夢のあとさき

「よう」
 片手を上げるエリナード。応ずるファネル。ニトロは少し、切なくなる。ファネルがいままでどこか別の場所で仕事をしていたとは思わない彼だった。
 常人二人のために。彼らの感情を慮ってファネルは姿を隠していた。ダモンもティアンもファネルに会ったことはある。それでも異常事態の興奮の中と言ってもいい状態での会見。彼らは神人の子を、まして闇エルフを目の当たりにすればいまだに動揺するだろうとのファネルの心遣い。
「お久しぶりです、ファネルさん。会いたかったなぁ」
 言えば珍しくファネルが吹き出す。下手なやりようだと自分でも思ったニトロだった。それでも思いは受け取った、とでも言うような彼の笑顔。エリナードがくすぐったそうに笑っていた。
「それで、大師匠」
「なんだよ?」
「さっき、なにがおかしかったんです?」
 うやむやにする気はないニトロだった。こんなところは魔術師の好奇心か、と思えば自分でも肩をすくめたくなる。
「エリィが焼いた菓子だが、どうだ?」
 二人を代わる代わる見て、ファネルが言った。差し出す菓子は少し焦げている。ファネルに他意はないニトロだ、ありがたく受け取り、眼差しはまだエリナードを見ていた。
「ったく。別にたいしたことじゃねぇよ」
「だったら教えてくれてもいいじゃないですか。気になって仕方ない」
「――似てるな、と思っただけだ」
 カレンにか。言われた途端に顔を顰めるニトロを大きくエリナードが笑った。そしてファネルが愕然とするようなことを彼は言う。
「師匠にさ」
「……はい?」
 エリナードが師、と呼ぶのはただ一人、フェリクスのみ。ニトロには意味がわからない。フェリクスに似ていると言われて喜ぶべきなのかどうかすら。
「エリィ? どういう意味だ」
「だからな、たいしたことじゃねぇんだって。――血は争えねぇってか? さっきあんたも見ただろうか。こいつはたまに師匠と似た目をする。――この世に独りっきり、みたいな目をな」
「フェリクスには、タイラントがいただろう」
 聞きつつ、ずきりとしていた、ニトロは。エリナードの指摘に思い当たる節がないわけでもない。いまはダモンという友人がいる。言い返してもよかった。それなのに、言えない。
「一心同体だったからな、正しい、言葉どおりの意味でよ。それってタイラント師がいても自分がそこにいるってのと何が違うんだ?」
 自分自身であるタイラント。ならば眼前にあってもそれは鏡を見ているのと同じ。エリナードは言う。ファネルとしては納得しがたい。彼ら自身の言語で言う「伴侶」とはそのような意味ではない。
「死すべき定めの地上の生き物にとっちゃって意味さ」
 神人の子らと自分たちと。似ていて違う生き物。ファネルに理解できることがエリナードにはできず、逆もまた同じ。二人の間に愛があると知るからこそ、ニトロは痛いと思う。ファネルは何も言わなかった。
「俺は……そこまで孤高じゃないですよ」
 エリナードはきっとフェリクスを孤高とは言っていない。そのようなものではたぶんない。ニトロにはそうとしか言えなかっただけ。
「さぁ、どうだかな」
 小さく笑うエリナードにニトロは唇を噛む。何をどう言えばいいのか。フェリクスを引き合いに出して、何かを言われているのは理解できている。その何かがわからない。
「面白いもんだったぜ? あんな目ぇしといてよ、あの親父は。そのくせ俺を見つけると嬉しそうに笑う。無理してるとかじゃねぇんだ。この世に戻ってくるって感じかな。どっか遠くに行っちまってた師匠が、帰ってくる」
 タイラントと共にあってすら、時折フェリクスはそんな目をした。ファネルはそれをどう聞くのか。エリナードとしても懸念がないわけではない。横目で見やれば切なそうに、けれど愛おしそうに耳を傾けていた。
