夢のあとさき

 気持ちの良い風が吹いていた。タウザントの森を、カレンが教えてくれた方へと二人は歩いている。次第に商店は消え、完全に森の風情。
「あの日の森みたいだな」
 ティアンが笑う。少し肩の力が抜けた、自分でそんな気がする。それが不思議で、切っ掛けがなんであったのかがわからない。それもまたよし、そんな風にも思う自分がまた不思議で。
「こちらの森のほうが明るいな」
「そう……か?」
「モルナリアの森に比べると、こっちはかなり北で……かなり植生が違うのにな。面白いと思うよ」
「すごいな」
「うん?」
「俺には木は木。区別がつかないんだよ」
 明るさすらよくわからない。森の暗さだ、と思うだけ。頭上が開けていない、その明るさだけはわかるが、どこが違うかはさっぱりだ。
「さすが調香師?」
 言えばダモンが笑う。普通の調香師は精油から作るなどしないものだと言って。ティアンは思わず言葉に詰まった。ダモンが精油から手掛ける理由に思い当たってしまったせい。
「――理由はあるけど、僕はその作業が嫌いではなかったよ」
 毒を精製するために。違和感なく混入するために。必要に迫られて行っていた作業。それでもダモンは好きだったと思う。精油を作る、という工程そのものは楽しかった。
「そっか」
 ティアンはただそれだけを答えた。いまはまだ、何を言っていいのかわからない。よけいなことを口走るくらいならば黙っていた方がまだしもだろう。
 そう彼が感じているのがダモンには充分に伝わっている。だから、本当にそれで充分だった。その二人の前、ふわふわと蝶が飛んでいた。まるで二人を案内するように。否、正に案内をする蝶が。
「綺麗だよな。忌々しいけど」
 ぼそりと言えば蝶は動きを止め、くるりと反転してはティアンの頭に止まる。そのまましばし。何をするわけでもない蝶ではあったけれど、そのぶん非常に責められている気分になるティアンだった。
「……わかった! わかったから! 俺が悪かった!」
 観念して怒鳴れば蝶は満足そうに羽ばたいてはまた二人の前を飛んで行く。こらえきれなかったダモンが大きく笑った。
「さすがニトロの蝶だな」
 湖まで案内を付ける。そう言ってニトロが作ってくれた蝶だった。現実にはあり得ない、透明な水色の蝶。羽ばたくたびに羽が震えるところを見れば、本当に水が張られているらしい。
「あの顔でこういうもんを作るのがまず信じがたいんだよ」
「ニトロ、顔は綺麗だと思うよ?」
「……そうか?」
「性格が悪いだけだよ、ニトロは。本人に直す気がない辺りが最悪だな」
 ダモンの放言にティアンは呆気にとられる。それがおかしかったのかダモンがくつくつと笑った。ようやく首を振り、正気に返ったティアンは苦笑していた。
「お前がそういうこと言うとは、ちょっと思ってなかったんだ」
「ニトロは気が楽なんだ。僕の最低な部分をもう知られている。今更隠すことはない。そう思うと、な」
「――俺は」
「まだ、ちょっとな」
「いや、うん。だよな!」
 妙に威勢よく言って笑ってうなずくティアンの腕、ダモンは軽くつねる。驚いたティアンの丸くなった目。ダモンは反対に目を細めていた。
「君には、色々と。知ってほしいような、知られたくないような。なんとも言えないこんな気分を、なんて言うんだろうな?」
 自分の知らなかった世界の人はなんと呼ぶのだろう。ダモンの問いにティアンは答えられない。見当がついてしまったからには、なにも言えなくなる。ひたすらに頬に上がった血が熱い。
「な、なんて言うんだろうな!? あ、あれなんだ? 水車だな、水車!」
「あのな、ティアン。僕も水車くらいは見ればわかるぞ?」
 さすがに常識が違っただけで、他の日常生活は特に変わったこともなかったオスクリタの集落だ。野菜の代わりに毒草を育てていた、出稼ぎの代わりに暗殺をしていた。そう思えば内心で顔を顰めるダモンだ。
「いや、まぁ。それはそうなんだろうが。それにしてもでかいな」
 行く先の湖から流れ出ているのだろう川にかかる水車。大きなそれが何台も並んでいる様は壮観の一言。ゆったりとした動き、軋む音。水車小屋では仕事中なのだろう、製粉の音が響いている。
「お。こんちは」
 川向うの水車小屋から休憩だろうか。男が出てきた。二人の姿を認めては気軽に手を振ってくれた。それに手を振り返すティアン。微笑み返すダモン。
「意外、だな」
「そう、なのか……?」
「あぁ。水車小屋の番人ってのは愛想が悪いって相場が決まってるもんだし。あれかな。製粉してやってんだぞ、みたいなもんかな」
「ん……よく、わからない」
 正直に言えばティアンにもわからない。元は剣闘士、その後は流れの剣士。水車小屋の世話になったことなど一度もない。が、話には聞いていたから、伝聞だ、と言いつつ話してやった。
「そうか、そういうものなのか。なら、やっぱりイーサウは、いいところなんだな」
「たぶん。こういうところに、良し悪しが出るんだろうな」
「ほら、君のほうが色々知ってる」
「そうでもないと思うけどなぁ」
