夢のあとさき

 いまの研究だとか今後の研究課題だとか、そんなことをデニスとカレンがわいわいと話している。それをニトロが興味深そうに聞いていた。時折は口も挟む。悪くないな、とカレンは内心で安堵していた。
「ごめんください」
 不意に玄関口から聞こえる声。カレンはとっくに気づいていたけれど、弟子たちは違ったのだろう。デニスが驚く。そして慌てて立とうとすれば客のほうが勝手にやってきた。
「カレン様!」
 甘い琥珀色の髪、上等な茶水晶めいた美しい目。何より華やかでいて上品な女だった。その客人がカレンを呼びつつふわりと彼女に抱きつく。カレンの方も立ちあがっては客を抱き返していた。
「お帰り、エイメ。無事だったか?」
 軽く腰を抱きつつ片手でその頬をたどる。エイメと呼ばれた女も嬉しそうにカレンの目を見つめ返していた。
「えぇ、大丈夫よ。怪我はないもの、私はね」
 ぱちりと片目をつぶり、首に投げかけた腕もそのままにきつくカレンを抱き締めるエイメ。カレンの方も笑いながら再度その華奢な体を抱き返す。
「あー、師匠の友達。――って本人たちは言ってるけど」
 ぼそりとデニスがニトロに説明をしてやっていた。説明されている当人はいったいこの姿のどこが友達なのだろう、と首をかしげている。どう見ても仲の良い恋人同士の再会だ。
「やっぱりお前にもそう見える? 僕の勘違いじゃなかったんだー。よかった!」
 朗らかになったデニスにもニトロはどう言葉を返したものか、迷っている。率直に「おかしいだろう」とは言いかねたし、何より少々暑苦しいほどの感動の場面が続いている。
「あら? 見たことない子がいますのね、カレン様。新しいお弟子さん?」
「おうよ。ニトロだ。――ニトロ、こいつはエイメ。私の友達だよ。いつか会わせてやるって言っただろ? こいつのことさ」
 確かに言っていた。友人に会わせてやろう、とは言っていた。が、よもやこのような女性だとは思いもしなかったものを。ありありと少年の顔に書いてあってエイメ共々笑いをこらえる。
「はじめまして、ニトロ君。デクストラ一門のアーウィン・エイメと言います。エイメと呼んでね」
「エイメは幸運の黒猫って傭兵隊付きの魔術師でな。それで外に出てたんだ」
「傭兵隊……」
 驚くだろうな、と思っていたデニスだった。案の定ニトロが驚いたことでほっとする。エイメは魔術師には見えても傭兵には見えない。どこぞの貴族の寵姫、と言われればそちらの方が納得できるような女性だ。美しくておっとりとしていて。とても戦うようには見えない人。
「これでも歴戦なのよ?」
 ふふ、とエイメが笑った。それからようやくカレンを抱いていた腕を解く。それも名残惜しそうに。年頃の少年がいるから仕方ない、と言いたげな素振りにさすがのニトロも小さく笑った。
 そのエイメの態度にカレンは感嘆している。エイメは何も知らないはずだった。ニトロがどのような境遇にあったのか、今どうしてここにいるのか。彼女は何も知らない。それでもここまで何気なくニトロを気遣う。これが傭兵隊の凄味だな、とカレンは思っていた。
 弟子たちは知らないことだったけれど、黒猫隊は工作に出ていた。直接の戦闘も当然にしてあっただろうけれど、それより規模が大きかったのは情報攪乱と破壊工作だ。
 もちろん、闇の手絡み。黒猫には表向きの顔を持ち、かつイーサウが直接抗議をできない闇の手の構成員を潰してもらっていた。
「カレン様、心配なさらないで。本当に大丈夫よ。誰も怪我はないの。あちらさん以外はね?」
 あでやかに微笑みつつエイメの言っていることは相当に過激だ。デニスは遅れて気づいたのだろうけれどニトロはさっさと感づいた。面白いものだな、とカレンは笑う。
「本当かよ? あとで見せろよ」
 エイメの言葉の意味がカレンにはわかっている。弟子たちの前で詳細を話すまいとしたエイメ。けれど結果は早く知りたいだろうと「万事問題なし」を告げてくれた彼女。思わずにやにやとしてしまう。
「あー、師匠? その、何を見せていただくんでしょうか」
「そりゃ体を? エイメ、平気で傷を隠すからよ。心配でならねぇったらないやな」
「もう、大丈夫なのに。――カレン様ったらこんな風に武骨な態度を取るのに、優しい方よね、ニトロ君?」
「素直にはいとは言いにくいと思います、エイメさん!」
 デニスが兄ぶって言い返せばうっかりとニトロもうなずいてしまっている。それにこらえきれず笑うカレンだった。
「あぁ、そうだ。デニス、洗濯もん取り込んでくれ」
「洗濯物……? あぁ、はい、わかりました!」
 洗濯などした覚えは微塵もなかったが、例のレースのことだろう。デニスは軽い足取りで走って行き、すぐさま戻る。その手には繊細なレースの肩掛けが二枚。片方はほんのりと淡い黄色を帯びた白。もう一方は初夏の新緑の涼しい緑。
「まぁ、素敵。――こちらはカレン様の手じゃないでしょう? エリナード師のお手かしら」
 緑のレースを手に取ったエイメが首をかしげた。それにデニスは驚く。区別がついていなかった。というよりどちらもカレンが編んだものだと思い込んでいた。
「師匠が、なさるん、ですか?」
 ニトロの大きくなった目。触ってもいいか、と目顔で問えば微笑みながらエイメが白のレースをニトロに手渡す。それに目礼をする少年をエイメは優しい目で見ていた。
「水の、匂いがする……」
「え? ニトロ? 雨は……降らないと思うんだけどなぁ」
「そっちじゃない。このショール。なんだろう……水の感じ」
 その頭の上、ぽんとカレンの手が置かれた。見上げればにやりと精悍な師の顔。強い人だな、ふとニトロは思う。なぜか唐突な激しさでそんなことを思った。
「いい勘してるぜ、お前。そのとおり、そりゃ呪紋だ」
「え!?」
 見せて見せてとデニスが横から手を出した。渋々とニトロが半分ばかりデニスに譲ってやる。結局は一緒に覗き込んでいるその姿。
 ――妙に可愛くって困るよなぁ。
 ――カレン様、親馬鹿よ?