「よくタイラント師は嫉妬しませんでしたね」
 苦し紛れの言葉をエリナードは笑った。昔を思い出すように、大きく深く。あのころはよかった、などとは言わない。いまはいまで充分に幸福だ。それでも懐かしい師の姿。
「妬いたに決まってんだろ?」
 ふふん、と笑えばくすりと漏れたファネルの笑い声。いいものだ、とエリナードは思う。こうして誰かと共にある、というのは。
 だからこそ、ニトロが不安だった。師と似た目をするこの魔法における自分の孫が。遠からず自分は逝くだろう。その時までに伝えられることは伝えておきたい。不意に思い出したのはタイラント。
「君たちの心にどれだけの物が残るか俺にはわからない。だから何度も、何度でも言うんだ。少しでも残ってほしいから。君たちにより良く生きてほしいから、俺は繰り返すんだ」
 伝えられるのだろうか、自分は。カレンに、ニトロに。そのあとも続いて行くだろうフェリクスの血に。伝えきれない不安があるから、こうして言葉を尽す。
「大師匠?」
 どこかくすぐったそうな笑みを見せたエリナードだった。黙って微笑む藍色の目。にやにや笑いであったり、清々しかったり。ニトロはつい比べてしまう。よく似た目の色。エリナードに似た目、と言われれば納得はできるのに、フェリクスと似ていると言われても。それはフェリクスを知らないせいなのか。ふと思う。
「お前はな、他人に興味がなさすぎだ」
 率直に放たれた言葉。よけいなことを考えていたニトロはどきりとする。知らず仰け反った彼をファネルが見ていた。
「別にな、研究熱心なのは褒めるべきことであって咎めるようなことじゃない。それはそれでいい。魔術師ってのはどこまでも突き進んでいくやつが多いからな」
「だったら……」
「他人にかかわってる暇なんかねぇってか? それくらいだったら研究がしたい?」
「……まぁ」
「それはな、ニトロ。逃げって言うんだ」
「逃げてなんかいません!」
「即答しやがったな?」
 にやりとしたエリナード。ぬかったとばかりニトロは唇を噛む。そんな風にするものではない、とファネルに微笑まれて情けなくなる。子供扱いされた気がして。
「お前は他人に興味がないんじゃない。怖いんだ。また失くすかもしれないから、それが嫌なんだ」
 ネイト。心の中で思わず幼友達の名を呼んでいた。エリナードがそれを指しているのは明白。拳を握ったニトロにエリナードは続けた。
「いまはな、ダモンだったか。あいつがいるって言うか? 言い張るんじゃねぇぞ小僧。だったらなんであんな目ぇしやがる。あいつらを見送ってお前が見せた目はなんだ?」
「それ、は……」
 鋭いエリナードの眼差し。ニトロは答えられない。正直に言えば、自覚はない。指摘されたからこそ、あるいは羨んでいたのかとは思うが。
「俺は……いまんところ、誰かと付き合いたいとは、思ってませんし。師匠だってそうですし」
「カレンにはエイメがいるだろ」
「エイメさんは友達だって」
「だからな、女作れとか言ってんじゃないんだっつーの。カレンにとっちゃエイメは唯一無二の親友だ。エイメにとってもな。エイメが男と別れる理由をお前は知ってるか?」
 無言で首を振るニトロはいつになく幼げ。友人たちの前では気を張っているのかと思えば微笑ましい。そっとファネルが差し出した茶を気づきもせずに受け取っては飲んでいた。
「カレン以上の相手に出会えないからだ。カレンと比べて見劣りしちまうから別れる、エイメは言ってたぜ? まぁ、それはそれでどうかと思う言い分かと思うがよ」
「友人と恋人を比べるものなのか、人間は」
「普通はしねぇだろうよ」
 不思議そうなファネルにエリナードが肩をすくめる。そのとおりだ、とニトロは思いつつ、エイメの言い分が理解できる気がした。
