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昼も近くになって扉の前のデニスの心、ふと触れてくるものがある。思わず飛びあがりそうになった彼は照れ笑いをして立ちあがった。 「……すごいな、師匠」 儀式の終了をカレンから告げられたデニスだった。このあと二人はしばし話をすることだろう。門番役ご苦労さん、と言ってくれたカレン。 たった、それだけのこと。けれど魔術師ならばわかるその技量の凄まじさ。カレンとデニスは扉を隔てていただけ。しかしカレンがいたのは呪文室だ。一切の魔法効果を外部に漏らさない構造になっている、呪文室だ。 「なのに、あんなに簡単に」 精神への接触も言ってみれば魔法の一種。呪文室の内外で接触をするなど、デニスには到底無理だ。それをカレンは易々と行う。 「きっと」 一人前の魔術師とはそういうものなのだろう。かつては自分もいずれそうなるものだと思っていたデニス。いまは少し、不安だ。 「できるように、なる。なりたい」 魔術師として人の役に立ちたいから、ではなく、自分が魔道を歩むために。以前のことを思い返して頬を赤らめつつデニスは買い物に向かっていた。 「なんだか食事の支度ばっかりしてるよなぁ」 嫌いではない、むしろ好きな方だ。とはいえ、こうして食後に待機をしてまた支度、となるとどことなく苦笑してしまう。 買い物から帰ったデニスは昼食の用意を。まだ二人は呪文室らしい。一人でデニスは手を動かす。 「あんまり大袈裟だと、嫌だよな?」 ニトロを祝ってやりたい。その気持ちは嘘ではないのだけれど、ならばよけいにニトロの心に添うものでなければ意味がない。そう考えられるようになった自分が少しだけ誇らしい。 とはいえ、何をどうしたら喜んでもらえるか、付き合いが短い上に年齢差があり過ぎてよくわからない。 「僕があのくらいの時って、どうだったかなぁ」 学院で意気揚々と勉学に励んでいた、そんな気がする。恐れを知らない、というよりは愚かすぎて周囲がまったく見えていなかった自分。 「ニトロには、そんな思いをしてほしくないな」 しないだろうけど。手を動かしつつデニスは笑う。頭の出来で言えばニトロの方がたぶんずっと上だ。魔力も間違いなく彼の方が上。では技術は、と問われればデニスは今現在ならば自分が上、と答える。 「でも来年だとちょっと危険かも」 思わず手が止まり、ぶるりと震えた。そんなことにはさせない。まだまだ自分の方が先を進んでいる。いずれ間違いなく抜かれるのだとしても、自分は魔道を広げる型の魔術師になりたい。きっとニトロは最先端を行く。 「違っても、別にいいんだって。それが優劣じゃないんだって。ニトロはニトロ、僕は僕。師匠、それが言いたいのかな」 自分により、まずニトロに。学院であまり気分のよくない思いを続けてきた彼にカレンは彼自身の在り方が間違ってはいない、そう言いたいのかもしれない。 「おう、まめな男もいたもんだぜ」 とんとん、と階段を踏んで上がってきたのはカレン。振り返ってデニスは瞬く。ニトロに見えなかったわけではない、それでもあまりにも異なった雰囲気。 「……これから、よろしく。デニス」 「え、あ。うん! よろしく、ニトロ!」 手を差し出せば苦笑して握ってくれた。それからさも嫌そうに服の裾で手を拭くニトロ。料理の途中で手が濡れていたのを忘れていたらしい。照れ笑いをするデニスを大らかにカレンが笑った。 「儀式だけって言っても、けっこうお腹空くだろ?」 「うん、まぁ」 「お前くらいの年齢だとかまわれるの嫌だったりするかなとか、色々思うんだけど。僕には方法がわからないから。嫌だったら嫌って言ってよ?」 「デニスは考えなしの阿呆だからな、ニトロ。はっきりわかりやすい言葉で断言してかまわんぜ」 「師匠、それじゃ僕が……!」 「ん? 反論があるなら承ろうかい、デニス坊や」 「ま、前よりは少しはましになってます!」 「言い返し方がましになったことは認めようかね」 ぱちりと片目をつぶったカレンにニトロはほんのりと呆れ顔。これでまともになったのならば以前の酷さが窺えるというもの。 そんなニトロをカレンは横目で見ていた。深い目にあった鎧戸。入門を果たして今は開かれている。何重にもあったそれがなくなるのはやはり嬉しいものだった。 ――とはいえ、いまは磨り硝子の窓が一枚ってところかな。 まだまだ内心がはっきり窺えることはない。隠し事をしている、そう顔に書いてあるも同然のニトロ。カレンはその隠し事の内容を知っているのだけれど、ニトロは知らないと思っているのだろう。 ――まぁ、いずれだな。知ってるよって言ってやってもいいんだが。 それではニトロのためにならないだろう。自分で自分の心に決着をつけて告げる、その必要があるとカレンは思う。 「あ……おいしい」 デニス心尽くしの昼食はありきたりの家庭料理だった。学院ではかえってあまり見たためしがない類のそれだったからこそ、ニトロは懐かしいような気がした。 ――お母さん、お父さん。……祖父ちゃん。 遠くなってしまった故郷。そしていま、魔術師としての一歩を踏み出し、家族が知っていたあの子供は「死んだ」ことになる。