夢のあとさき

 梁に巻きついた銀糸は瞬時にほどけ、くぐるのみ。そのまま過たず賢者の首へと絡みつく。ダモンは見もしなかった。手応え。梁を通した銀糸を引く。体重をかけ、そのまま力ずく。
「ぐ……ぎ、さま……!」
 賢者の足が床を離れた。ダモンの体では吊り上げるまではいかない。それでも握った銀糸は離さない。手が切れ落ちてもかまわないと思った。ぎりぎりと引き続ければ賢者のうめき声。
 そのダモンの無防備な背中を狙う学士の暗器。慌てているのだろう取り乱した手筋はティアンの敵ではなかった。一呼吸で二三人を切り飛ばす。あとはニトロが片付けた。
 血の臭い、倒れる重い音。ダモンは気に留めてもいなかった。ひたすらに賢者の喉を締め続ける。不意に重みが変わったのを感じた。ゆっくりと銀糸を離す。馬鹿みたいに当たり前の音がした。死体が落ちて、床に横たわる。その頃には数多いた学士もすべてが倒れ伏していた。幸い半数程度は息があるらしい。
「――ダモン」
 髪の色が変わるほど返り血を浴びたティアンだった。酷い有様なのに、普通の人間に見えた。自分もきっと血こそ浴びていないものの酷い顔をしているのだろう。それでもダモンはそっと微笑む。
「無理するな。強張ってる」
 ティアンの指先が頬をつつく。ぷん、と鼻を突く血の臭い。思わず顔を顰めたダモンにティアンは慌てていた。
「違う。血の臭いがどうのじゃないんだ。――学士の血は薬臭い。それが嫌なんだ」
 言いつつ自分もだな、とダモンは思う。様々な毒の耐性を身につけるため、幼少のころから毒に体を慣らしてある。おかげで学士の血は妙に薬臭い。ティアンの血の匂いを甘い、と感じたのはこのせいだったのかと今更ながらダモンは小さく笑った。
「お客だぜ? どうするよ」
 地下の騒ぎが地上に伝わったのだろう。どたどたと音がする。途中で驚愕の声が上がるのは廊下に倒れる人間を見るせいか。
「ニトロ。何をしたんだ?」
「ん? 寝かした。それだけ」
「効果的ではあるよな」
 ティアンが思わず、といった調子で同意してしまったのをダモンが笑う。ニトロは思い切り顔を顰めて嫌がっていた。
 もうすぐ、仲間とはもう思えない闇の手の人間がここになだれ込むだろう。ニトロに頼めば、そして自分とティアンがいれば脱出自体は容易い。けれどそれでは何も変わらない。
 ダモンは思う。自分たちの安全だけを確保するのならばそれでいい。そして十年後、また新たな「ダモン」や「ネイト」が生まれる。それを見過ごすことができるのならば。ダモンの眼差しが死んだ賢者に注がれる。何を考えているのかと不安そうなティアン。ニトロが無言で彼を止めていた。それを横目にダモンはうなずく。決心した。まるで時を計ったかのようだった。音も高らかに開かれる扉。なだれ込んでくる多くの人影。息を飲み、立ち尽くす低位の学士たち、導師たち。
「これは――!」
 惨状だった。賢者の書斎はオスクリタの集落はじまって以来の血の海に沈んでいる。その中心にだらしなく転がるのは賢者その人。
「僕が、新たなる賢者です」
 ティアンはダモンが何を言い出したのかと驚愕する。咄嗟にそれを飲み込めたのは厳しいニトロの目のせい。見守れ、命ぜられた気がして不快だ。そのおかげでダモンに反応しないで済んだようなもの。
「賢者殿より、新たに賢者の座につくようにと。従いますか」
 ティアンはニトロへの不快感が泡のように消えて行くのを感じている。気持ち悪かった。背筋を百万の蛭が這い回っていたらこんな気分かとも思う。賢者を殺されたはずの闇の手の者たちは揃って血の中に膝をつく。
「賢者様の仰せのままに」
