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泊っていく、と言うエイメに少々手狭になってしまった弟子二人は隣の家へと移動していた。ニトロが魔道書の筆写をしたい、と言うので道具込みでそちらに移る。 「ここは……?」 移動しよう、とだけ言われたニトロだった。学院に行くのか、あるいは魔導師会本部で部屋を借りるのか。大方そんなところだろうと思っていたのにまさか隣家だとは思いもしなかった。 「ここは元々師匠の家だったんだってさ」 いまは片付いて何もない工房。カレンの呪文室だったそこも解呪されて久しい。二人はそこに大きな卓を持ち込んで筆写に励む。 「師匠の……?」 「うん、そう。なんで隣り合った両方の家って、思う?」 楽しげなデニスの声。ニトロは嫌な気分ではない。ただ顔には出にくい質で、それが学院では誤解を招いてきた。そこが少し、不安。が、デニスはまるでわかってるから大丈夫、とでも言うよう微笑んで話を続けた。 もっとも、デニス本人は大変な緊張にさらされている。どこも大丈夫などではない。本当は冷や冷やしっぱなしだった。ニトロが不快にならないように。気を使い過ぎないように。思えば思うだけ、どうしていいかわからなくなる。 ――これも、修行、かな? 内心で呟いては奮い立つ。確固たる「自分」を手に入れるために。三年ほど前のことを話題の関連からか思い出していた。 「いまの家はエリナード師が住んでたんだって。エリナード師が引越されてから師匠が使うようになったって聞いたよ」 「そう、なんだ?」 「うん。みたい。ニトロ、エリナード師とは?」 体が不自由になってからも学院には時折姿を見せているらしいエリナードだった。が、どういうわけかデニスは学院時代に彼と行き会ったことはない。 ――それだけ周りを全然見てなかったってこと、なんだろうなぁ。 エリナードの来訪が話題にならないはずはなく、デニス自身が気に留めていなかったせいだといまは悟っている。当時は大英雄、と憧れていたはずなのに。思えば恥ずかしくてたまらなかった。 「遠くでお見かけしたことがあるくらい」 やはりニトロは学院で見かけていたらしい。本当に自分は何をどう見聞きして生きてきたのか、と悶絶したい気分のデニスだった。 「そっか。なぁ、エリナード師ってすごいかっこいいよな? あれじゃん、吟遊詩人の語る『星の騎士』の歌、知ってる?」 「瞳に星を持ちたる騎士マリウスは? 聞いたことはあるけど」 「それそれ。あんなの目じゃないくらいだろ? 絶世の美形っているんだなぁってびっくりした」 輝かんばかりの鮮やかな金髪。深い藍色の目。優雅な物腰と物憂い眼差しに引き締まった唇。それでいて無頼も腰を抜かす荒っぽさながら野卑ではないのは救いか。 「学院でも……エリナード師がお見えになるとみんな騒いでたよ」 ぽつりと言うのは思い出の痛みのせい。デニスは黙っているだけ。何を言っても浮ついた言葉にしかならない。無言の方が数倍ましだ。それにニトロが小さく笑った。それに意を強くしてデニスは口を開く。 「僕はさ、こんな調子だろ? 三年前はもっと酷かった。それで師匠にちょっとエリナード師に叱られて来いって放り出されたんだ」 どことなく恥ずかしそうなデニスの表情。率直なそれにニトロは真顔のまま。彼が語る話を淡々と聞いていた。 「だから少し、いまはましになったって、言ってもらえるかな。どうかな。わからない。わからないって、言えるようになったのは進歩だと、自分では思うんだけどね」 「言えなかったの?」 「なんでだろうね。なんかさ、魔術師は立派ですごいんだから完璧、みたいに思ってたんだ、僕は」 たかだか弟子の身で完璧などあり得るはずもないのに。カレンですら自身、完璧には程遠いと言うのに。 「僕にとってエリナード師は憧れだった。いまでも憧れではあるんだけど、ちょっと質が違う。なんて言うんだろ。前は物語の登場人物としか思ってなかった」 そんな感じ、と照れ笑いをするデニス。ニトロにはその感覚がわからない。実在の人だろうに。面会の機会を得たことはなくとも、すぐそこにいる人物を物語として捉えることは自分にはできない、ニトロは思う。 「エリナード師の事績って言ったらお前、何を思いつく?」 「人造湖?」 「だよな!」 即答されてデニスはつい喜んでしまった。自分もそうだった。いまでも素晴らしいと思うが、当時とはやはり違う。この弟弟子もまた彼の事績、と言って一番に上げるのがそれとはそれでも嬉しかった。 「すごいと、思う。あんな大規模な工事を魔法でやって、きちんと事業として定着させたとこが、ほんとにすごいと思う」 カレンがここにいたらどうするだろう、ぼんやりとデニスは思う。ぽかんとしていた。ニトロはまだ十三歳。十以上も年下の彼。 「デニス?」 訝しげな顔をされて慌てて強く首を振る。思わず両手で自分の頬を叩いていた。 「すごいな、ニトロ。