自分と家族との縁はこれで切れた。いまここにいるのはエリナード・カレンの弟子であるニトロ。 「懐かしそうな顔してんな? なんか覚えがあるか?」 「あ……いえ」 「うん? 昔、家族と食った、とかかなと思ったんだがな」 「……はい」 「あのな、ニトロ。お前は私の弟子で、確かに象徴的に家族とは他人になった。だよな? それをきっちり飲み込んでる理解の早さをデニスにわけてやってほしいもんだがよ、そこまで物分りよくする必要もねぇんだぜ? お前には家族とすごした楽しい思い出もあるんだろ? だったらそれはそれだ。大事にしときゃいい」 「……いいん、ですか?」 「なにが悪い? だよな、デニス」 「です! 僕はこの街の出身だから、本市街に家族がいる。僕はカレン師の弟子だけど、いまでも家族と会うし、仲もいいよ!」 ニトロにそれがどう聞こえるか。内心でカレンは顔を顰めたけれど、彼は気に病んだ様子はない。むしろそんなことがあってもいいのか、と得心したような。 「象徴的にお前は別人になったって言っても、言ってんだろ。象徴なんだよ。お前はお前だ。朝と何が変わってるわけでもねぇよ」 肩をすくめてカレンは食事を続ける。言葉は荒かったけれど所作は綺麗な女だった。無頼ぶるのはあるいは照れ隠しなのかもしれない、不意にデニスはそんなことを思う。 「そっちの坊主。なんか失礼なこと考えたな?」 「考えてませんから!」 「即答するのは肯定も同然ってな?」 「師匠!?」 悲鳴じみたデニスの声、ニトロが笑った。思わずデニスは彼を見つめ、カレンは知らんふりして笑う。そこに通う温かなもの。ニトロがわずかにうつむいた。 「あっと、ええと、その。ニトロ、あのさ!」 訝しそうなニトロの眼差しにデニスはどぎまぎとうろたえる。十歳も年下の少年なのだからそれなりに悠然と構えていればいいだろうに、それができないデニスの素直さだ、とカレンは思う。 ――しまった。これじゃ親馬鹿だ。 内心で顔を顰めカレンは肩をすくめる。エリナードやフェリクスを笑えない事態になりつつあると気づいてしまった。 「これ、その! 入門祝い!」 突き出すよう食卓の上、皿が一枚。ニトロの驚いた眼差し。それからゆっくりとデニスを見上げた。 「えーと、甘いもの、嫌いだった?」 「嫌いじゃない。好きでもないけど」 「あー」 「でも、ありがとう。……驚いた」 「そう、なんだ?」 「だって、俺、急に入門儀礼受けさせてくれって言ったのに」 祝いの菓子などいつ用意してくれたのか。ぼそぼそと言うニトロにデニスははじめて莞爾と微笑む。ニトロはこんな年相応の顔もするのだ、と思った。 「さっき買いに行ったんだ。僕は甘いもんも好きだからさ。お気に入りの店があって。そこのお勧め!」 「デニス、私の分は?」 「ニトロのお祝いだって言ってるじゃないですか」 「祝いの菓子を一人で食えってか?」 まさかそんなことはしないだろう、カレンがにやりとほくそ笑む。人の悪い顔をして優しいことを言う師だとデニスも微笑む。 「まぁ、ありますけど」 とはいえ、ニトロの物より小さな菓子が二つ。茶を淹れ直し、みなで揃って菓子を食べる。特別な祝いの言葉などなかった。それがニトロは嬉しかった。仰々しいのは苦手。悟ってくれたか、と思う。 「いい子だよな、デニス坊や」 ふふん、とカレンが笑った。齧りかけの菓子の残りをぽん、と口の中に放り込む。男らしいけれど野卑ではないその姿、見慣れてしまったな、とデニスは小さく笑った。 「なにがです?」 「自分の小遣いで買ってきたんだろうが? 私の財布から出してもよかったんだぜ?」 日々の買い物はカレンから渡された生活費の中でやりくりしている。これも以前にはなかったこと。魔術師とて生き物である以上日常生活は当たり前に営むのだ、とカレンにたしなめられてはじめたことだった。 「え……」 驚いてデニスを見上げたニトロの目。驚愕が過ぎたかいまはいつになく真っ直ぐな目をしている。見つめられたデニスの方が戸惑うほどに。 「こういうのは僕の気持ちなので。師匠の財布から出すって、なんか違うなって。だからちょっとちっちゃい菓子だけどさ!」 最後はニトロへの言い訳か。まだ少しばかり残っている菓子は立派なのに、そんな必要はないのに。ニトロはどうしたらいいかわからず戸惑うばかり。 「お前にも小遣いはやるからな、ニトロ。なんかの折になんかしてやりたいと思ったらそうすりゃいいさ。わかるか?」 「……はい」 「ちゃんと計画的に使うんだぞ?」 にやにやとする自分を自覚してしまったカレンは顔を顰める。一瞬ニトロがどう思うか、と案じたけれどニトロは吹き出していた。デニスの方はと言えば呆れ顔。 「師匠、ちょっと変わりましたか?」 「あー、なんか親馬鹿全開だよな、私」 「僕もそう見えてるんです。遺憾なことに」 「偉そうなこと言うんじゃねぇぞ、長男坊?」 やり取りに、ニトロが小さく笑った。ネイトといたころはよく笑う少年だった。アランが言ったとおりだな、とカレンは思う。取り戻せないものはあったとしても、また新しいものは手に入る。それを知ってほしかった。知ってくれた気がした。 |