ダモンの、表情。信頼にあふれたその顔。彼自身は気づいていないのだろうとティアンは思う。変わったな、そう思う。温室で見ていた当時より、ずっといい顔をすると思う。いまのほうがずっと好きだと思う。途端に慌てて咳払いをした。 「せっかくだ。さっき言っていた花を探してみないか?」 突然のティアンの提案にダモンは目を細めてうなずく。ニトロがここには他の花に混じってある花が咲いている、と教えてくれた。 「夏霜草、だったっけ。なんか変な名前の花だよな。お前は、わかるんだろ?」 「わかるよ。見栄えは悪い。でも、とてもいい香りがするんだ」 「それで香油を作ってみたり?」 「普通なら、できない。熱に弱くてな。精油として抽出するのがとても難しいんだ」 「でも、できるんだろ」 「もちろん」 自慢げにうなずくダモンなどはじめて見たな、ティアンは驚きと共に嬉しくなる。思わず抱き寄せれば驚愕の声。それでも離さなかった。 「世界は……不思議だな」 周囲を見回しながらダモンは呟く。輝く人工の湖。自然に咲き誇る人の手で植えられた花々。ニトロが話してくれた、夏霜草。 「あれって、ほんとだと思うか?」 ニトロは冗談交じりに語った。おかげで信用していいものかどうか二人は迷っている。カレンの師、エリナードがかつて出会ったエイシャ女神の化身であった少女の話。夏霜草の花はエリナードがその女神に捧げたものだと彼は言った。 「さぁ? ただ……ニトロがそんな嘘をつく理由はないかな、とは思う」 「信用してるな」 「妬くな、馬鹿」 妬いていない、声を荒らげるティアンの声を心地よく聞く。女神の話はダモンには判断がつけられない。本当であってもいい、ニトロの冗談であってもいい。そんな気分ではある。 「だから、ここは女神湖、なのかもしれないな」 イーサウでこの湖は女神湖、と呼ぶらしい。はじめはエリナードが作りあげたことから彼の名を冠する、という話が出たようだ。 「誇らしいもんだと思うんだがなぁ」 「どうだろう? そんなつもりじゃなかったのにエリナード湖、なんて呼ばれたら嫌な気分かもしれない」 「そうか?」 賞をもらうようなものではないか、とティアンは思う。剣闘士時代にはそういうことがよくあったものだ。名を上げて、顕彰される。誇らしいことだと思う。 「いや……そうだな。そういえば俺も貴族の家来にならないかって言われたんだったわ」 「昔?」 「あぁ。一年無敗で勝ち抜いたときにな」 「代わりに君は、自由をもらった」 金で買われて命を自由にされていた身だった。賞をくれると言うのならば自分の命が欲しかった。自由に使える命が欲しかった。 「名を上げてもいいことなんかないような、そんな気がしたんだな。きっと」 わかる、とはダモンは言わなかった。ダモンには、わからない。闇の中から伸びる手として生きてきた。名を上げる、という感覚自体がない。 「僕は……学士と呼ばれたときには、誇らしかった――」 「そりゃそうだろ? 当時は、それが正しいと思ってたんだし。俺は俺で、一年無敗だ。ただの勝負事じゃない。秘密の剣闘場だ」 ティアンが勝ったということは相手は死んだ。そういうことだった。言わなかったのは、彼が口を閉ざしたせいではない。ダモンが言わせなかった。 「歪んだ、どうにもならない場所に、僕らはいたんだな」 「俺はニトロのおかげでいまがある、なんて絶対に言わねぇからな!?」 言っているも同然ではないか。ダモンが笑う。むつりと唇を引き締めたティアン。けれど仕方なさそうに小さく笑う。肩をすくめたときには傍らにダモン。寄り添う位置にいる彼の、そのぬくもり。 「それで恵みの湖、と呼んだらしいね」 互いのばつの悪さを隠そうとするようなダモンだった。無理矢理話を戻した彼の頬。横目で見ればかすかに赤い。