はこういう男。溜息まじりの思考を投げればにやにやとした笑いの気配。 「こういう風に留めた方がきらきらすんでしょうよ」 「なるほどな、光が綺麗に透けるのか」 ためつすがめつ飾り櫛を見やる姿はまるで職人。かつての自分ならば何を思うだろう、デニスは考える。いまは違うことを。エリナードはそこからどんな魔法を発展させるのかと。それはきっと素晴らしいものに違いない。その素晴らしさもかつての自分が考えていたものではない。そう思えることが少し嬉しいデニスだった。 「デニス?」 ニトロに呼びかけられ、デニスは飛びあがりそうになる。顔に出ていたのか、と。それすらも顔に出ていて、ニトロとしては本人が気づいていない方が驚きだったのだけれど。 「うん、色々。考えることがあるな、と思って。前の自分の最低さとか、これからのこととか」 何度となく過去のことを語るデニス。それほど後悔しているのか、それとも新たな決意の表明として口にするのか。付き合いも短い上に人生経験の足らないニトロにはまだデニスの真意はわからない。ただ。 「……あんまり、自分を最低とか言うの、聞いてて気持ちよくないよ、デニス」 あ、と小さく声を上げたデニスだった。言われてみればそのとおり。いまだ至らない自分。十歳も年下の少年にたしなめられ、けれどデニスは嬉しい。 「うん、ありがとう。気をつけるよ!」 それを素直に聞き、受け入れることができた自分がそこにいた。またニトロも思わず顔をそむけるほど、居心地が悪い。こんなことを言えばデニスが不快になるのではないか、なればいいのではないか。試した自分だと気づいてしまったからには。それでも笑って感謝を述べたデニス。はじめて十年分の歳月を彼に感じた。 その間にも魔術師たちは細工の話に余念がない。魔法でどう再現するか、何をどうするか。石の留め方から話題は光の透過へと。細工の話がいつしか完全に魔法の話になっていく。侃々諤々と語り合う師弟をエイメが楽しげに聞いていた。 「んー、時間ができたらやってみるかな。お前もやれよ」 「いいですよ、競争です。どっちがいいもん作れるか、ね!」 「俺と競う気かよ? まだまだ青いのを知るだけだぜ」 ふふん、と笑うエリナードにカレンは対抗心もあらわ。それでいて嬉しげ。耳の半分で聞いていたことをいつか自分も試してみたい、ニトロはそっと思う。いまはまだ技量が足らなすぎる自分だった。 「ありがとよ、エイメ。返すぜ」 エイメの下に戻った飾り櫛。何気なく手に取ったカレンがエイメの髪にと留めればエリナードが吹き出す。まったくの無意識だったらしいカレンだ、はじめて見るほど頬が赤らんでいた。わざとらしく咳払いをする彼女を大らかに師が笑う。話を変えるぞ、とばかりエリナードを睨んだ。 「そういや師匠。その膝掛。すごいな」 「本当に! エリナード師がお作りになられたんですか!」 勢い込んだデニスだった。ニトロは一瞬エリナードが編み針を持っているところを想像してしまったが、これは誤解だろうとすぐさま気づく。魔法で編んだに違いない。いまエリナードの手に戻ったレースからしてそうだった。 「中々だろ?」 言ってエリナードが膝掛を持ち上げる。二色の細い細い毛糸で木の葉模様を編み出した、見ているだけで頭痛がしそうな品だった。初夏、とあって薄手の膝掛なのだろう。足の痛む彼のこと、冷えるとなお痛むらしい。おかげで夏場でもこうして膝掛を使う彼だった。 「これ……師匠の手じゃねぇな? 誰です?」 さすがに弟子だった。カレンは一目でエリナードの手ではない、と看破する。それに彼がにやりと笑った。思わず身構えてしまうのは、間違いではない。案の定。 「ファネルだよ。――俺の連れ合いだ」 カレンをはじめ、ニトロ以外の全員を絶句させてから、ニトロにだけはファネルが何者かを伝えてやる。心の細やかな人だ、とエイメはぼんやりと思う。それほど驚いていた。さほど深い知り合いというわけではないが、まさかファネルとは思ってもいなかった。 「やつは神人の子でな。気の長さが半端じゃねぇわ。俺だったら絶対無理だわ、これ。手編みだぞ手編み。魔法でやんならともかく、手で編むのは気が遠くなるな」 「……ファネルさんが……。ちょっと頭痛がしますよ、私」 「俺だってそうだわ。こっちが呪紋の編み出しを考案してたら横で編みはじめやがってよ。度肝を抜かれたぞ」 ファネルという神人の子はエリナードの仕事姿に思い起こしたのだ、と彼は言った。かつて幼いころの集落で手仕事をしていた年長者たちの姿を。 「そんでやってみたらしいぜ」 「それでできるってのが神人の子だよなぁ。思い出すって言うか覚えてるって言うか。面白いもんですよね」 「だよな。見たら忘れないらしいからよ。俺の役に立つならちょうどよかったとかぬかしやがったわ」 「惚気てんじゃねぇぞクソ親父」 「たまにゃ娘の惚気も聞きてぇもんだけどよ、親父としてはな」 「誰が言うか!」 エリナードにだけは言わない、言い放ったカレンはどこかくすぐったそうな顔。聞くエリナードもまたにやにや笑う。 「ちなみにな、これ。俺以上にイメルが気に入ってよ。イメルはわかるか?」 無言でいても聞いている、とエリナードはわかっているのだろう、それも興味深く聞いていると。だからこうして確認をしてくれる。それが嬉しくてニトロは素直にうなずいていた。 「そのイメルがな、この模様を織り出すんだって燃えてるぜ」 現在の塔の管理者、タイラント・イメルはエリナードの長年の友だった。いまも共にアリルカにあって競うように二人して魔道の発展に尽している。 「さて、坊や。なんでかわかるか?」 エリナードの語調にカレンがにやりとした。エリナードは子供が苦手だ、と言い続けているけれど、結局はこうしてデニスのような箸にも棒にもかからないと断じられてしまう青年でも導こうと努力を惜しまない。ニトロに対する眼差しも優しい。こうして育てられた自分だ、ともカレンは思う。 「えっと……その。楽しそうだから、ですか? 魔法を織り込められたら、もっと楽しそうです!」 「そのとおり。だからイメルは色々遊んでるぜ」 デニスにはエリナードが何を言わんとしているかがわかる。いまは、わかる。過去の自分が恥ずかしく、それがまた励みになる。 「お前ならどうする?」 エリナードの問いにデニスは即答していた。膝掛を見たときから実は思っていたことを。 「絵を。僕なら絵を。動く絵があったら、楽しいとお思いになりませんか? 絵本にしたら、きっと子供は楽しいです。何より僕が見たいです」 どうしたらそれが実現できるか。自分の技量で何ができるか。わくわくと考えているデニスだった。エリナードの眼差しがふっと和らぐ。ニトロはそれを見ていた。見られていると気づかない彼ではなかったけれど素知らぬままデニスに笑う。 「変われば変わるもんだぜ、頑張んな」 デニスに言った言葉。勢いよく返事をする彼。が、ニトロが目を見開いていた。 ――変わる。 たった三年前だ、とデニスは言っていた。そのときの自分の振る舞いを話してくれたデニス。いまここでエリナードが変わった、と言う。 ――俺も。 変わるのだろうか。変わっていかれるのだろうか。進みたい、けれどどうしたらいいか何度となく戸惑う。ぎゅっと握った拳はけれど、とにかくまずは立ち上がろうとする意志。三人の魔術師たちの眼差しは柔らかだった。 |