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あれから十日ほど。お世辞にも仲良くなったとは言わないが、ずいぶんと馴染んできたようカレンは思う。いまも台所でデニスと並んで朝食の準備中だった。 ニトロはあまり料理に興味がないのだろう、一生懸命にデニスが教えてはいるのだけれど、さほどうまくはなっていない。かと言って下手でもない。器用にそつなくこなし、その時間で魔法の修行がしたい、というところか。カレンはくつりと笑う。そう言えば、と思い出していた。 ニトロがデニスに詫び、デニスが慌てたあの日。デニスとしても色々と思うところはあったのだろう、いつになくニトロと「会話」をしていた。いままでは一方的に喋っていた彼だった。それと気づいたのは立派だ、とカレンはこっそり覗きながら笑ってしまったものだった。 「デニス、さん。これは……?」 あの朝カレンに朝食を、と言われてデニスはニトロをはじめて伴って台所に立つ。ニトロも覚えようとしていたのだろう、戸惑いながらも尋ねている。 「あのさ、それ。やめない?」 唐突なデニスにニトロの不審げな顔。陰で見ていたカレンは笑いをこらえるのが大変なほど。会話をしようと努力したとしても、そう簡単にできるものではない、とデニスは思い知ったことだろう。なにしろあの彼なのだから。 「えっと、その。それ! えーと、だから。名前」 「……はい?」 「僕のことはデニスでいいから」 デニスさん、と呼ばれるのに居心地が悪かったのだろう、彼は。カレンはさてどうしたものか、と考える。いまのニトロにどう聞こえるかと思えばこそ。が、ここからがデニスの成長の証だった。 「別に友達扱いしてとかじゃない。あのさ、もうわかってると思うけど、僕は成長がない。ニトロほどちゃんとした考えがないって言うか」 はいとは言えないだろうなぁ、とカレンは含み笑いを漏らす。いまにもそう言いたそうなニトロの顔を見てしまった。学院で出会ったニトロの目には何重もの鎧戸、いまは少し薄くなった。 「だからさ、そんな風にさん付けで呼ばれると居心地が悪いっていうか。だめな自分がもっとだめな感じするっていうか。だから、ニトロが嫌じゃなかったら」 しどろもどろのデニスにニトロは首をかしげただけだった。昨日の今日だ、親しみを見せるなどできるはずがない。ただ、ニトロも立派だな、とカレンは思う。彼は拒まなかったし、デニスと向き合おうともしている。たかが十三歳の子供にしては立派過ぎる。 ――そこが心配の種でもあらぁな。 まったくもって師匠とは難儀な稼業だ、と笑えてしまう。エリナードもまた自分たち弟子を前にこんなことを考えていたのかと思えば、よけいに。 結局ニトロはデニスの提案を受け入れたらしい。デニスのほうはニトロニトロと気軽に呼んでいるけれど、ニトロはまだあまり人の名を呼ばない。 ――まだまだだ。時間かかるっての。 親しんでほしいと思えば思うだけ、焦るな、と内心に言い聞かせる。友人を失ったばかりのニトロだ。デニスと親しみたくない気持ちは充分に理解するし、学院で話を聞いた限り、元々ニトロは内向的だ。誰とでも仲良く楽しくできる型の人間ではないだろう。ならばニトロは充分以上に頑張っている、カレンはそう思う。新しい生活に馴染もうと涼しい顔をして必死なニトロ。可愛い、と思ってしまった自分の頬に知らず熱。 「師匠、お待たせしました!」 思い返していただけでもまだ恥ずかしい気分だったカレンの耳にデニスの明るい声。デニスもまた必死だな、と思う。ニトロに日常を、カレンの下にある日常とはこういうものだと教えているその姿。 「おう。腹減ったぜ」 「……師匠。育ち盛りの男の子じゃないんですからね!」 「仕事すりゃ腹は減るんだよ、ガキじゃなくってもな」 「まだ朝じゃないですか!」 「夜通し仕事してねぇと誰が言ったよ?」 あ、と声がしてデニスは言葉を止める。いまでこそカレンは自宅にいることが多い。それはとりもなおさずニトロのためだ。だからこそカレンは忙しい。魔導師会本部でするはずの仕事を自宅でしているのだから、隙を見てあちらに転移したりしている。それをデニスは悟ったらしい。 「……デニス。冷めるよ」 淡々としたニトロの声。ばつが悪そうにデニスは笑う。それから三人揃って食卓についた。他愛ない話をするデニスとカレンをニトロは見ていた。話題に混ざれ、とも言われなかったから楽しく聞いている。 ――学院だと、話さないとだめだった。 黙っていても不機嫌ではなかったし、学友たちの話を面白く聞いていたこともあったのだが、仲間はそうは取ってくれなかったし教師もそれではいけない、と言った。ここでは、違う。 無視されているわけではない。カレンもデニスも時折ニトロに視線を向ける。楽しげだったり皮肉げだったり。それできちんと話題に混ざっている気分だった、ニトロは。 ――なるほど。本格的にまずいぞ、これは。 ニトロの内心の声がもちろんカレンには聞こえていた。学院で制御法を学んだとはいえ、いま修行をはじめている。