 これで、決別だった。ダモンにとっても大きな賭け。自分はそうだった。が、彼らもそうであるのかどうか。賢者への絶対忠誠。賢者は疑うものこそ導師となる、そう言っていたけれど賢者に対するそれだけは含まれていないとダモンは感じていた。
「……盲信だな」
 小声で呟いたニトロを見もせずダモンはうなずく。こんな歪んだ人生を歩いていたのか。さっぱりとした気分ではある。それでも索漠としたもの。黙ってティアンが手に触れた。ただ、それだけ。ふ、とダモンに息が通う。
「その者どもはいかにいたしましょうか」
 賢者に反逆したから粛清されたのだろうと疑いもしない彼ら。ダモンは気分の悪さをこらえきる。
「こちらでします。――外の広場にすべての人を集めてください」
「賢者様の仰せの通りに」
 なだれ込んできたはずの彼らは一人残らず「賢者」のご用を果たそうと駆け戻っていく。ダモンの視線はそれを追わない。何を見ているでもない。
「なんだあれ。気持ち悪ぃの!」
 ニトロの涼しい声だった。何ものをも流し清める水のような声。いつもとは少し違うな、ダモンはそっと微笑む。
「励ましてくれているのかな? 大丈夫だ、僕は。さすがに、あの中にいたのかと思うと……色々思うところはある。そういうこと」
 肩をすくめたダモンにティアンは寄り添う。言葉がないから、ここにいる。態度で示すティアンがいま、こんなにもありがたい。微笑みを向けた先でティアンがそっぽを向いた。
「ニトロ。できれば上の人たちを無力化してほしいんだけど。どれくらいかかるかな」
「時間? 手間?」
「どっちも」
「んー。十数える間、くらい、かな?」
「はい?」
「俺の腕だったら村一つくらいは行ける。さすがに地域一帯とかは無理だぞ?」
 真顔で言われてしまってダモンはうなずく。あとからたぶん冗談だったのだろうと思った。中々疑わしいけれど。
「廊下の連中と一緒でいいだろ。寝かすんだったらそのくらいだ。どうよ?」
「わかった。それで頼む。いいかな?」
「今更だぜ。使えよ」
 にやりと笑われた。友人だからこそ頼っていい、この腕を使え、そう言われるのはどうしてこれほど温かいのだろう。そのニトロが吹き出す。
「ダモン。俺はいいけどな。あんまり俺ばっかり頼るとティアンが嫌な顔するぜ?」
「してねぇよ!?」
「してたしてた。ま、ここは俺に任すんだな。あんたが無力化って言ったらばっさりやるしかねぇだろ?」
 それは正しくそのとおり。剣の使い手に無力化を依頼すれば他に方法などない。むつりとするティアンをダモンは微笑んで見つめる。
「君は、僕の戦いを見た」
「俺にはできない繊細な方法だな、と思ったぜ? 俺だったら手を切るのがせいぜい……いや、切るとこまで行けないな、たぶん」
「君ってやつは……」
 まじまじといまだ伸ばしたままの銀糸をティアンは見ていた。一度ダモンを窺ってから軽く銀糸に触れる。触れた刹那、指先に金属の冷たさを感じたような気がした。触れていてさえ定かには見えない。これで男一人を吊り上げたとはとても思えない細い糸。切るなどまして。
 真剣なティアンにダモンはそっとうつむいた。歓喜、と言うのだろう。きっとこの感情は。血塗れのティアンがこんなにも愛しい。ぽん、と音がした。見やればにやにやするニトロ。
「いちゃつくのは後な? 上で待ってんだろうが」
「そんなこと俺はしてない!」
「……僕はしてた気がするな」
「ダモン!?」
 ティアンの慌てふためいた声を耳にダモンは笑い声を上げる。生まれてはじめてあげるような晴れやかな声。こんな場所で。けれどここだからこそ。手首の一ひねりで銀糸を腕輪の中に戻した。
