夢のあとさき

 ぎゅっと握られたままの子供の手の中、アランから贈られた石がある。どんな思いでそれを握りしめているのか、カレンにはわからない。いまはまだ、汲んでやることができない。いずれは、そう思いはするけれどほぼ初対面に等しい子供だった。
「綺麗な石だな」
 自宅への帰り道だった。北にあるタウザント街からカレンの自宅まではそれなりに距離がある。本市街を挟んで更に南の狼の巣に彼女の家はあった。かつては師が暮らしていた家、いまは彼女が住んでいる。
「はい」
 再び握りしめたのだろう。横目で見やれば拳が白くなっている。緊張しているな、と思い当然だとも思う。
「多島海の方ではその石を孔雀石って言うそうだぞ? もちろんこっちの言葉に直したら、ということだがね」
「孔雀って……鳥の孔雀ですか?」
「おうよ。知ってるか?」
「図鑑で見たことがあるだけです」
 学院の図鑑で見たのだろう。中々に勉強熱心だったのだ、と知る。直接魔法にかかわりのないことでも吸収しようとしてきたのだろう。
「先生……いえ、カレン師は、ご覧になったことが?」
 一瞬、学生のままのような気がしたのだろう。かすかな痛みにも似た表情を子供は浮かべる。変わってしまった世界、というのもカレンには覚えがある。子供にとって今がそれなのだろう。
「一度だけな。ちょうどお前と同じくらいの年頃だったか。ラクルーサの王宮に献上されたのを見たよ」
 それで子供は噂話を思い出す。エリナード・カレン。かつての星花宮で学んだおそらくは最後の世代。どんな場所だったのだろう、ちらりとそんなことを思う。
「綺麗な鳥だったよ。その石にほんとによく似た色合いの羽をしてた。尾羽は腕の長さほどもあったか。もっとかな? それをぱっと扇状に広げてなぁ。揺らしながら歩いてるのはほんとに綺麗なもんだったわ」
 だがそれも長くはなかった。気候が合わなかったのか食べ物が合わなかったのか、元々寿命が短い種族なのか。そう時を経ず死んでしまった鳥。もっと見たかった、触ってみたかった、当時のカレンはとても残念だったものだった。
「……その頃のことって、よく、思い出しますか?」
 小さな細い声。十三歳の少年としては細すぎる声だとカレンは思う。彼の前に世界は広く、まだいくらでもなんでもできる、そう思える年齢だというのに。もうそうはできない子供。
「ん……そうでも、ねぇかな? 星花宮のことはまぁ、色々あったしな。知ってんだろ? アリルカ戦争のことは」
「はい、授業で」
「私は当時あのど真ん中にいたからな。こっちに逃げてきた連中の中に、反逆者もいた」
 それは知らなかったのだろう、子供の目が丸くなる。まだまだ背の伸びる予感はあるけれどカレンよりずっと小さな子供が見上げてくるその眼差し。ふとカレンは気づく。日焼けしているとは違う浅黒い肌は、友人を失ってから外で遊ぶことをしなくなったのだろう、いまはひどく不健康な色になっていた。
「私より少し年下の訓練生……いまのお前らみたいなもんだな。言ってみれば学生だ。見知った顔がいくつもあった」
 エリナードは気づいていたのかどうか。カレンは言わなかった。師に余計な負担を担わせたくなかった。だから、黙ったまま処分を見つめた。
「結果、あいつらがどうなったのか、私も詳細は知らん。死んだんだろうな、とは思ってる」
 エリナードがしたこと話してやれば少し青くなっていた。カレンはあの場あの時代で師の判断は最善だったと思っている。だから、話した。子供はこれから魔道を進んで行くのだから。
「それが、魔道を歩くということでもあるな」
 だめ押しのよう言えばこくりとうなずく。それだけは真剣な顔だった。光を失いがちな目をしているというのに。いまの子供にとっては魔法だけが支えなのかもしれない。
「楽しいこともたくさんあったぜ? 嫌なこともたくさんあった。思い出ってのは、そういうもんでもあるからな。私にとっちゃ星花宮ってのはうちの大師匠をぶっ殺された場所、にいまはなっちまった」
 それが少し寂しい、カレンは言う。意図的だった。魔法学院は子供にとってどんな場所なのだ、と問うような気分で。
「いずれは楽しく思い出せるようになるさなんて言わねぇよ。いつになったって痛いもんは痛い。それとなんとか折り合いつけて生きてかなきゃならないのが人生ってもんさ」
「折り、合い……」
「つかねぇよ? ほんとを言えばな。つかないもんをつけたふりすることができるのを大人って言うのかもな」
 肩をすくめたカレンを子供は再び見上げた。握りしめた拳の中の石とカレン。ただそれだけを意識して。いまはまだ、何を思うこともできない彼だった。
「すみません、立ち入ったことを」
 それなのに子供はそんなことを言う。カレンは内心で溜息をついていた。礼儀正しくする必要などない。というよりデニスと足して半分にすればちょうどいいくらいではないのだろうか。
「気にすんな」
 頭痛の種の弟子を追い浮かべカレンは苦笑する。間違いなく今後起きる悶着がいまから幾つも予想できている。子供のためにならないことだけは阻止する覚悟だった。
「話していいと思ったから話したんだぜ? ――まぁな、まださほど知った仲でもない師弟だ」
 背をかがめて子供を覗き込めばちらりとよぎった不快そうな色。本来の彼はもっと闊達、というより癇性なのだろう。それが窺えただけで充分だった。
