夢のあとさき

 どうにもならない笑い声。上げ続けるニトロの傍ら、カレンは座りなおした。それでもまだニトロは何も見ず笑っている。うつむいたまま、肩さえ震わせて。
 声をかけることなく、カレンはその肩先を抱き寄せた。何を言っていいか、わからない。正直に言えばエリナードの助けが欲しかった。彼ならばニトロの心に添うことができるのではないか。自分には荷が重すぎるのではないか。迷うけれどニトロはこの自分が弟子にしようと思っている少年。無言のまま腕に力をこめた。
 笑い声が止んだ。ぴたりと、唐突に。それなのにニトロはまだ震えていた。カレンはただしっかりと肩口を抱く。
「早く大人になれよ、お前」
「――そうすれは、忘れられるから、ですか」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。忘れられるわけねぇだろうが」
 忘れたいことでもないだろう、ニトロは。大事な友人を殺された。周りの大人は助けてくれなかった。よくぞ魔法への情熱を失わずにいてくれたものだと思う。教師たちに失望し、魔法への熱を失くしても当然だろうに。
「私は不器用だからな。酒でも飲ませてやるしかねぇだろうが、こんなとき。なのにお前ときたらまだガキだぜ? 飲ますわけにもいかないと来る」
 どうにもできない。何もしてやれることがない。カレンの呟きのような言葉にニトロは答えなかった。酒の香のするカレンに包まれ、ニトロのくつくつとした笑い声。
 言いぶりが、おかしかったのかもしれない。ニトロ自身にもわからないのかもしれない。笑い声が次第に激しくなり、衝動じみたものになる。
 そしてニトロは大きく笑いながら泣いていた。声だけは笑いながら泣いていた。何も言わず抱き続けるカレンの胸の中で、いつまでもいつまでも。
 忘れられることではない、それを改めてニトロは思う。あの日のネイトの変わり果てた顔。楽しかった笑い顔が薄れていくような衝撃。思い出が塗り変わってしまうような惨劇。
 だからこそ、自分は歩きたい。ネイトに生かされた命だからこそ、無駄にしたくはない。ネイトの代わりに生きるなどは言わない。自分のために、自分の生命を生きる。いつかそう言えたらいい、いまはできなくとも。
 カレンの腕に抱かれたまま泣きながら、ニトロは思う。自分がこんなにも大声で泣いているのが信じられない、遠くで冷めた目で見ている自分。いまだ彼女には隠し事をしているのに、こんなにも親身になってくれるカレン。様々な思いがぐるぐると巡り、なぜ泣いているのか、何を考えているのかもわからなくなるころ。
「……寝たか」
 ほっとカレンは息をつく。泣き疲れて眠るなど、この子供はしたことがあっただろうか。事件の詳細をカレンは当然にして知っている。「闇の手」への報復作戦の陣頭に立った一人だ、彼女は。
 けれど当事者の話を聞いたのははじめて。ニトロから語られる教師の姿にカレンは眉を顰めていた。真剣に学院に手を入れる時期に来ている。
「子供を泣かしちゃだめだろうが」
 長い溜息。学院出身ではないカレンだ、そこに幾許かの遠慮が生まれていた。それがこの事態を生んだのかと思えば忸怩たる思いがした。
 早急に対策を考えるとして、いまはニトロを抱き上げる。ぎょっとするほど軽かった。十代初めの少年とはこんなにも骨が細いものだったのか。
「ガキを抱くのは怖ぇな」
 幼い子供の面倒を見た経験のないカレンは顔を顰めてしまう。星花宮の魔術師たちはよくぞこんなにも小さくて脆いものをかまいつけて遊んでいたものだと思ってしまう。遊ばれてよく育った身ではあったのだが。
「開けてくれ」
 小声で言えば待ち構えていたよう扉が開く。デニスだった。ニトロは彼が眠るのを待ってから居間に来たのだろう。が、デニスとてそれなりに修行を積んだ身。ニトロの気配がない程度すぐに気づいたのだろう。
「師匠――」
 カレンの腕に抱かれたまま眠るニトロをデニスは見つめる。痛々しい目をしていた。普段の彼ならばカレンがこんな姿を見せるとき、女らしくない、それでは芝居の舞台だ、滔々と文句を言う。いまはとてもそんな気になれないのだろう。
「疲れて寝てるだけだ、心配すんな」
 顎をしゃくれば慌ててニトロの寝台の上掛けを剥ぐ。そこに横たえてやればデニスが優しい手つきで毛布を顎までかけてはくるんでやった。
「その、風邪を引くと、いけないんで」
「照れるようなことじゃねぇだろうが?」
「そんなことは……」
 言い返そうとして、けれど止めてしまうデニス。ニトロへの言葉をどれほど後悔しているのか。そのデニスの頭をカレンはぽん、と叩いた。
「時間ってやつだな。時間が解決するたぁ言いたくねぇけどよ、時薬って言葉もあるからな」
「解決、するんでしょうか」
「しねぇよ? 本人が折り合いつける気になるのに時間がかかるだろうってだけさ」
 どうにもならない痛みだけがニトロの中にある。誰にも手出しのできない痛みが。ニトロ以外の誰にも、どうにもできない。そしていまだ幼いニトロにもいまはまだ。
「お前、例の話は聞いてるって言ってたよな?」
「だいたいは」
「私も聞いちゃいたがな。――生温かったわ。想像を絶する話だったぜ」
「それは、どんな……いえ」
「うん?」
「僕が、聞いていい話じゃないな、と思って。いつかニトロが話してくれる気になるまで、僕は待つべきだなって」
