夢のあとさき

 狼の巣まであと少し。子供は隣を歩くカレンを見ていた。そっと窺い見ていることに彼女は気づいていないのだろう。どことなく楽しそうな顔をしてあちらこちらと見やっている。
 背の高い女だと思った。学院の男性教師たちと比べても彼女ほどの長身はあまりいない。それなのに優雅だった。女らしい、という意味ではない挙措の優雅さ。子供は魔術師らしい、と思う。もう少し彼女を知れば「カレンらしい」と言うところだろう。
「お、なんか新しい店ができてんな。菓子か?」
 カレンの眼差しの先、露店の店が出ていた。いつもは出ていない、ということなのだろう。子供はつられるようにそちらを見る。と、思ったときにはすでにカレンは露店に向かっていた。
「これはなんだい? ふうん、悪くなさそうだな。三つくんな」
「へい、ありがとさんで。普段はもちっと端の方に店出してんですよ。今日は偶々こっちに。よかったらまた買いに来てやってくんなまし」
「おう、気に入ったら寄らせてもらうよ」
 子供はぽかんとする。話には聞いていたし、ここまでの道々、決して言葉の優しい人ではないと思ってはいた。が、カレンはどうやら誰にであってもこの調子らしい。
「ほれ、おやつだ」
 突き出すよう差し出された菓子だった。揚げ菓子にたっぷりと粉砂糖がかかっている。真っ白になるほどのそれに目を丸くした。
「ん? 甘いもん嫌いだったか?」
「いえ……」
「こんな風に買い食いすんのもな、行儀は悪いけど楽しいもんだぜ?」
 にやりとしてカレンは菓子にかぶりつく、口の周りを真っ白にしながら。なぜかそんな姿が妙に似合っていて、子供は少し楽しい。
「あ――」
 そして楽しい、ということを思い出した。まだ友達が一緒だったころ。彼と遊びに出かけては買い食いをしたことがあった。何度もあった。走り回ってお腹を空かせて。二人っきりで公園の片隅で少ない小遣いからおやつを買って、半分こにして食べた。
「……あの時の」
 菓子とは違う。露店のものでも、二人で食べたのはもっと安いお菓子だ。それでもこれと同じくらい、否、もっとずっとおいしかった。
 包んでもらったひとつを手にしたままカレンはうまそうに菓子を食む。視界の端、むしろ気配で子供を見ていた。亡き友人のことを思うのだろう。顔色が冴えない。
 それでも、と彼女は思う。きっと子供は忘れられなどしない。大事な友達。誰が何をどう言おうとも、子供にとっては大切な友人。それをあのような形で奪われてしまった子供。
 ならばその思いこそを大切にすればいい、カレンは思う。彼女自身には人生が変わるほど大事な人を失くした経験、というものがない。だがカレンはエリナードの後継者。師の経験のすべてをその目で見たも同然の彼の跡継ぎ。だからこそ、己の経験ではなくとも、わかることがある。
 ――師匠に感謝、かな。
 エリナードが失くした恋人のこと。壊れるほどに悔やんだ彼の過去をカレンは「見て」いる。いまの子供にできることはだからきっと、そのままにしておくこと。励ましても前に進めと言ってもどうにもならない。本人が進もうと思えるようになるまで、守ってやりたい。
 ――なんだかくすぐったいやな。
 ふん、と内心で笑う。すでに弟子のいる身ではあるけれど、妙にこの子供が気にかかる。可愛い、とは違う。大切にしたいとも違う。言葉では言い表しようのないもの。
 ――なんだこれ。気色悪ぃな。
 心の奥で呟きながらも悪い気分ではない。むしろ温かいものがあり過ぎて浮ついた己を引き締めたい、とでも言うような。一つ息を吐き、カレンは己を立て直す。
「そう言やな」
 ふと思い出した、そんな声が出せただろうか。最初の弟子のデニスの時にはこれほど緊張していなかったようにカレンは思う。とにかく手のかかる弟子で、愚かで救いようのない弟子なのだが、相性だけは抜群にいい。そのせいかもしれない。困ったの頭が痛いの言いながら、カレンはデニスが可愛い。
「はい」
 ふ、と見上げてくる真っ直ぐで、そのくせ表情の窺いにくい目。濃い青よりなお深い藍色の目。どことなく師に似た色だな、思ってカレンはそっと微笑む。
「お前の呼び名な。どうしようか」
「え?」
「なんか名乗りたい名前とか、あるか?」
「……驚き、ました」
 大きく丸くなればこの子供の性根がその目に表れる。これほど鬱屈とした性格ではないのだろう、元々は。ただカレンは思う。元になど戻らなくともいいと。ただ子供がその道を見出してくれればと。
「ん、なにがだ?」
 ぱんぱん、と食べ終わった手を払う。砂糖だらけだった。最近は贅沢なものだとカレンは思う。少女時代の懐かしい菓子ではあったのだが、当時は蜜がけだった。砂糖の方がずっと高価なのだが近年は流通経路が確立したおかげで露店の菓子まで砂糖を使えるようになった。
「そんなことを、尋ねていただけるとは、思っていなくって」
「師匠が勝手につけると思ってたか?」
「そういうものだと、思ってました」
「まぁ、間違いでもねぇかな? そういう師匠もいるぜ? 私はただ聞きたいから聞いてる。どっち道呼び名だしな。本人の好き好きでいいだろうとも思ってるしよ」