カレン自身にも覚えがあることだった。新しいことに気を取られ、集中力のすべてをそちらに持って行かれてしまう。おかげで精神の障壁がぼろぼろだった当時のこと。いまのニトロは気づいていないのだろう。デニスは何食わぬ顔をして新しいパンを手に取っている。 ――なるほどな? デニスには、聞こえたらしい。その上で彼はきちんと聞かなかったふりをした。思わず手を伸ばして頭でも撫でてやりたい気分だ。ふとエリナードの笑い声が蘇って、師に大笑いされると思えばこそ自重できたようなもの。 「あの、カレン師」 食後の茶はニトロが淹れた。こちらはたかが十日でもずいぶん上達したものだ、とデニス共々感心している。 「ん?」 「今日は、お忙しいですか。よかったら、お時間を頂戴できませんか」 「ニトロ真面目だなぁ。師匠はそんな言い方しなくっても大丈夫だぞ?」 「お前が言うな、だよな? ま、事実だがな。いいぜ、どうした?」 茶化しあい戯言をかわしながらの二人をニトロは交互に見やる。そして意を決したよう背筋を伸ばした。そのときにはカレンは彼が何を言い出すか見当がついてた。 「――正式に、入門させてください」 真っ直ぐな藍色の深い目。カレンは無言で手を伸ばしその頭に手を置く。戸惑うよう揺れた眼差しにはじめて自分の行為に気づいては咳払いをした。 「あいよ、わかった。一服したら地下に行こうか。呪文室でやるぜ」 「……はい!」 デニスは何も言わずニトロを見ていた。年上ぶって微笑ましい顔でもしているのかと思いきや真摯な眼差し。確かにニトロの存在はデニスのためになっている。 「デニス、仕事を頼まれてくれ」 「なんなりと!」 「あ……カレン師。だったら、俺のことは……」 「違う違う。雑用頼むだけだっつーの。お前な、気にし過ぎだ。ガキのお前に言うのもどうかと思うがな、そんなに気ぃばっかり使ってるとそのうち禿げるぞ」 「……は?」 「神経すり減らすと野郎は頭に来るって言うからな。若禿げはちょっと、ヤだろ?」 にやにやとするカレンにデニスが頭を抱えていた、言いたいことはわかるが言い草がそれか、と思っているらしい。もっとも、デニスにとっては見慣れた師の姿でもあったのだが。 「それで師匠。僕は何をすれば?」 「たいしたことじゃねぇよ。私の部屋にレースの肩掛けが二枚ある。まぁ、見りゃわかるだろ。あれ、干しといてくれ」 「それで、いいんですか?」 「おうよ。頼むな」 ニトロが不思議そうな顔をしていた。カレンとレースはいかにも似合わない。そしてそれを口に出せない彼だった。代わりにデニスがにやりと笑う。 「大丈夫。絶対に師匠が使うんじゃないから!」 「おうおう、長男坊よ。そりゃどう言う意味だえ?」 「そのまんまです!」 まるで勝利宣言のような高らかさ。一緒になってカレンも笑っていたのだからデニスの勝ち誇ることと言ったらない。余韻もそのままに食器を下げようとすれば慌ててニトロも立ち上がる。 「洗うの、俺がするよ」 「じゃ、僕が拭くから」 「うん」 ぎこちないながらも最低限の関係性は築きつつある。それでいい、カレンは微笑んで彼らを見ていた。焦ることはない、二人に贈りたい言葉は自分に言い聞かせるものでもある。 さすがにニトロも緊張していた。実のところカレンもだ。入門儀礼はやはり独特の緊張感があった。このエリナードが作りあげた強固な呪文室でこの儀式を行うのも二度目。デニスはもっと誇らしげな顔をしていて、かえってカレンの緊張を解いてくれたほど。いまはカレンがニトロの緊張をほぐす。 「さ、はじめるかね」 気楽な声にニトロがうなずいた。 一方デニスはカレンに言いつけられた仕事などすぐに片付いてしまう。そしてすぐさま呪文室の前に取って返した。 ――言われてないけど。 それでも万が一、と思ってしまった。いまのカレンが自宅で仕事をしていると知っている人は大勢いる。呪文室の前に転移してくる人もいないでもない。 ――だから、僕が。 一生に一度だろう、入門儀礼。ニトロのそれを守ってやりたかった。誰にも邪魔されることなく、師と二人だけで過ごす一時。 ――でもちょっと、覚えてないんだよな。 自分の時はどうだったか。ただただ誇らしくて、カレンの弟子になるのは当然だとすら思っていた勘違いの激しい子供だった自分。思い出すだけで悶絶しそうだ。 呪文室の扉を守るデニスをよそに儀式は順調に進行している。師弟の誓いをかわし、いまごろニトロは擬似的な死を経験し、カレンによって新たな真の名を授けられていることだろう。 「あれは、なんか言葉にならないくらい、嬉しいものだったよな」 それだけははっきりと覚えているデニスだった。呼び名に込められた意味と願いと、何より真の名の祈り。カレンに教えられたのもあの時だった。 ――ニトロ。師匠がどんなつもりでその呼び名を与えたのか、僕にはわからない。それでもお前にとって二つの名前が明るい導きの光になりますように。 扉の前、デニスは首を垂れる。神にではなく、たぶんきっと魔道というものにデニスは祈りを捧げていた。 |