照れくさげに咳払いをするニトロを笑い、少し空気が変わる。安堵はできなかったけれど、危険ではないのだとばかりに。 「根本的な問題ってやつだな。闇の手はスキエントなる存在を信仰してた。それはいいか?」 ダモンには言うにや及ぶ。ティアンはいま一歩理解ができないながらも「そういうもの」として認識する。それでいいとエリナードがうなずいていた。 「その教えに従って、闇の手は暗殺稼業をしていたわけだ。――ここにいま、教えはなくなった。少なくとも、教えに縛られることをやつらは今現在は、やめた。なら稼業に戻る意味がない」 わかるか、とエリナードの藍色の目がティアンを覗き込む。理解ができなくてダモンを見やれば納得していた。 「いや……。僕らは、それが正しいこと、と思ってやっていたんだ。正しいことを命ぜられて、誇りにしていた。それが砕けたんだ。やる意味? ないだろう、それはやっぱり」 「そうか……」 言いつつティアンは思う。人間、自暴自棄というものがあると。いまはまだアリルカの援助があるのだろう彼ら。それがなくなり、自立したとき彼らはうまく生きて行くことができるのだろうか。できなかったならば。思ってしまう。 ダモンのためだった。顔形を変えようと姿を変えようと、ダモンはその手口で彼らの仕業と知るだろう。そのときダモンは何を思うか。そう考えると居ても立ってもいられない、というのが真実か。 「そんでも大師匠。無茶やらかすのはいますし……。まぁ、ティアンの不安もわかんなくはないかな、と思わなくもないんですが」 面倒な言い草をダモンが小さく笑う。仲が悪いわけではないのに互いに相手を毛嫌いしているような二人だった。エリナードはちらりとそんなニトロを見ては口許で笑う。 「いるだろうよ。だけどな、ニトロ坊や。俺はそこまで責任持ってやれねぇよ。生きるのは本人だ。俺たちは無茶苦茶やりゃしたけどよ、生きる筋道だけはつけてやったはずだ。あとはもう本人がどう生きるかしかねぇよ」 教えを信じていた彼らの心を砕いたエリナードが冷たく言い放つ。一瞬だけティアンは頭に血が上りそうになる。だから魔術師は。無理無茶無謀の塊、と。 「その、とおりです。それに……ティアン、君は何かを考えたようだけれど。本当ならばこれは僕がすべきことだったんだ。でも、僕では彼らを生かすことはできなかった。僕が闇の手を壊滅させるには、一人残らず殺すしかなかった」 あの場に限って、それは可能だった。ダモンにはできた。ニトロの手を借り、人事不省の眠りに陥った彼ら。野菜を切るより簡単に殺せたはずだ。 「それをさせず、エリナード師は助けてくださった。全滅よりずっといい。僕は……そう思う」 「あ――。その、すまん……」 「いや……」 色々と思うところも噛み砕けていない思いも、二人にはあり過ぎる。時間が経つよりない、エリナードは彼らに言わずそう思っていた。 「にしたって、大師匠。無茶だ」 少しばかり恨めしげなニトロの声などはじめて聞いた、常人たちは目を瞬く。はたと気づいたのはティアン。追ってそのティアンに気づいたダモンが無言で説明を求めた。 「いや……」 「ティアン。気にせず言ってかまわないと、思う。怒られはしないと、思うんだが」 「なんだ、ニトロ。お前、そんなに怒鳴ってばっかなのかよ?」 「俺じゃないでしょうが。こいつらは大師匠の気分を害しゃしないかって気にしてんです!」 奇妙なことを気にするものだ、とエリナードは大きく笑う。ティアンはそれに力なく笑みをこぼし、改めてエリナードへと向き直った。 「ニトロは、なんつーか、その。エリナード師が心配なんだろう、と言うか……」 「はい? 大師匠の心配? そんな偉そうなことができるか馬鹿!?」 「してただろうが!? お前、闇の手が一番に狙うのは誰かって思ったんだろ! そりゃエリナード師だ」 闇の手の者たちがアリルカに連れてこられて以後、直接に接していたのはエリナード。他の魔術師たちも神人の子らも陰から大勢が助けてくれていたのだけれど、助けていたのはエリナードであって、闇の手の者たちは「自分の心を壊したのは彼だ」と認識していないはずがない。 エリナードは内心で苦笑する。カレンがどこまで話したのか、と思っては。そこまで彼らが知る必要はなかったというのに。イーサウの地で愛弟子がほくそ笑んでいる気がしてならない。 「また過保護を謗られてる気がしてならねぇんだよな……」 思わず呟いてしまえば常人たちの不思議そうな顔。ニトロは気づいたと見えて吹き出していた。諦めてエリナードは事実を告げるだけ。 「俺の心配なら無用だ」 「でも、率直に言って、そのお体でしょうが」 「こっちは魔術師だからな。足が利かなくったって常人が束になっても殺されやしねぇよ。手向かいするなら相手するだけだ」 衒いも気負いもない、それだからこそ恐ろしい言葉を聞いた、ティアンは思う。これが魔術師かと。ミルテシアでは出会うことがなかった魔術師。アイラの黒猫隊でマーテルという戦友と呼べる男と知り合った。それでも格が違うとしか言いようのない魔術師がここにいる。 「さて、と。あとはいい話にするか」 悪い方の話はここまで、とエリナードは話を切った。いずれ、今すぐ結果が出ることではないし悪い結果が出ると限ったものでもない。静観するよりなかった。 「ガキどものことだけどな」 闇の手で将来の学士として養育されていた子供たち。すでに契約を果たしに行ったものとていたことだろう。