夢のあとさき

「甘えついでに、もう一つ、甘えてもいいでしょうか」
 ふと顔を上げたダモンの口調とは裏腹な真摯な声。カレンは気にすることはない、と豪快に笑っていた。それに意を強くしてダモンは言う。
「オスクリタの地下神殿にあった書籍を、読んでいただけないでしょうか」
「うん?」
「――あそこには、スキエント様を信じてきた我々の歴史が詰まっています」
 たとえそれが歪んだものであったとしても、はじめから歪んでいたとはダモンには思えなかった。スキエントを信じた人たちがいる。はじめのその人たちはきっと純真な思いで彼を信じた。
「もしスキエント様が狂った人殺しなら、そんな人たちがいたとは、僕には思えなくて」
 ティアンはそう言うダモンが不安だった。まだ、信じたいのかもしれない、彼は。ティアンははじめから狂っている集団がまったくないとは思えない。娯楽のために戦わされていた自分。あれははじめからどこかがやはりおかしかったのだと思う。
「望む結果が出るとは、限らないぜ?」
 ニトロまでそんなことを言った。が、ティアンは癇に障るより安堵する。自分一人ではなかったと。そんな自分に腹が立ちはするのだけれど。気づいたニトロが小さく笑った。
「それでもかまわない。――あれは、歪んでしまった結果も含めて、僕らの歴史。誰かに、知っていてほしいとも思うんだ」
 信じているわけではない、とダモンは言った。スキエントへの信頼はすでに失せた。ティアンを殺せと賢者が命じたときから、すべての世界は覆った。
「まぁな、お前ら側から視た歴史ってのは史料価値がある。その点では私も調査したいとは思ってたからな。そっちから言ってくれて助かったぜ。――いいぜ、承けた」
「ありがとうございます」
 カレンの短い言葉。歴史の価値を認めてくれた。人殺しの歴史になど何の意味もない。ダモンもちらりとは思う。けれど、やはり思いたい。はじめの誰かは正しかったのだと。
「いつ、歪んでしまったのかはきっとわかりません。なぜ歪んでしまったのかも、たぶんわからない。それでも――」
「知ることに、調べることに、意味はあるからな。調査結果はすぐには出ないぜ? 気長に待っててくれ」
 学院の魔術師で興味を持っている者がすでにいる、とカレンは言った。ダモンの許可を待つつもりだったとも。それに目を瞬くダモンだった。
「私らは傍若無人で鳴らしてるけどな、一応、通せる時には筋は通すぜ」
「通せる時にはってのが問題だけどな」
「なんか言ったか、馬鹿弟子」
「いーえ、なんにも」
 そらとぼけるニトロがこの場の空気を明るくしてくれた、ダモンはそっと微笑む。ティアンがそれを見ては少し嫌な顔をするのも楽しい。
「狂ったって言うけどな、ダモン。まぁ、信仰って言っていいだろうが、信仰そのものを否定するもんじゃないぜ」
「カレン師、それは聞き捨てならない。闇の手が、ダモンがどれほど――」
「ティアンの気持ちもまぁ、わからなくはないんだが。歪んじまったのが問題であって、信じる気持ちってのは馬鹿にしたもんでもない」
「あなたには信仰があるのか」
 切り込むようなティアンの口調にダモンが驚いた顔をした。それだけダモンが苦しめられた、ティアンはそう思っているのだろう。それが新鮮で、案じられるのが快い。それもまた、知らなかった世界の面。ダモンはうつむいて笑みをこらえる。
「信仰はねぇな」
「だったら!」
「でもな、ダモンがスキエントを崇めたみたいな信念はあるぜ」
 ティアンに睨まれているのなどカレンは気にした様子もない。それが彼は気に障っていることだろうとニトロは思う。けれどカレンがそうしているからこそ、ティアンはそれ以上激昂しないで済んでいる。いつかそれに気づくかな、と多少意地の悪い思いで彼らを眺めていた。
「人は幸せになるべきだ」
 そんな気分のニトロを撃ち抜くような言葉だったとは、常人たちは気づかない。そんなことが信念か、と言わんばかりのティアンの顔。不思議そうなダモン。カレンは気にもせずに続ける。
「単純で、力強い言葉だろう? 大師匠の言葉さ。なぁ、ニトロ?」
 横目で弟子を見やったカレン。苦い顔をしたニトロが肩をすくめる。ふとティアンはニトロに年若さを感じた。常に癇に障る言動を繰り返すこの魔術師もまた、若いのだと。
「俺は俺なりに幸福ですよ」
「まだぬるいっつの。いつまでびくついてんだかな」
 ふふん、とカレンが鼻で笑った。ダモンは気づく。ネイトのことだった。幼少時代の友を彼は闇の手によって失くした。はじめての友だった、とニトロは言っていた。以来、友人と言えるような人間を作ってこなかったニトロ。
 淡泊だから、と彼は笑う。人間関係を構築するより魔道に邁進したいだけと彼は言う。ダモンはだから自分は例外なのだと思う。ネイトと重ねているわけではない、ニトロは断言した。それでも同じ境遇だったから、彼の琴線に触れたことは確かだと。
 ただの偶然。それでも今この場所に、自分はいた。偶然モルナリアで出会い、ここまで来た。助けられてばかりの自分。ニトロのそれでも少しは役に立ったのだろうか。ネイトを失った痛手から立ち上がる切っ掛けくらいには、なったのだろうか。