 訥々と寝顔を見つつ言うデニス。知らずカレンの口許がほころぶ。苦しそうな寝顔だった。あのような話の後だ、気分の良い夢など期待はできないだろう。
「ちったぁ成長したな?」
 額にかかったニトロの前髪。鬱陶しそうなそれをよけてやりつつカレンは言う。ぱっとデニスが飛びあがりかけ、眠る少年を気遣うのか慌てて自制した。
「――私はな、ニトロが少しでも楽になってくれることを願ってる。そのために手を貸したいと思ってる。できりゃ弟子としてちゃんと導いてやりたいと思ってもいるぜ」
「あれ……まだ、だったんですか?」
「注意力が散漫にもほどがあるだろうが」
 入門儀礼をいつやったと思っている。呆れ顔のカレンにデニスが顔を赤らめた。即席でするようなものではないだけにデニスが知らないうちに、などあり得ないだろうに。
「ニトロは早晩、言ってくるだろうよ。ちゃんと弟子にしてくれって、自分でな」
 期待していた。その期待が裏切られることはないと不思議と確信していた。あのニトロの泣き叫ぶ声に、カレンはそれを聞いた気がする。
「それはそれとしてな、デニス」
 不意に向けられた師の目にデニスは背筋を伸ばす。少し変わったな、と思うのはこんなときだった。以前は人の話を聞き流しているようなところのある少年だった。
「私はニトロを迎えることで、お前が成長できると思ってる」
「え……」
「弟弟子ができて、お前の魔道が進むだろうと思ってんだよ、私は」
「僕の、魔道――」
 魔力の足らない、拙い未熟者。あのエリナード・カレンの弟子があれだ、陰口を叩かれるたびにデニスは口惜しい思いをしていたものが。エリナードの下で彼の話を聞き、そしてカレンの友人たちに迷惑をかけ、デニスは己の力量というものを見つめ直した。
 だからこそ、自分の魔道、などと偉そうなことが言えるのか、思ってしまう。そして慌てて首を振る。カレンの拓いた大地を広げて行くこと。後進のため、道の整備をすること。それがしたい、己に誓ったばかりだというのに。
「僕は、最先端を走る魔術師には、なれません」
「だから?」
「だから……それでも、師が作りあげた魔法を、使いやすくする研究だったり、いままでの基礎の再研究だったり、そんなことはできる。したい、そう思います。それが僕の魔道だって、自信を持って言えるように、なりたいなって……」
「その意気だ。頑張れよ、長男坊」
 再び頭の上に乗せられた手。女性の手にしては大きな手、けれど一流魔術師に相応しい優美な手。デニスは照れくさそうに頭を撫でられていた。直後、愕然とする。そのときにはすでにカレンは部屋を出て行った後だったけれど。
「長男坊って……」
 ニトロに眼差しを移す。ニトロが次男、ということだろう。カレンが自分の弟子と、息子と呼んでくれた。どうしてだろう、泣きたくなるくらいに嬉しかった。
「この気持ち、お前にも知ってほしいな。いまは、まだそんな気に、なれなくっても」
 事件の概要程度はデニスも知っていた。しかしカレンのあの言葉。ニトロはデニスに語ることはないだろう。いまだけではない、きっといつになっても。
「それでいいと、僕は思うよ」
 自分は兄弟子かもしれないけれど、カレンは師なのだから。デニスはここまでで学んだことがいくつかはある、と思っている。
「きっといつか、わかるから。師匠にどんだけ愛されてるかって、お前もいつかは、わかるから」
 こんなだめな自分でさえもカレンは見離さず一人前になれるよう目をかけてくれている。ニトロの傷もきっとカレンが癒してくれる。
「おやすみ、ニトロ」
 つらそうに顰められた眉根。肩先に触れて毛布を直す。不思議とそれで少しニトロの顔が楽になった気がした。隣の寝台にもぐりこみ、デニスはニトロを見つめていた。もしも悪夢を見てうなされたりしたらすぐに手を貸してやろう、そう思いつつ。今日までのニトロとのことを考えたり、今後なにをしてやればいいのか思い巡らしたり。
 翌朝、非常に恥ずかしい思いをした、デニスは。偉そうに見守っていたつもりが気づけば熟睡した挙句にニトロに起こされる体たらく。
「……起きた?」
 まだ赤い目をしたニトロだった。睡眠不足のそれ、そんな顔をしているけれどデニスは原因を知っているだけにばつが悪い。
「あ、うん。ごめん、起きた。おはよう!」
「……あのさ」
「うん?」
 寝起きのままに寝台の上、ニトロは膝を抱えてごそごそとしていた。デニスも起き上がり、わたわたとしている。カレンが見たら笑うだろう、思ってもどうしていいかわからない。
「……昨日、ごめん。デニス、さんだけが悪いわけじゃなかったと、思う」
「はい!? 悪かったのは――」
「だから俺が」
 互いに自分が悪い、を譲らない二人だった。いい加減に空気が悪くなってきたころ、呆れ顔のカレンが姿を見せる。
「まだやってたのか、お前ら。こういうときはこうだな」
 両手の拳、二人の頭上に。音ほど痛くないそれにデニスが照れ笑い、ニトロが驚いた目。
「腹減った。デニス、飯!」
 言い捨てて部屋を出て行くカレンに目をぱちくりとさせているニトロ。デニスは手を差し伸べる。手を取られることはなかった。それでも肩をすくめてついてきたニトロがいる。それでよかった。




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