「ほれ、ティアン」
 なんだ、と振り返ったときには頭からずぶ濡れだった。呆気にとられているうちに水気は引いて行く。血を洗い流してくれたのだ、とは思ったものの到底感謝する気にはなれないティアンをダモンが笑った。そんな二人をニトロは何事もなかったかのよう促す。
「これ、どうする?」
 書斎を出る間際ニトロが振り返る。視線の先には賢者の死体。息のあった学士はニトロが魔法をかけたのだろう、滑るように三人の後をついて来ている。非常に気味の悪い光景ではある。
「誰も入れないようにしておいてもらえるかな。死体をどうこうするつもりはないんだけど」
 万が一ダモンに従わないものがいたならば賢者の死体が新たな偶像になりかねない。あるいは、とダモンは思う。そうしてスキエントは偶像になっていったのかもしれないと。
「真実など、闇の中だな」
 首を振りつつ歩きだし、ダモンはもう振り返らない。傷の痛みにか苦痛の声を漏らす学士たち。ニトロが顔を顰めていた。
「――治癒呪文がありゃいいんだけどな。鍵語魔法に治癒はねぇんだよ」
「意外と君は優しいことを言うんだな」
「耳障りってだけ」
 肩をすくめたニトロを冷やかにティアンが見やる。本心がどちらかティアンにもわかる。そっけない態度を取るこの魔術師が癇に障ったり頼もしかったり。ふと思う。これが、友人なのかもしれないと。
 ずっとダモンを友と思っていた。はじめから、違った。ダモンに寄せた思いは友情ではなかった。いまだかつて友人と呼べる相手を持ったことのないティアンだからこそ、区別がつかなかった。心を寄せたのは、友情なのだとばかり。
 そんな自分を小さく苦笑する。ダモンのすべてを受け入れたい。彼が歩んできた人生の汚れた部分を丸ごと全部。それがダモンだと言い切りたい。ならばニトロは、友人とは、苛立ったり親和したり。そういうものなのかもしれない。
「結構いろいろ俺も知らねぇな」
「知ってたつもりだったのかよ? 傲慢な野郎もいたもんだ」
「お前に言われたくないっての!」
「俺は自分が無知だってのは知ってるぜ?」
 ふふん、と笑うニトロをティアンは戯れに殴りつける。甘受するか、それとも反撃するか。唇をつり上げたニトロは想像通り反撃をした。
「何をやってるんだ、君たちは。子供みたいだぞ!」
 言いつつダモンは笑う。自分も、ティアンも知らない。こんな子供時代を過ごしてはいない。ニトロは経験があるかもしれない。その学院時代に。
「子供ってのは楽しいもんだぜ? 早く大人になってやる、いつか師匠をぶん殴る!って思ってるのはほんっとに楽しいわ」
「……楽しさが間違っているだろう、君のそれは」
「ガキってのはそんなもんだろ。――いまからだって、別にやりゃいいんじゃね?」
 見抜かれていた。ダモンは驚きはしなかった。ニトロならば。そう思っていたせい。案の定、自分の表情にティアンが少しばかり拗ねた顔。
「僕は、楽しむのが下手なんだと思っていたよ」
 日々の勤め、契約。いずれも本気で楽しめたことは一度もない。仲間の中には嬉々として契約に出かけて行くものもいたというのに。
「楽しめない環境だった、そういうことなんだと、俺は、思うんだけど……どうなんだろうな」
 歯切れの悪いティアンの言葉はダモンを慮るがゆえ。あからさまに彼の来た道を否定はしたくない、けれどと迷うティアンの心が真っ直ぐに伝わってくる。
 ゆっくりとティアンと視線を合わせたダモンは何も言わなかった。微笑みもしなかった。しかし伝わった。充分に。




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