夢のあとさき

 ――あれは耐えてるってわけでもねぇのな?
 相変わらずニトロは淡々と過ごしている。カレンが見る限り時折は鬱陶しそうな顔をしているものの、幸か不幸かデニスの方は気づきもしていない。
 ――だったらデニスをけしかけるか。
 ふむ、とカレンはうなずく。ニトロはデニスのお節介に気分を害してはいる。それなのに口にしない。デニスとカレンの師弟を見ていて、好き勝手を言ってもよい、とはすでに彼は理解している。それでも何も言わない。おそらく、とカレンは想像していた。ニトロは表現する術を見失ってしまっているのだ、と。
 アランに聞く限りニトロはそれほど引っ込み思案、というわけではなかったらしい。友人こそ少なかったけれど、内気で含羞み屋、そう表現される子供ではなかった。それなのにいまニトロはデニスの不愉快を言い返すことすらできないでいる。
 ――友達を失くしたのが、響いてるな。
 あるいはそれはニトロの生涯に付きまとう傷かもしれない。一生消えることのない思いかもしれない。それならばそれでいいとカレンは思っている。その上で、少しでも生きやすい道を身につけてほしい。
 そんなことを思いつつカレンは自宅地下へ。工房ではデニスがニトロにあれこれと教えてやっているらしい。カレンは居間にいながらにしてそれを知覚していた。
「よう、やってるな」
 吹き出さない用心をしておいてよかった、とカレンは内心で安堵している。ニトロの表情と言ったらなかった。こんなことをくどくど言われて何か意味があるのかと言わんばかりの顔をしていたのだから。しかもそれにまったくデニスが気づいていないと来ている。
 ――ほんとにこの相性の悪さって言ったらねぇな。
 険悪な関係、とは言わない。が、デニスは現実を見ているようで見ていないという悪い癖があったし、ニトロは表現することを知らない。これでうまくいくと思う方がどうかしている。ニトロとデニスが交友関係を構築することで二人のためになる、否、なればいい、とカレンは願ってはいるのだが。
「あ、師匠」
 どうやらデニスは四大属性の循環について教えてやっていたらしい。間違ってはいない。だがニトロだった。カレンは思わずにやりとしてしまう。
「基礎をさらうのは悪いことじゃねぇな」
 言えばニトロがはっとした顔。そのとおり、と認めたのだろう。いついかなる時でも大事なのは基礎、と。苛立つあまり無駄と断じていた己に気づいたように。
 ――まったく、ほんと。デニスの鈍さとニトロの敏さを足して二で割りてぇな。
 もっともそんなことをすれば二人の良いところまでだめになるのだろうが。一端の師匠らしいことを考える自分をカレンは笑う。
「せっかく覗きに来たしな。ついてこれるとこまででいい。やってみな」
 すう、とデニスが息を吸う。カレンが何をする、と言ったのかわかったのだろう。そしてニトロも。それを見定めてカレンは魔法を発動させる。
 単純な訓練だった。デニスが先ほどまで教えていたよう、四大属性の循環だ。火を灯す、水滴を作る、そんな些細なことからはじめて次第に複雑なものへと。最後は業火乱舞し嵐吹き荒れる騒ぎになる。デニスはとてもまだそこまでは行かれない。
 カレンは二人を横目で眺めつつ魔法を操る。デニスといたときとは打って変わった屈託のないニトロの眼差し。藍色の目には何重もの鎧戸が下りている様子だったのに今はきらきらと輝く。
 一心に魔法を操っていた。三者三様に工房の床に立ち、それぞれが自らの身を守る結界を発動させている。そして属性を循環させる。本来は魔法における体力を養うための訓練だった。人間には属性という概念があり、一つの属性に優れていればいるだけ、他の属性が発動させにくい。逆に属性に特化できなければどんな魔法でも発動は可能だ。が、高度な魔法がその手に宿ることはない。魔法という技術が難度の高い技能であることの証左だった。
 だからこそ、訓練を欠かさない、一流の魔術師であればあるだけ、基礎訓練は重ねる。カレンもまた暇を見つけては訓練をする。いまでも、いまなお。
 デニスはカレンの魔法に魅せられたよう彼女に追随していた。必死になって追いすがる。未熟なデニスにはただの訓練であっても「カレンが行う訓練」では無理がある。遅れずついて行くのがぎりぎりだった。それも次第に遅れがちになる。肩で息をしていた。
 ――このままじゃ。
 自分はもうすぐついて行かれなくなる。身を守る結界すら罅が入りかけている。慌てて結界を厚くし、ニトロを窺う。すでに弟子となって数年の自分ですらこの有様、いまだ少年の身にはどれほどつらいか。結界が危険域に入ってしまっているかもしれない。少年の身を守らねば、それに気づいた自分が少し誇らしくなる。そして唖然とした。
「あ……」
 声を上げた瞬間に魔法がほころぶ。あっと思ったときには遅かった。循環が途切れ、魔法はほどけて行く。デニスの手の中、ちぎれ飛んだ魔力が漂っていた。
 それなのにニトロはいまだ魔法を操っていた。易々と、とは言わない。食い下がっている、と言った方が正しいだろう。額に浮かんだ玉のような汗。それでもニトロはやめない。炎から風へと移れば一段と強く吹き荒ぶ。それでもニトロは魔法を離さない。轟々と鳴る風の中、結界さえも維持したままニトロは立つ。呆然とデニスはそれを見ていた。師とニトロと。彼らの魔法に一瞬結界が揺らぐ。それほどの魔法の中、いまだ少年のニトロは。
「もう一段いくぜ。危ねぇと思ったらやめろよ」