僕はエリナード師に叱られるまで、公共事業なんて考えたこと、なかったんだ」 「どういう意味? だって、イーサウで依頼して、学院が承けたんだよな?」 「それそれ。だからさ、なんて言うんだろ。エリナード師は英雄だって思ってて、英雄なんだけど、そうじゃなくて。――こう、イーサウの大英雄がみんなのために人造湖を作ったんだすごい!って、思ってたんだ」 恥ずかしそうに顔を伏せたデニスだった。その真っ直ぐさがニトロは少し眩しい。十は年上のはずの彼がここまで素直であるのはそれはそれで美徳なのではないかと思う。 「お前はちゃんと物事を見聞きして、自分で考えてそこまでたどり着いて言うんだろ。僕はようやく最近になって前を見るようになった。周りを見るようになった」 小さな溜息。デニスのそれにニトロはわずかに緊張する。また、言われるのかと思った。子供のくせに何を考えているのかと。子供なのだからもっと無邪気でいろと。 「ほんとさ、三年前の自分の首根っこを掴んでちゃんと見ろ、ちゃんと聞けってがくがく揺さぶりたいよ、僕は」 だがデニスは嘆きと共にそう言っただけ。ニトロではなく、自分の過去を責めていた。そのニトロの視線に気づいたのだろうデニスが顔を上げては首をかしげる。 「……俺は。物の見方が斜めなんだ。デニスみたいに真っ直ぐじゃない」 皮肉な声をしていた。三年前の自分だったらたぶん言っただろう。子供なのだから無邪気でいいのにどうしてできないのだ、と。いまはこれがニトロなのだろうと思うだけ。口にもしなかった。 「そうかなぁ。僕は考えが足らないだけだと思う」 「――デニスが真っ直ぐなのは、いいんじゃないの。別に誰の迷惑にもならないでしょ」 「なってた。めちゃくちゃ迷惑かけたんだって!」 「それでも。それはそれ? デニスはデニスって言うか。俺は俺以外の誰にもなれないし、デニスもだろ。そういうもの……なんて言うから、生意気だって言われるんだけど」 肩をすくめてかりりと筆写の筆を走らせるニトロ。照れているのか、ようやくわかる。表情の薄さにはらはらとしていたけれど、ニトロはニトロなりに会話を楽しんでいたらしい。 「それこそ、それがニトロらしいんだったら、いいんじゃない? ――ようやくさ、こういうことが言えるようになった。僕の考えだけが正しいって、なんであのころは思ってたんだろ。馬鹿にもほどがあるよね」 少年時代はそういうものだろうとニトロは思う、いまだ少年の身ながら。このような考え方をするから教師に疎まれたのかな、と思う。朗らかなデニスの明るさが嫌ではなかった。むしろ気が楽になった、ほんの少し。 「……俺、過敏だったかな」 「ニトロ?」 「前にデニスに怒鳴っちゃったじゃん」 「あれは――!」 「だからさ。デニスはデニスなのに、なんで学院の誰かとおんなじだって、思ったんだろ。すごいむかついて、腹立って。デニスはたぶん褒めてくれただけだっただろ」 「たぶんじゃない。全面的に褒めてた」 そこまで率直に言われるとそれはそれで恥ずかしい、思うニトロの頬にわずかな赤味。学院から来たばかりのころに比べて顔色が格段に良くなったニトロだった。浅黒い肌にほんのりと上った血の色が彼を珍しく幼げな表情に見せていた。 「それなのにさ、あんなに怒ることなかったなって。褒めてくれてありがとうも言えなかった俺はやっぱりひねてたと思うし、過敏だったって言うのはそういうこと」 「ほんとさ……」 「なに?」 呆れ顔のデニスに警戒するニトロ。それにデニスがにんまりと笑った。カレンを真似ているらしいけれどどこから見ても善人顔のデニスだった。カレンのような精悍な雰囲気には程遠い。 「お前のまともな頭のちょっとでもいいからわけてほしいよ! そこまでちゃんと考えるお前はやっぱりすごいなって、僕は思う」 どきどきしながら言っていた。あのときと言っていることはたぶん変わらない。言葉が少し変わっただけ。ニトロがそれにどう反応するか。 「……ありがと」 自分の言葉を証し立てるようなニトロ。今度こそデニスは本気で感嘆した。周囲を見聞きする、公平に観察する。その上で自らの立つ位置を決める。それはこういうことなのかと。 「デニス、手が止まってるよ」 彼の眼差しにニトロは唇を尖らせる。たぶん無意識なのだろう仕種が妙に可愛かった。きっと友人を失くす前の彼はこんな子供だったのだろう。 ――大丈夫。きっと師匠がお前の幸せへの道筋を示してくれるから。きっとお前は自分で道を選べるから。 カレンがエリナードの下に放り込んでくれたように。彼女はニトロにも道を示してくれる。それが気に入らなければ自分で違う場所を探すことができるようにカレンはしてくれる。それを信じられることがいまは一番嬉しいデニスだった。 「はいはい。あぁ、そうだ、晩飯、今夜はお前が作ってよ」 即座に上がる文句。言われて嬉しいデニスだった。本物の兄弟弟子に一歩近づいた、そんな気がして。デニスの表情にニトロも感づく。黙って筆写を続けた。 |