「だろ? だからな、お前がほんとのところでなに考えてんだか、いまんところはわかってやれん」
 いつかはわかり合えるといいな、カレンは微笑む。一方的に理解する、とは言わなかったことに子供は驚いた顔をする。いったい学院の教師は何を教えているのか、真剣にカレンは疑う。子供に感づかれる真似はしなかったが。
「お前がいま、いいことも悪いことも色々ぐちゃぐちゃになっちまったことをな、必死に消化しようとしてることは、それでもわかる」
 これでいい年の大人だからな。朗らかなカレンの隣、子供は黙って歩いていた。何も言わないからといって聞いていないとは思わない。エリナードの下に来たばかりの自分も似たようなものだった、そんな気がした。
「せめて私はお前が好きなだけ悩める時間を稼いでやるさ。足掻けよ、若人」
 ふふん、笑うカレンに子供はうつむいたままうなずいた。それで充分だった。子供はもう充分以上に足掻いている、頑張っている。そこから抜け出す手伝いをしたくとも、それだけはしてはならない。見守ってくれた師を思う。どれほどつらかったかと。
 ――こんなこと思うようになりましたよ、師匠。
 内心での呟きにうっかり返答が返ってきそうな気がしてカレンはそっと笑った。その気配を感じたのだろう、子供が顔を上げる。
「いや、思い出し笑いだ。私も師匠んとこに来たばっかん時にはずいぶん緊張してたな、と思ってな」
「エリナード師で、いらっしゃいますよね」
「おうさ。私は元々別の属性だと思われててな。そっちで育てられてた。途中でこりゃおかしいぞ、となって師匠んとこに来たわけだが。師匠は私が星花宮に入ったときにはもう追放された後だったからな。顔も見たことない、話に聞いたことがあるだけの男んとこにいきなり行け、だ。無茶な話もあったもんだぜ」
 呆れた、と言わんばかりのカレンの口調に子供は何を聞くのか。ぽかんとし、ついで少し笑った気がした。すぐさま儚くなった笑みだったけれど。
「お前、師匠に会ったことは?」
「……遠くから、お見かけしたことが何度か」
「そうか。どう思ってる?」
 好きなことを言っていいぞ、笑うカレンに子供はどうしたらいいのかわからない。前は、知っていたはず。友達が側にいてくれたときには、自分はもっと違ったはず。失くしたものがある、それだけは知った。
「すごい方だと、思います。作りあげた呪文の数々、改革した術式、発展させた魔法。憧れです……たぶん。あの先に行きたいと、思ってた、そんな気がします」
 好きなことを言え。言われた子供が出した答えがそれだった。カレンはそうか、とうなずくだけ。魔道に迷っている、はっきりと言ったにもかかわらず。見上げてきた子供の目、揺れているのをカレンは見た。
「前は、思ってたんだろ? これから先もできれば思いたい、でも今はできない。だろ? 別にいいだろ、それで。たかが十三の小僧に多くを求めるかってんだ。悩め悩め」
 それでいい、それがいまのお前がすべきこと。ひらひらと顔の前で手を振るカレンの言葉に子供は何かがすとんと落ち着いた気がした。それが何かは、わからなかったけれど。
「でもな、師匠は確かに業績は立派だ。偉業だろうよ。天才なんて言われることも多々あるな。私も天才だと思う。しかも、秀才の努力を惜しまない天才だ。こりゃ敵わねぇよ。ほんとに、魔法に関してだけは、本当にすごい男なんだけどな」
 含みしかない言葉に子供は不思議そう。遠くから見かけたエリナードの姿を思い出す。足が不自由だと聞いていた。学院を訪れるときには椅子に掛けたまま彼は移動する。優雅に足を組んで座し、椅子ごと浮遊しているのを見た。その傲然と美しい姿。あるがままに自らを誇る、大人になったならばそんな言葉を使うのかもしれない。
「いやもう、私生活はこの上ないダメ男だったからな。床の上で行き倒れ同然で寝てたりな、飯の支度をしたはいいが焦がしてたりな。普段は髪も手櫛でちゃちゃっとするだけだし、着てるもんだって裂けたり焦げたり溶けてたり。ひでぇもんだったぞ?」
 とてもそんな男だとは思わなかったのだろう、子供の目が大きく丸くなる。カレンは、少々潤色したが嘘は言っていない、と内心で師に詫びた。
「私もな、師匠に預けられるにあたって色々夢は見てた。緊張もしてた。まぁ、ことごとく外してくれやがったからな、あの男は。――私もな、そんな男に育てられた魔術師だ。かなりなところでダメ女だぞ? その辺は覚悟しといてくれな」
 子供の目を見てカレンは笑う。師のあまりにもだめな姿に――何しろ隠し子がいる、と誤解させられたのだから――カレンの何重にも被っていた猫は剥げた。あれが切っ掛けですべての緊張は解けたように思う。子供にも是非そうなって欲しかった。いずれ自分は憧れられるような魔術師――ではあっても憧れられるような生き物ではない、そう思うカレンだ。
「カレン師も――」
「うん?」
「すごい方だと、思います」
 なるほど、とカレンは納得する。学院を早くに出されることになった、それが気に入らなかった者がいたのだろう。ましてエリナード・カレンが弟子にするとはと。一度徹底して学院の清掃をすべきか、ここは師に押しつけよう、決心するカレンだった。




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