 一応はとカレンが言いおく。が、ニトロはこくんとうなずいただけ。デニスにはどう見えただろう、カレンは小さく微笑む。ニトロはただ必死なだけだった。うなずく、ただそれだけの動作ですら負担になるほど必死なだけ。
 ――熱心だな。
 まるで魔法だけが自分に残された最後のもの。そんなニトロの魔法だった。少し痛々しい。いまのニトロにとってそれは事実だとしても、まだまだたかが十三歳の子供。零れ落ちたものは拾えなくとも別の物が手に入るのだとは知らない子供。
 ――いまは熱中させとくか。
 新しい何かがあるのだ、と理解するまではこれでいいのかもしれない。夢中になって魔法にだけ邁進していれば嫌なことも忘れられるのだろう。いまのニトロに魔法は救いでもあるのだろう。
 更にもう一段階。今度こそニトロが顔を歪める。操り切れない魔法に身が引き裂かれそうな。その気持ちはカレンにもわかる。彼の年頃の自分はどうだったかな、そんな回想に耽ることができるほどカレンにはまだまだ余裕があったが。
 ぱん、と軽い音がした。現象に比べれば軽すぎる音。目を開けているだけでも熱に痛みを覚えるような炎が一呼吸の間に消えていた。息も整えられずニトロが膝をつく。カレンはゆっくりと魔法を収束させてその傍らに立った。
「顔を上げろ。座るな、立て」
「そんな、師匠! 待ってください、ニトロは!」
「黙ってな。ニトロ、立てるな」
 立てる、とは言わなかった。否、言えなかった。それでもニトロは震える膝を叱咤して立つ。そのままカレンを無言で見上げた。その目が丸くなる。
「よし。いいとこまで行ったな。惜しかったぜ、もうちょっとであと一段階あげられてた」
 あ、と口が開けられる。それでもまだ声は出ない。息を整えようと努力はしている。そして気づいた、息ができると。
 ――そういうこと……か……。
「お、わかったか? そのとおり。縮こまって座り込んでるとつらいだけだぜ? さっさと立ちあがって息を整えた方が結果的に楽だからな」
 にやにやとするカレンにニトロは愕然とする。心に入り込まれた感触はない。つまりは自分の制御が緩んだだけ。
「ほんと飲み込みがいいと言うか勉強熱心と言うか。なぁ、デニス坊やよ?」
「え……師匠? いま、ニトロ……え……?」
「これだからな?」
 肩をすくめたまま笑っているカレンにニトロの目がほんのかすかに和んだ。すぐさま消えてしまったそれ。けれど見た、とカレンは確信する。ならば先は暗くはない。問題はデニスだった。もっともけしかけているのは自分だ。万が一だけをカレンは想定し、内心で身構える。
「それより! すごいな、ニトロ! お前、こんなすごいんだな。なんで言ってくれないんだ? こんなことまでできるなんて、ほんとにすごい……! まだ十代でこんなことができるなんて! 信じられないくらいすごい!」
 きらっきらと目を輝かせたデニスだった。ニトロのまだ呼吸も整っていない体を掴んでは興奮している。さぞかし迷惑なことだろうに、思ってもカレンは言わない。
「僕なんかよりずっと上まで行ってる。なんで、だって……!」
 そんなことは聞いていなかった、言いかけてさすがにデニスは黙った。誰に聞いたか、と言われれば学院の連中に、と答えるしかないデニス。が、問いを止めたことで答えも知れる。ばつが悪そうに視線をそらした。その手が払われる。ぽかん、としたデニスの声がした。
「なにができたって……いいじゃん。俺が何したって言うんだよ。俺はできることをできるようにやってるのに、すごいとか早すぎるとか。子供なのにとか子供なんだからとか! わけわかんないよ!」
 四大属性の循環に体力を奪われたニトロ。はじめて心のままに言葉が迸る。それを狙って少々無理をさせたカレンは内心でにんまりとしていた。
「俺ができちゃいけないの!? 子供だからやっちゃいけないの!? できればすごいとか。こんなことができるなんておかしいとか! 持ち上げたり貶したり、俺は俺だよ! 俺にどうなって欲しいんだよ! 俺が何をして何をしなかったら満足なんだ!? 俺はただ、普通に好きなことをしてたいだけなのに!」
 止まらない言葉がデニスに向けられたものだけではなかったと、さすがにデニス自身も気づいたらしい。それでも最後までデニスは聞いた。
 ――偉いぞ、お兄ちゃん。
 途中で言い合いになるかな、と心配していたカレンだったがデニスは神妙な顔をしてニトロの話を聞く。もっとも、それにいっそう激してニトロは言葉をぶつけ。
「もういい!」
 自分でもわけがわからなくなっているのだろう。デニスを突き飛ばして工房から走って出て行った。きゅっと唇を噛んだまま見送るデニスの後ろ姿。カレンはその頭にぽん、と手を置く。
「……師匠。僕は」
「間が悪かったってやつだな。お前は間違っちゃいないんだけどよ、正解でもなかった。ただ……最後まで相手して聞いてやったのは偉かったぞ?」
「……聞くしか、できなかっただけです」
「前のお前なら喧嘩になってたんじゃねぇのかな。とりあえずニトロの言うことを聞こうとはした。そこんとこは褒めてやるよ」
 力なくデニスは首を振る。デニスは褒めたつもりだった。間違いなく自分より上を行くニトロに賛嘆していただけだった。彼の方がそう解釈できなかっただけ。ふと何かに気づいたのだろうデニスが顔を上げ、生真面目にカレンを見つめた。




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