夢のあとさき

 耐えているな、と思う。デニスは悪い男ではない。むしろ善人だ。問題はまったく空気が読めないところだな、とカレンは朝食の席で思う。
「デニス」
 ニトロがこの家に来てからすでに十日が経った。デニスと同じ部屋で寝起きするニトロは口数が多くない。それを必死になってデニスが面倒みようとしていた。
「はい、師匠。――ですが、その前に。食事の時に本を読むのはやめてください!」
 デニスが作った食事を前にカレンは片手で本を読んでいた。まめで器用なデニスの料理は美味だ。カレンもやってできなくはないが、精々がところ「下手ではない」だ。デニスのよう色々と凝ることをしない。
「うん? あぁ、悪い。ちょっと忙しくってよ」
「行儀悪いですよ」
「わかったわかった」
 むっとしながら師に向かって文句を言うデニスをニトロが見ていた。食欲がないわけではない。きちんと朝昼晩と残さず食べている。カレンが見ていたのはそういう部分。弟子になりたて――実際はまだ師弟の誓約は交わしていないが――の少年では体調を整えることを疎かにしがちだ。たとえ本人はきちんとしているつもりであったとしても、修行に気を取られて体重が落ちる、それが新しく弟子になったものに訪れがち。ニトロはそのあたりをうまく管理していた。
「本当に、もう。そんなことばかりなさっているから色々言われるんです」
 まだ文句を言っているデニス。ちらりとニトロが見上げた。その視線に気づいたのは見られたデニスではなくカレン。内心でにやりとする。
 ニトロは驚いていた。実のところ十日というもの驚き通しではあるのだけれど、いまもまた驚いていた。
 こんな風に言い合いをするのだ、と思って。師であり弟子である、その二人が言葉を交わす、と言うよりは文句を垂れ合う。いい加減なカレンの言葉にデニスが怒る、弟子のデニスが。
 ――学院では。
 教師に逆らうようなことはなかった気がする。ニトロは思う。言われることを言われるままにするのが「いい子」だったような気が。
 本当は違う、ニトロは気づかなかっただけだ。そのような教師ばかりではない。ただ、ニトロの周囲に多かっただけ。それがあるいは不幸。
「で、なんだよ?」
 まだ文句を言いそうなデニスを鬱陶しそうにカレンが阻む。長い溜息までついているのだからお説教は聞き飽きた、そんな風情。ニトロには驚愕が過ぎてただぽかんと見ていた。
「なにもかにもありません! 師匠が何かを言いかけたんです」
「あぁ、そういやそうだったな。お前の話が長ぇんだよ」
 僕のせいか。ぼそりと言うデニスが困ったお人だろ、とニトロに笑いかける。それにニトロが竦んだのにデニスは気づいていないのだろうな、とカレンは苦笑していた。
「あのな、デニスよ。お前が弟分ができたって可愛がりたい気持ちもわかる。緊張をほぐしてやろうと努力してるのもまぁ、私は、わかってる」
 含みのあるカレンの台詞にデニスがぴりりとした。もうこれ以上どう驚いていいのかわからない、そう思っていたニトロが驚くほどに、
「でもな、善意のデニス君よ。ニトロは緊張なんかしてねぇよ。馴染めねぇって悩んでもいねぇの。そこんとこ、おわかり?」
「でも、まだたった十日ですし。それに、ニトロは十代もはじめでしょう? こんなに幼いうちに……ごめん、幼いは気分よくないよな。えっと、若いうちに? 弟子になるなんて、色々考えたりあって当然だと思うんです、師匠」
 一応はニトロに気遣いを見せたか、思えばカレンは嬉しい。とんでもないことをやらかしてばかりいる弟子ではあるけれどカレンにとっては大事な弟子だ。やはり可愛い。成長したとなれば何にも増して嬉しく思うほどに。
「早いか?」
 デニスが早くに弟子になった、と思うほど早いとはカレンは思っていなかった。首をかしげれば、だから師匠は、と呟く声。
「私が弟子になったのは十五歳だな。ちなみにうちの師匠は十一歳だ」
 別に早くないだろう、言い放つカレンにデニスは溜息をつく。この人にこの世の常識というものを教えたい、そんな偉そうな溜息だった。
「いまの世の中では早いんです!」
「今も昔もあるもんかよ。ニトロがどこまで何ができてるかの方が大事だってーの。年齢なんか関係あるか。だいたいな、お前、この十日でわからなかったか?」
「なにがですか」
「お前の方がガキだぜ? 年齢はニトロのが十以上は下か? でも中身はニトロの方が大人だよな」
 そんなことは。言いかけたデニスが黙る。反論をしかけたものの考えた、それが彼の成長だ、とカレンは思う。
「ですが、師匠。ニトロは少し、閉じこもり過ぎだと思うんです。もっと陽に当たって運動してもいいと思いますし、友達も大勢作るべきです!」
 だから外に連れ出しているのだ、デニスは胸を張る。ただ兄貴分ぶりたいわけではないぞ、とばかりに。偉そうな顔がしたかったわけではない、そんなデニスの心情には気づいていなかったカレンだ。ほんのりと微笑ましい。だが。
「友達?」
 その一言だけは見逃せない。デニスもいい加減にニトロがどういった経緯でここにいるのか知らないわけではないだろう。カレンの弟子とはいえ、デニスはこの家にこもって修行をしているわけではない。学院に出向いて施設を借りることもままある。知らないはずはなかった。