咳払いをしたティアンをダモンはそっと笑った。 「ニトロの話では、それ以前は涸れたりあふれたりで、水害が起こっていた、らしいだろう?」 「確かに恵みの湖だよな、これは」 水害の恐ろしさをティアンは知らない。ダモンは知っている。オスクリタは山に抱かれた小さな集落。一度だけではあったけれど長雨が続いて水害が起きたことがあった。どうどうと流れ込んでくる茶色い水。押し流され、砕け散る家。幼心にあれほど恐ろしいものはないと思ったものだった。 「言いにくかったのか、親しみを持とうとしたのか。恵み湖になって、いつの間にか女神湖になった?」 「言葉なんてそんなものかな、と僕は思うよ。スキエント様の事績が歪んだのだって、そういうものだと思うし」 本当は、どんな人だったのだろうとダモンは思う。何千年も前に亡くなった男はいま、こんな風になってしまった自分たちを見てどう思うのか。せめて恥じない生き方をしたい、そう思う。 「あぁ、あったよ。ティアン」 ゆっくりと湖の周囲を巡っていた二人だった。見つかってもいい、見つからなくてもいい。そんな気分だったティアンと違い、ダモンは真剣に探していたらしい。 「ん、どれ?」 あった、と言われてもティアンの目には花らしい花が見つけられない。首をかしげていると苦笑したダモンが一茎の草を摘む。突如として漂う優雅な香り。 「あ――」 「いい香りだろう? 花はこんなに見栄えが悪いのに。本当に香りは素晴らしいんだ」 ダモンの手には淡黄色のもわもわとした塊が頭頂部についた草。さすればこれが夏霜草か。見栄えが悪いと言うのが最大限の賛辞のような花だった。 「女神さまに捧げるような花かねぇ?」 「きっとエリナード師と女神の顕現だった少女?との思い出、なんだと思うよ。もしもあの話が本当なんだとしたら」 「それがまず信じられない」 「でも、僕の世界も君も世界も。ほとんどの人たちから見れば信じがたい世界に生きてきた。だとしたら女神さまが小さな女の子の姿で遊びに来た、そんな話があってもいいような気が僕はするんだ」 神々のおひとりではなかったけれど、スキエントを信仰してきたダモンだった。その教えに身を浸して生きてきた彼だった。それよりずっとエイシャ女神の話は楽しい、そう思う。楽しいことがこの世にはある。あるいはニトロはそう言いたいだけだったのかもしれない。ふと思っては忍び笑いを漏らした。 「どうした?」 「友達にお節介をされるのは楽しいな、と思っていた」 「んー、まぁ」 「君がいて、ニトロがいて。僕は――。君にとってそういう存在に、なれるのかな。いつかは」 「いや……」 「無理、かな。だな、うん」 「そうじゃなくて! もう……なってると言うか……その。なぁ?」 歯切れが悪いティアンの言葉。まじまじと見上げれば真っ赤になってそっぽを向いている。目を丸くし、ついでダモンは破顔する。 「――思い出してよかった」 「何をだよ!」 「これ、渡しておこうと思って。持ち歩いていたんだけど……機会が……その」 今度はダモンが口ごもる。片手に夏霜草、反対の手は懐に。取り出したのは見覚えのある小瓶。カレンから借りた家の調香室でダモンがそっと棚に乗せていたもの、ティアンは不意に思い出す。 「あ……」 「ティアン?」 「思い……出した。お前が……温室で、作ってた、あの匂い、だ……」 呆然としていた。調香室ではどうしても思い出せなかった記憶にあったはずの匂い。いまここで突如として蘇る。 「あぁ。そうだ。僕が、作っていた、あの香油だ」 掌の中に握りこめてしまうような小さな瓶。ダモンは視線を落としてそれを見ていた。意を決して蓋を開け、無言のままティアンの手首に擦り付ける。 「――違う!」 そのとおりだった。蓋を開けた瞬間、ティアンは確実にあの温室の香りと思い出している。