「お前は、そういうダチがいるのか? いねぇよな。連れ合いだろうがダチだろうが、そこは問わねぇよ。どっちでもいい。極論するならな、敵でもいい。お前が全身全霊を傾けられる相手ってのは、いるのか?」
 いないだろう。エリナードは言う。ニトロは反論ができない。そのとおりだった。また、必要とも思ってこなかった。自分には魔法がある。研究だけをしていたい。
「魔術師の人生ってのは長いぜ? 定命の生き物としては尋常なく長い。――俺はな、そんな中でガキが独りぼっちかと思うと……やり切れねぇよ」
 たった一人で立っていたようなフェリクスを思い出してしまうから。エリナードのそれは自己満足かもしれない。それでもニトロの隣には誰かがいてほしい。
「――師匠の受け売りだがよ。人間、生まれた限りは幸せになるべきってな。誤解するんじゃねぇぞ。誰彼かまわずお友達になれとかな、そういうことじゃない。お前はガキのころ学院でそういう育てられ方して嫌な思いしたよな? それを否定した俺がみんな仲良くなんて言うか? 俺もカレンもお前にはちゃんと生き物として幸福になって欲しい、それだけだ」
「……はい」
「いまはまだわからないだろうな。――あのな、偉そうなこと言ってるけどよ、俺だってそうだったからな? 年食ってはじめてわかるってこともある。わかったから伝える。まぁ、伝えられても理解ができるのはずっと後なんだけどよ」
「……大師匠も?」
「おうよ。それなりの年齢になってはじめて親父が言ってたのはこのことか、なんてな。ざらだぜ?」
 だからいまは聞くだけでかまわない。耳だけは閉ざすなと。ニトロは忘れまい、と思う。孤高を気取る気はないし、それなりに人付き合いはしている。が、絶対の信頼を置ける人、あるいは不倶戴天の敵、いずれもいない。ぞくりとした。自分はカレンですら、師ですらそこに入れていないのかと不意に気づいた。
 そしてカレンはおそらくそれと知っている。その上で見守ってくれている。導いてくれている。あるいはこれが「時至れば理解が及ぶ」ということなのか。ダモンと知り合う以前の自分ならば断じて認めなかったし理解もできなかった確信がニトロにはあった。
「――お前がガキん時にどんな目にあったかは、知ってるぜ。それが傷んなっててもなんの不思議もない。あのな、ニトロ」
「はい――」
「傷ってのは癒す時間がいるんだ。俺だってそうだった。それでも傷はいずれ治る。時薬って言葉もあるしよ」
「定命の子にとって、時間は何よりの薬ともなる。その感覚は我々にはないものだが、お前ならばエリィの言葉はわかるのだろう?」
 ファネルの優しい声。理解できるのならば覚えておくだけでいいのだと。ニトロは黙ってうなずいた。いまは、それしかできない。
「転んでできた傷ならな、治ったときにゃ立ち上がれ。立ち上がったら歩け。つか走れ。真っ直ぐ走る気になりゃ、とりあえずはどっかにつく。ぐねぐね曲がりながらでもよ、後戻りしながらでもよ」
「進まなきゃ、どこにもつけない――」
「そういうことだ。それだけ覚えときな」
「はい」
 真っ直ぐと顔を上げたニトロ、エリナードは目を細めて見ていた。カレンの息子が、こうして立ち上がろうとしている。あの事件を経て、いまになってようやく決着して。解決などしてはいない。おそらく生涯彼の中では傷になる。せめて傷が塞がればいい。傷跡になって、立ち上がり、進んで行かれれば。
「お前の魔法は面白いからな。下手に歪んで使い物にならなくなるとつまんねぇんだよ、俺が」
 ネイトのこと、友人たちのこと。自分の将来。しんみりとしたニトロにエリナードはあっさりとそう言った。
「大師匠!?」
「なんだよ?」
「ご自分がつまんないって、そりゃないでしょうが!?」
「そんなもんだぜ? ほれ、ダチの手伝いしてきな。あいつら、ダチなんだろ?」