 ――うっせぇよ、わかってら。
 するりと入り込んできたエイメの心の手触り。本人を抱き締めるより安堵していた。エイメの無事の帰還。傭兵の彼女はいつどこで倒れるか、わからない。かつて魔物にやられて生死の境をさまようエイメを看護したこともあるカレンだった。
 ――本当に平気よ。あんまり心配されると傭兵やめなきゃならないのかしら、なんて思っちゃうわ。
 心の中、肩をすくめたエイメの心象。カレンはついつい苦笑していた。誰より気の合う友人だった、その彼女を失いたくない。
 いい大人の自分ですらそう思うのだ。ニトロの苦痛はいかばかりだったことか。痛いほど想像できてしまって、カレンのニトロを見る眼差しは透き通るように優しかった。
「お前ら、学院でやらなかったか?」
「編み物を、ですか? 僕は――記憶にないです」
 そんなことで魔法を使うのか、迂闊に言い出しそうだったデニス。が、彼は気づいた。成長したわね、エイメが片目をつぶるのに頬を赤くする。
「ちょうどいい訓練なんだがなぁ。編み物ってのは結果がわかるだろ。呪文の構築を学ぶのにいいぜ。どこで間違えたかすぐわかるってのはやりやすいだろうが」
「そういう……」
「おうよ。まぁ、私のはいまとなっちゃ趣味だがな。なぁんにも考えないでぼけっと集中したいときにやるぜ」
「ほんと、素敵よね。綺麗だわ……」
「師匠がレースで呪紋を編めないかって試しててな。描けるんだったら編めるって思うあの男の頭の構造が知りたいが……結果的にできてるからなぁ」
 だからそれは水の気配がして当然なのだ、カレンは言う。よくある護身の文様ではなく、雨除けの模様だった。
「傭兵ならあると便利だろ?」
 言いつつカレンは白の肩掛けを弟子たちから奪い取りふわりとエイメの肩にまとわせる。甘い琥珀の髪に乳色の優しさは殊の外よく似合った。
「まぁ、私に?」
「お前以外の誰に編んだと思ってるんだ?」
「嬉しい、ありがとう。カレン様」
 肩掛けを手で押さえ微笑む彼女。思わず二人の弟子は顔を見合わせる。
「これで彼女じゃないって言い張るんだ、このお二人は」
 肩をすくめたデニスにニトロの口許もほころぶ。そして胸の奥に痛みが走る。ネイトと自分と。彼女たちのようではない。けれど彼女たちのよう、仲のよかった二人。
「友達……いいよね」
 ぽつりとした言葉。思わず口をついてしまったそれにカレンが知らんふり。デニスはどぎまぎとどう返したものか迷っているらしい。
「でも、誰かと仲良くなるのは苦手。俺は、研究したり本読んだりする方が、楽しいんだ。それはデニスにもわかってほしい」
 この家に暮らすようになってはじめてニトロはデニスに主張する。彼が気を使ってくれていることも、いまなお友人を作ろうとさせていることも気づかないはずはない。それでも。
「え、あ。うん。そっか、うん。わかった……と、思う。わかってなかったらまた言って」
「わかった。何度も言う」
「ってニトロ!? 僕が理解してないの前提みたいじゃないか!」
 抗議をするデニスをカレンが笑っていた。ニトロ君の勝ちみたいね、とエイメまで笑っている。その手がカレンの肩掛けを大切そうに押さえている姿。なぜとなく、ニトロは目を細める。羨んだのではない、憧れでもない、回顧でも。では何かと問われればわからないとしか言いようのない感情。
「こいつの淹れる茶はけっこううまくなってきたぜ。エイメに淹れてやってくれるか、ニトロ?」
 焦ることはない、無言のうちに語るよう頭の上に置かれた手。ニトロはこくんとうなずいて台所へと。大勢と話すのは苦手だった。ほっと息をつく。
「すごいな、あのレース。呪紋で、あんなことができるんだ……」
 手触りと文様と。思い返すニトロの頬は赤い。まだまだ先があるなどとても言えないほど道に入りはじめたばかりの自分。踏み出した一歩。
「俺、魔術師になるよ。ネイト。お前が好きだった魔法、どこまでも突き詰めてみるよ」
 遠くで見ていてくれとはまだ言えない。ネイトの死に顔が浮かんでしまう。ぎゅっと拳を握り、ニトロは茶を淹れる。居間で笑いさざめく三人の声。悪くない気分だな、と思いつつ。




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