ダモンは自らを振り返りそう思う。それでもエリナードはただの子供、と語っていた。 「さすが子供は柔軟だな。そりゃな、そこらで泥だらけんなって犬の子だか人の子だかわかんねぇような育ち方したガキらとは違う。それはそうなんだけどよ……」 大人たちのよう心を病んでしまうことはなかった、とエリナードは言う。衝撃の強さに病を得たものは確かにいた。それでも着実に回復したと。 「あとになってな、思い出してヤな夢見たりよ、あるだろうとは思うぜ?」 「それでも、人殺しを正しいものとして教えに従うよりはずっといい。僕はそう思います」 あるいは、生涯それを信じ続ける。そうしなければオスクリタの村を全滅に導いた身だ、ダモンの身が持たないだろう。彼自身が意識しているかどうかわからないその言いぶりをティアンはそう解釈する。できることならばそれを支えたいと。 「俺も、生きて行ってほしいと思うぜ」 人に命ぜられてただ従って生きるのではなく、自らの意志で、自らの足で。エリナードはふと「星花宮の一番まともな弟」を思い出す。彼もまた、ようやく獲得した自分の足で歩き切った人間だった。 「――色々と、本当にありがとうございました。エリナード師おひとりのことではなく、アリルカという国に助けていただきました」 「言わなかったか? こっちの事情だ、気にすんな。闇の手はいずれ壊滅させる必要があるとは思ってたからな」 ぽん、とエリナードはニトロの白金の髪に手を置いた。嫌がるような、照れくさいような顔のニトロ。ぷ、とティアンは吹き出す。直後に思い切り脇腹を拳が抉った。 「ほんっとに、どこにこんな魔術師がいるんだよ! 昔話の魔術師はみんなもっと繊細だろうが!?」 「馬鹿野郎。俺なんかまだまだだ。大師匠なんざ剣の腕で騎士と互角、拳の一撃で野郎のあばら骨叩き折ったことあるって師匠に聞いたわ」 「は……?」 「その反応はよくわかる」 「あのなぁ、ニトロよ。カレンに聞いたってな、そりゃだいぶ前の話だぜ? まだ足が利いてた頃だな。さすがにいまじゃそこまでは無理だぞ」 「当時でも普通は無理なんですよ、大師匠!」 エリナードとしては言い分がある。相手は確かに男性ではあったけれど肉体の鍛錬などしたことがない軟弱者だっただとか、その男がどれほどカレンに無礼を働いたかだとか。言えば言うだけ不利になる気がして結局は黙った。 「あの、エリナード師」 変わったな、とニトロがダモンを微笑んで見ていた。こうして話がずれたとき、自分の言いたいことに話を戻そうと、かつてのダモンはしなかった。いまは。 「ん?」 「その、お世話になったお礼をさせていただきたく」 「前にカレン経由で香油、送ってくれただろうが。あれ、よかったぜ。充分だ」 ぱっとダモンの顔が明るくなる。本当は、その感想も聞きたかった自分だと今更になって気づいたのだろう。けれどそれでは足りない、と首を振る。 「他の方々にも、お礼をさせていただきたくて。と言っても、何ができるわけでもなく……。僕の得意なことと言えば、植物の栽培なんですが、さすがに」 毒薬の抽出精製をするためにその毒草から育てていたオスクリタの村。無論ダモンもかかわっていた。学士として契約を果たしに行かない日々は草木の手入れをしていたもの。とはいえ、それを知っているエリナードとアリルカの人々。まさかそんな自分に畑仕事をしろとは言わないだろう。が、ダモンは愕然とした。 「あぁ、そりゃいいな。俺の伝手でずっと育ててる薬草があるんだがよ。ちょっと難しくってな。薬効は随一なんだが……根張りは悪い、花つきは悪い、実のつきはもっと悪い。土が乾くのを嫌うくせに雨が続くと全滅しやがる。これ、なんとかなんねぇかな? ちょっと畑で見てやってくれるか。あっちに専門家がいるからよ」 「……いい、のですか。確かに僕は植物は得意ですが。この手は、ほぼ毒草ばかりを育てた手です」 「毒草も薬草も似たようなもんだろうが」 「……大師匠。大雑把すぎます」 「そうか? 薬効がどう作用するかの違いでしかねぇわ。毒草の面倒が見られんだったら薬草の面倒だってなんとかならねぇかな?」 なるとは思う。話を聞いた限りダモンにはいくつか解決策がすでに思い浮かんではいる。が、それでいいのだろうか。 「こうやって、また助けていただくのも、いいんじゃないのかな」 「僕は、お礼がしたかったのに」 「続けて行けばいいんじゃないのかな。いずれ、ダモンが思うような礼になる。そんな気がする」 助けられてばかりだ、嘆くダモンはそれでも満足そう。助けの手を拒まないでいられる自分にはようやくなれた、そんな風にも思うのかもしれない。 「じゃあ、案内してやるよ。あそこでしょ、大師匠?」 「要らん、ニトロ。邪魔だよお前! エリナード師、場所だけ教えてください。ダモンと、二人で!行きますから」 あいよ、と笑うエリナードにニトロは不満げ。常人二人は本当に場所だけ聞いて行ってしまった。もっとも、ニトロも実は案内する気がなかった。エリナードとこうして話ができるのは貴重な機会でもある。が、彼は歩いて行った二人の後ろ姿を見ていた。 「……なんですか、大師匠」 笑われた気がした。かすかな息の抜けるような音ではあったけれど、ニトロは確かにエリナードのそれを聞いたように思う。 「いいや?」 が、やはり彼はにやにやと笑っていた。思わずむっとして言い返そうとしたところ、不意にファネルが姿を現す。 |