「ですよ! いまはまだ、あいつらしかいませんけどね! ――ただ、ちょっと思いますよ。アイラ、ご存じですよね。あいつ、俺にダチ扱いされてないって言ってますけど、やっぱり……あいつも友達かなって」
「ほほうー」
「もう、大師匠!? 笑わないでくださいよ! いいです、もう。手伝ってきますよ、そうすればいいんでしょう!?」
 からからと笑うエリナードの声に送られてニトロは走っていく。照れくさそうな背中をしていた。
「少し育ったかなぁ」
「お前は性格が悪いぞ。もう少し真っ直ぐと褒めてやればいいだろうに」
「ガキを褒めてもつけあがるだけだっての。つけあがった結果どうなる? 俺ができあがるだけだろうが」
 胸を張って笑うエリナードにファネルは呆れる。誰より慈しまれ何より愛されたフェリクスの息子。そんな言い分で彼は父を懐かしみ、そして父と同じことはできない己を悔いてでもいるかのよう。
「いいんだよ、ニトロはわかってる。どっかで、ちゃんと理解してる」
 呆れ顔のファネルにエリナードは笑った。これでニトロの魔道を評価しているエリナードだ。カレンの弟子、というより己の孫と呼ぶのはそのせい。
「俺は、期待してんだよ。あいつには」
「どのような?」
「――カレンは、俺を絶対視しすぎてる。俺も悪いんだ。俺はやっぱり師匠を絶対視してるからな」
「フェリクスだからな」
 自慢げなファネルをエリナードは小突く。小さく笑えば笑い返してくる闇エルフ。遠くに行ってしまった闇エルフの子を思う。
「だからカレンは俺の先には行けても、俺が目指した師匠の先には行ける気がしねぇ」
「お前はフェリクスの先にたどり着いていない?」
「さぁ? 自分ではついてると思ってるぜ。師匠が目指しただろう魔道の先に俺は立ってる。その自覚はある。それでもな……なんて言うんだろうな……。もっと先、ずっと先。俺は師匠が見てたのはそこじゃないかと思っちまう」
 だからこそ、自分は夢を見られる。まだ先がある、まだ遠いと。けれどその自分を見るカレンは。エリナードの言葉が理解できなくはないファネルだった。
「ニトロはな、師匠を知らない、会ったことがない。あいつにとっちゃ親父は伝説の魔術師だ」
「だからこそ、その先に行かれると?」
「若いんだからよ、伝説を超えてやるぜ、くらいの気概でいるからな。知ってる俺やカレンはやっぱりな、色々あるしよ」
 肩をすくめたエリナードだった。ファネルはフェリクスの魔道なるものがどれほどのものだったのかはわからない。彼の魔法をその目で見てはいても魔術師ではないファネルだ。ただ、神人の子としての実感はある。
「フェリクスの魔法は……凄まじかったからな」
 定命の子の魔力とは思いがたいあの魔法。エリナードは直接に、カレンは数回の会見ではあった。それでも彼を知っていた。
「知らないニトロならよ、下手な思い込みなしで先に行けるような、そんな気がしてな」
 走って行った若い背中。あの道がフェリクスの先に続いていることをエリナードは祈る。不意にファネルが笑った。
「お前もお師匠様をしているな?」
「うっせ。柄じゃないのはわかってるっつーの」
「よく似合っている。在りし日のフェリクスを思う」
 こうして成長したエリナード。このように育てたフェリクス。その姿をファネルは思うのかもしれない。それには黙って肩をすくめたエリナードだった。湖の水をひと掬い。魔法で操れば水滴がきらきら。虹の向こう、ファネルはフェリクスを見るのかもしれない。
「妬くな、エリィ」
「妬いてねぇよ!?」
 いつものやり取り。互いに口許に笑み。そこでちょうど忙しい、と人が呼びに来るのもまた。吹き出しあって二人は仕事へと戻っていった。




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