「大勢の人と仲良くするのは、大事なことだと思います」
 譲らない、デニスの目にあるものにカレンは眼差しを据える。知っていて言っているのかと。わかっている、無言でデニスがうなずく。物も言わずにカレンは小さく丸めたパンをデニスの額に打ち出した。
「うわ! 痛い――!」
 ただのパンの弾ではない。カレンが固め、魔法で打ち出したものだ。それは痛かろうと思う。額に真っ赤な跡のついたデニスの隣、うつむいてニトロが座っていた。
「あのなぁ、デニス坊や。別に友達なんか少なくっていいんだっつーの。すぐに作る必要なんかもっとねぇわ」
「え……でも!」
「私を見ろよ? 師匠があいつの交友関係は全部把握してるって豪語できる程度にしかダチなんざいねぇぞ」
 ふん、と鼻を鳴らした。事実ではあるのだが、そう言われれば面白くはない。思い出してしまったカレンは唇を尖らせた自分に気づいては肩をすくめる。
「それは、師匠が……立派な方だからで。僕らのような、もっと平凡な……」
「それ、関係ねぇだろ? 私はお前らの年のころからダチはいねぇぞ」
 言っていて少し空しくなってきたカレンだった。彼女の世代の魔術師は男性が圧倒的多数を占めていて、そこに思うところがないわけではなかった少女時代。負けるかとばかり励んできた結果がこれなのではあるけれど、それを悔いてはいない。元々性に合っていた、と思うばかり。ただ弟子に向かって言い放てば馬鹿らしくはなる。
「いまはダチができたかな」
「……いま、なんですか?」
 不意にニトロが声を上げた。おう、とカレンは微笑む。本当に最近のことだ、と話してやった。
「幸運の黒猫って傭兵隊がいるのは聞いてるか?」
 この狼の巣を本拠として、イーサウの軍事顧問兼教練役として雇用されている傭兵隊だった。ニトロも話は聞いていたのだろう、こくりとうなずく。
「そこの小隊長の男と気が合ってな。そいつと剣でやり合う仲だな。あと、やっぱりそこの魔術師。美人で可愛くって頭もいい。いまは仕事に行ってるけどよ、帰ってきたら紹介してやろう」
 う、とデニスが息を飲む。あまりいい思い出がないらしい。小隊長には迷惑をかけ、魔術師には説教をされ、ではいい思い出などあろうはずもないが。
「――私はな、どっちかって言ったら引きこもって研究にだけ時間を割いてたい質だ。デニスは外に出て大勢と交流を持ちたい」
 そうだろう、目で問えばデニスがうなずく。二人の間を目で行き来し、ニトロは唇を噛む。わからない、それを言いたくない癇性な気性が見えた気がした。
「なぁ、ニトロ。これ、どっちが間違ってると思う?」
 意地の悪い質問だった。ニトロに問いつつデニスにも視線を向ける。デニスとしては正しいのは自分、言いたいだろう。が、さすがにカレンの弟子となって日が浅くはない。カレンが何を言わんとしているか見当がついたのだろう、黙って考えていた。
「そんなに悩むようなことじゃない。これはな、どっちも正しいんだ。別に私もデニスも間違っちゃいねぇよ」
「……学院で」
「あぁ、あの教師か。私も会ったよ。あれはな……ちょっと、なんつーかな、言いたかねぇけど、間違ってるだろ」
 え。とニトロの目が丸くなる。それを言っていいのかと。カレンは少し悔やんでいた。気にしていたのならばもっと早くに言ってやるべきだったか。
「子供たちは太陽の子です、たくさん遊んで大勢のお友達を作りましょう? 馬鹿ほざいてんじゃねぇよ。机にかじりついてたいガキがいたっていいんだって。本が恋人だっていいんだって。お前はどっちかって言えばその口だよな? 私もだ」
 言えばデニスが不満そう。新しい弟子ばかり可愛がる、そんな気分なのかもしれない。複数の弟子を持つと師はこのような苦労をする、とは仲間に聞いていたが悪い気分ではなかった。あとでデニスとはゆっくり話をしようとカレンは思う。
「ただ、一つだけ、な? 一人で研究だけをしてたくったって、世の中そううまくはいかねぇよ。お前だって独り立ちしたら自分で稼いで食ってくんだぜ?」
 ニトロに言ったのにデニスが含羞んだ。思うところがあったのだろう。それで様々な迷惑をかけてきた弟子だった。
「そのときにまったく人付き合いができません、じゃな、どんだけ優秀な魔術師だって職人だっておまんまの食い上げだぜ。だからお前が覚えるべきなのは、友達の作り方じゃなくて人付き合いの技術だな」
「師匠、夢も希望もないことを言わないでください!」
「現実を見な、デニス坊や。――人付き合いってのは技術だぜ、ニトロ。それだったらお前にも覚えられる。まず一つ目だ、いいか? むかついたら言い返せ。実はデニスが鬱陶しいだろうが」
 まさか、と言わんばかりにデニスがニトロを見る。さすがに少年には荷が重かったらしい、視線をそらしたけれど、そらされた視線にデニスは事実を見てとるだろう。カレンはからからと笑っていた。




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