「ニトロ」
「なんだよ?」
「僕は、君に助けられてばかりだ。君に友と呼んでもらえることがいまはただ嬉しい」
「そういうこと言うとな、そっちでティアンがヤな顔するからな?」
 からかうニトロにティアンはそのとおりの顔をする。が、ダモンは笑みを刻んだまま真剣な眼差し。
「いつか、君の友である自分が誇らしい、そう言えるようになりたいんだ」
「――おい」
「これからも、僕の友でいてくれないか。僕は、君の友でありたい」
 ニトロは無言でそっぽを向いた。にやにやとするカレンがダモンに思わせぶりに片目をつぶる。思わず吹き出したのはティアン。即座にびしょ濡れになった。
「ニトロ!」
「うるせぇよ!?」
「俺に八つ当たりするんじゃねぇわ!」
「ダチだったらそれくらい甘受しろ!」
「あ――」
 ぽかん、と出てしまったダモンの声。ぬかったとばかりニトロが顔を顰める。すでにカレンは腹を抱えて笑っていた。
「ダモン?」
 一人わからないのはティアン。ダモンも教えるつもりはなかった。なんとなく、いまはまだ。どちらの魔術師がしたことなのだろう、ティアンが見る見る乾いて行く。
「楽しいな、色々と」
 こうして魔法を見ることも。友達と言葉を交わすことも。知ること、進むこと。すべてが。何より隣にティアンがいた。
「あぁ、そうだ。忘れる前に言っとくことがあったな。――両伯爵家と話はついたぜ」
「はい?」
 顰め面のティアンの頓狂な声。ついでで話すようなことではない、と思ったのだろう。同感のニトロだったが、失言の動揺にいまだどこかを向いたまま。そんな友を笑い、ダモンはカレンに視線を戻す。
「それは、どういう?」
「そのまんま。ちょっとした伝手があってな。お前から預かった契約書があっただろ。あれ持って伝手んとこに顔出してな」
 そちらから話を通してもらった、とカレンは言った。常人たちは知らないことながら、ニトロは知っている。カレンはタングラス侯爵家と伝手がある。以前かかわった男の縁でできた伝手で、あちらとしては苦々しいことだろうとニトロは思うが、かといってカレンとの糸を切るほど向こうも決断はできないのだろう。その伝手を使っての決着だった。
「上からがんとやってもらったからな。お前らは安全だ。もう狙われることもないだろうよ」
「当分は俺らが気をつけてるけどな」
「君、が……?」
「俺ら。俺とか、デニスとか。マーテルとか」
「エイメも気にしとくって言ってたぜ」
 ダモンとティアン、顔を見合わせて絶句する。とんでもないことをさらりと言われ、しかもまだまだたくさんの人に守られている現実。感謝が浮かぶまでしばし。途轍もない思いばかりが揺蕩った。
「人はな、お前ら人間や神人の子ら、私ら魔術師すべて含めて人はな、一人で生きて行くのは中々に難しい」
「できないことは頼っていいんだと俺は思うぜ? だいたい今の師匠の言葉だってな、受け売りだからな」
「まぁな。いまのはうちの師匠が大師匠の連れ合いに言われた言葉だそうだ。こうやってな、よくわかんねぇところでごちゃごちゃ繋がってくのが社会ってもんだ」
 確かに人間関係を把握しきれないほど。混乱するティアンだったけれど、ダモンは迷わない。元が誰の言葉であろうとも、いま告げてくれたのはカレン。
「色々、知っていこうと思います」
「あんまり気張るんじゃないぜ? そこにいるのを一番に頼ればいいんだ。なぁ、ティアンよ」
「あんまり頼り甲斐があるとは、我ながら思えませんけどね」
「そう言ったもんでもねぇよ。これも師匠の言だがな。連れ合いのぬくもりってのはいいもんらしいぜ? 私にはいまだわからん境地だがな」
 肩をすくめたカレンをにやにやとニトロが笑う。視界の端にでも映っていたのか、物も言わずに今度はニトロがびしょ濡れ。避けられなかったと舌打ちする彼を二人が笑う。
「あぁ、そうだ。エイメで思い出したぜ」
「つか師匠。思い出すことあり過ぎだろ!?」
「しょうがねぇだろうが。忙しいんだっつの。――で、だ。ここからもうちょっと北に行くとな、うちの師匠が作った湖がある」
「はい?」
 湖とは作れるものなのか。呆気にとられる二人に魔術師たちはにやにや顔。もっとも、内容は違ったらしいが。
「こないだエイメと行ってきたんだがな。ものすごいいい眺めだわ。この時期は恋人同士の絶好の散歩場所だそうでな」
「それをエイメさんと一緒ってのがまずどうかしてるっつの。それで彼女じゃないって言い張るのがおかしいっつの」
「女友達と行っちゃいけないって法はねぇだろうが!?」
 ニトロに向かって怒鳴ってからカレンはばつが悪そうに咳払いをした。それに吹き出したのはティアン。ダモンはすでに笑っていた。
「眺めにでも行ってきな。ダモンの新しい香油の案になるかもしれねぇし。決着ついたんだ、気持ちの整理もしてくるといい」
 そちらが本音だろう、カレンの言葉。香油の案、という言い訳までくれダモンは頭を下げる。どぎまぎとするティアンをニトロが笑っていた。




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