それなのに塗られればまったく違う香り。にもかかわらず、記憶にあった。 「あの時にも、言っただろう? 体温で香りが変化するんだ」 「こんなに、違うもの、だったか……?」 「改良してるからな。――元の香りも、少し違うんだ。温室で作っていたのより少し、なんと言うかな……血の匂いが強い」 「はい?」 「いつだったかな。君は剣の鍛錬をすると古傷が開いて血を流す、と言っていただろう?」 いまならばわかる。闇の手の者の血はひどく薬臭い。だからこそ、ティアンの健康な匂いが衝撃だった。何度となく契約を果たしていても感じたことがないほど。血の臭いなど知り尽していると思っていたのに。 「ちょっと気持ちの悪い言い分だとは思うんだがな。僕にはとてもいい香りだったんだ。少し甘いような、なんとも言えない」 説明しようがない、とダモンは首を振る。ティアンは手首に鼻を近づけてゆっくりと息を吸い込む。血の臭いはまったく感じなかった。ダモンには、それでもこれが健康な血の匂い、として感じられるのだろう。 「誤解しないでほしいんだが。――君の香りだ、と思ったんだ」 血の匂いではある。けれどティアンの香り。ティアンは物も言わずにダモンを抱き締めた。小さく上がる声が胸元から。すぐに絶えた。 温室で、ティアン本人にすら告げずに作り続けていた彼の香り。彼はいま、それを知る。どんな思いで作っていたのか。どんな思いで自分を陥れたのか。救ってくれたのか。歪んで、矛盾して、行きつ戻りつしたダモンの道行き。 「――これからは、俺がいるから」 ティアンの背に腕をまわし、ダモンはうなずく。温かくて、言葉がない。つん、とした匂い。何かと思えば込み上げるもの。慌ててティアンの胸に顔を埋めた。 「自分で思っていたよりずっと……香油に毒を混ぜるの、嫌いだったみたいだ」 「自分で言ってたよ、お前は」 「そう、だったかな? でもきっと、それ以上に」 ティアンの体から、ほんの少しつけただけの香油の匂い。ティアン自身の匂いと相まって、たった一つだけのダモンの香り。これだけが、支えだったような、そんな気がする。 「これからは、好きな香油を作って生きて行けばいい。俺だって、その。いるし」 再びもごもごと言うティアン。ダモンは顔を上げ彼を見た。ちらりと横目で窺ってくるティアン。幸い周囲に人影はない。 「――恥ずかしいものなんだな、こういうのは」 「言うなよ!?」 「君も、恥ずかしい?」 触れ合っていた唇を無意識だろう、ダモンが押さえている。目許の仄かな赤。ティアンは見なければよかったと思う。自分まで赤くなりそうだった。 「帰ろうぜ。まだ色々やることあるし」 照れたティアンの野暮な言葉。ふとダモンは幸福だと思う。帰る場所がある。帰ろうと言ってくれる人がいる。 「あぁ、帰ろうか」 並んで歩きだせば足下にはエレオスの花。夏霜草をもう少し。エレオスをたくさん。摘んでダモンは歩きだす。 「それ、使うのか?」 「この程度だと精油には少ないけど。まずは参考に、かな。うまくできたらエリナード師に差し上げようと思うんだ」 カレンには羞恥が勝る。ニトロは論外。けれどありがとうが言いたくて。そんなダモンの手、ティアンは取った。片手には花がある。両手を塞がれるのを嫌うかと思った。 「恥ずかしいけれど……楽しいな、ティアン」 もう闇の手はない。不意に襲われることもない。腕輪の手を塞がれても大丈夫。何よりティアンがここにいる。 「言われると妙に恥ずかしいんだけどな」 肩をすくめつつティアンも歩く。二人の背後、女神湖がまだ午後の陽に輝いていた。二人同時に振り返り、その輝きに目を留める。まるで祝福だ、そんなことを思う。照れて笑う二人の背中で咲き乱れるエレオスの花が、大いなる恵みの花が風に揺れていた。 |