 ぽりぽりと頭をかくティアン。自分も変わりつつあるのだろうとダモンは思う。が、彼もまた少しずつ変わっている。いままでそんなくつろいだ仕種を見た記憶がダモンにはなかった。
 水車小屋を越え、蝶はまだ先へ、まだ先へと。少しずつ森は深くなり、そして視界は一度に晴れた。二人の足がぴたりと止まる。蝶が消えたのにも気づかなかった。
「……すごいな、これは」
 湖だった。満々と水をたたえた、見事な湖。夏の光を照り返し、青に銀にと輝く。これを作った、と言うのか。
「とても、人が作ったとは、思えないよな……。それが魔術師であっても」
「どうやって作ったんだろうな、これは。本当に……綺麗だ」
 カレンの師であるエリナードがこれを作ったのだ、と言う。イーサウの感慨用水として今後百年を見越して作ったと。その時間がまず驚きだった。規模が驚きだった。魔術師とは、そういう生き物なのかと、この湖を見ているとわかる気がした。
「ティアン?」
 隣の彼が呆然とした気がした。これをニトロは黙っていたのだな、と思えば心遣いに感謝すべきか悪戯に苦笑すべきか。ダモンは迷う。いずれニトロの心であることは確かだった。
「これ……この、花……」
「覚えてたのか、君は?」
「忘、れる……わけ、ないだろ!」
 湖の周囲に爛漫と咲くはエレオスの花。青紫に白にと涼やかな花が咲き乱れ。あの日の森で摘んだ花々が。
「君が、とても気に入っていて、僕は温室にも一枝、飾っていたんだ」
 覚えている、ティアンはうなずいていた。そして君のために、とはっきり言ってもらえたことがこんなにも嬉しいものだとは思わなかった。自分のためだろうとは思っていた。けれど。
「でも、君は忘れていないか? いや、知らなかったのかな。エレオスの花からは、あの日の君を錯乱させた毒が精製できる。――僕はあの日、そのために採集しに行ったんだから」
「でも綺麗だしな。楽しかったのは間違いないし」
「それで、いいのか?」
 真っ直ぐとティアンを見たダモン。見つめ返したティアン。うなずくわけでも、言葉があるわけでもなかった。ただ、眼差しを交わした。ふ、とダモンの目許がほころぶ。
「魔術師たちも、大胆だよな。知らないわけはないだろうに。こんなに咲かせたら、危なくないのかな。――いや、その! なんて言うか、だから! 子供がうっかり食っちまったりとか、そういう!?」
 慌てるティアンにくつりと笑うダモンだった。が、ティアンはだからこそなのか彼の真意を感じる。魔術師たちはこれを悪用しない、悪用させない。美しいから咲かせているだけと、ダモンがそれを信じていることを。
「違うよ、ティアン」
「うん?」
「魔術師たちは……綺麗だから咲かせてるんじゃない。それも、あるのかもしれないけど。これはきっと……祈り、かな」
 魔術師と言ってもニトロやカレンを見ていると祈りほど似合わないものはないとティアンは思ってしまう。彼らは自らを誇り、誰に頼ることもなく歩いて行く、そんな気がするせいかもしれない。
「この花。これの、模様だろう?」
 暗殺稼業を廃業しても習性は抜けないのか、自衛のためなのかダモンは腕輪を外そうとはしなかった。ティアンも日常的に帯剣しているのだから人のことは言えないと気にしていない。が、その腕輪を作ったのが誰かだけは、気にしている。
「あぁ、まぁ」
「もしかしてティアン、妬いていたりするのか?」
「いや……別に」
「妬かれるのは、嬉しいものだなと思っていたのに。違うのか。残念だ」
「ダモン!?」
 冗談なのか、からかわれているのか、判然としなかった。が、ダモンが笑っている。ティアンは知らず口許が緩んで仕方なかった。
「この模様な、ニトロがわざわざ彫ってくれたんだ。僕が……エレオスの花がいいと言ったから」
「そっか……」
「あの時の僕にとってエレオスは、罪の象徴だった。君を陥れた、その」
 ティアンは言葉もなくダモンの腕を掴む。痛いだろうに、離せなかった。ダモンも離せとは言わなかった。ゆっくりと力を緩め、ティアンは腕輪へと手をずらす。ティアンの手の熱に腕輪が温まる。
「それなのにな、ニトロはそうかって、何も聞かずに彫ってくれた。彫ったあとになって、魔術師はこの花を大いなる恵みの象徴って言うんだと、教えてくれたんだ」
 今にも泣きそうなダモンだった。思い出すだけで名付けようもない感情にさらされるのだろう。ティアンにもそれが何と呼ぶべき感情なのかは、わからない。ただ、嫉妬は覚えなかった 。ニトロに率直に感謝すら感じた。
「だから、魔術師たちはここにエレオスを植えたんだと、僕は思うよ」
 イーサウに恵みがあるように。水害がなく、豊かな水に守られて発展していくように。きっと彼らはそのようなことを口にはしないだろう。あるいは祈りとはそういうものなのかもしれない。
「お前にも、恵みはあったのかな」
「あったよ。君がいまここにいてくれる」
 即答されてしまっては言葉がないティアンだった。もごもごと困る彼にダモンは晴れやかに笑う。いまならば、なにもかもがうまく行く、そんな気がした。




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