 そういうものだろうか、首をかしげる子供に内心でカレンはにやりとする。カレンは嘘は言っていない、が、真実でもない。呼び名であっても魔術師の名だ、大事なものではある。カレンもこの名を与えられた時やはり意味を教えられたし、デニスを名付けるときも同じようにした。
「そんで、なんかあるか?」
 あえてそう尋ねる意味はまだ子供にはわからないだろう。彼は一度唇を引き結び、カレンを見上げる。それから首を振った。
「ありません。カレン師が、つけてくださいますか」
「あいよ。んじゃ、そうさせてもらうわ」
 ぽん、と子供の頭に手を置いた。驚いたのだろう子供がわずかに体を竦ませる。ただ驚いただけであってほしい、カレンは思う。だから種明かしをする気になった。
「わざわざ聞いたのはな、お前がもしかしたら名乗りたいって言うかと思ってな」
「……あ」
「うん、そういうことだな。もしお前が殺された友達の名前をって言ったら止めるつもりだった」
 子供の足が止まった。何気なくカレンは振り返り、手を差し伸べる。繋がれた手に気づいてもいないのだろう子供だった。手を引かれたままに歩きだし、それでもまだ呆然としていた。
「どうした?」
「……カレン師は。……カレン師は、ネイトを、殺されたって、言ってくださるんですね」
「だって殺されただろ?」
 子供は無言で首を振る。次第に激しくなっていくそれにカレンはただ強く手を握る。はじめて気づいたのだろう子供が息を飲み、けれど嫌がりはしなかった。
「みんな……ネイトは死んだって、言います」
 子供にとってその違いは大きかった。死んだのではない、彼は殺された。どれほど声を大にして言っても誰もが死んだ、そう言った。
「違うな。お前の友達は殺されたんだ。卑怯なやり口で学院を襲った連中に殺されたんだ」
「ネイトが、実行犯だったのも事実です」
「言葉は悪いけどな。ネイトは道具だ。罪を償うべき野郎は別にいるんだよ。ネイトが悪くなかったとは言わねぇよ、私も。でも、自分が殺されるのがわかってて友達を守ったネイトはいいやつだと思う」
 立派だとは言わなかった。偉いとも言わなかった。カレンの言葉に子供はうつむく。いいやつ、そう言ってもらえたことがこんなにも嬉しかった。自分の友達を褒められるのが、自分自身を評価されるよりずっと。
「あいつに救ってもらった命だから、あいつに恥じないように生きたい、そう、思っています」
 繋いだままのカレンの手まで痛みを覚えるほど子供は強く拳を握る。学院で、事件が起きて以来何度となくそう呟いたのだろう。一人で、あるいは他者に向かって。ちらりとカレンは子供を見やる。彼は意を決したよう彼女を見上げた。
「それでも、俺は。自分の道を歩きたい。あいつのためにじゃなくて、あいつに助けてもらった命を、自分の魔道のために使いたい。――まだ、ほんとは迷ってます。こんな偉そうなこと言って、そっちの方がずっと恥ずかしい。でも」
「なぁ」
「……はい」
「人間、年齢じゃないけどな? お前には稀有な経験があって、そのせいなのかどうか。性格もあるのかな。――お前はたいしたもんだよ。それが言えるなら、いつかはその道にたどり着く」
「いつか……」
「たかが十三歳の小僧だぞ? いつかに決まってんだろうが。回り道後戻り、時々袋小路。それでも進んでりゃいずれはどこかにたどり着く。歩く覚悟があるなら、お前は大丈夫だ。――いまはそれだけ覚えてりゃいいんだ。わかったか?」
 言葉にならない返答が返ってきた。うつむいたまま、子供はうなずくでもなく手を握ってくる。頼りない首筋をしていた。細い、いたいけな肩。長めの髪が首にかかっているその様子。染め続けているせいだろう、少し傷んだ髪。せめて切って整えてやりたいな、などと思ってしまったお節介具合に身の置き所がないような。
 ――これじゃ大師匠だぜ。
 師をこれ以上なく溺愛していたフェリクスを思い出してしまった。自分もあのようになるのか、と思えば目を覆いたくなる。
「お前のことは、そうだな。――ニトロ、なんてどうだ?」
「ニトロ……」
「とりあえず、だな。正直な、うちの弟子とお前がうまくやってけるかどうか、私はそっちも心配なんだ。ほんとに手がかかると言うか……しょうもねぇガキだからよ」
「……え?」
「だからお前がうまくやれるって確信ができたら、入門儀礼をしような。それでどうだ?」
 だからニトロという呼び名も仮のものだ。入門儀礼で真の名を与えてはじめて弟子となる。いまはまだ仮初の師弟だと。
「はい」
 それだけはきっぱりと答えた子供。まるでたとえうまくやれなくとも自分はカレンの弟子となる、そう決めたかのような。それがくすぐったい気がした、カレンは。妙に通い合うものがある、そう思っているのは自分だけの勘違いではないらしいと。
「おう、ここだぜ」
 不意に照れくさくなってしまって乱暴に自宅の扉を開ける。それを子供が仄かに笑った、そんな気がした。




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