ダモンの唇が笑みを刻んだ。賢者と真正面から対峙しながら。少しの緊張もない、とは言えない。先ほどの投げ針を見てもわかる。賢者の技量はおそらく自分を上回る。まして多くの学士が現れていた。じりじりと間を詰めてくるような無表情の群れ。 「なにが、おかしいのですか」 賢者の訝しげな声。不意にダモンは気づく。異変が起きているのだと。賢者にとっての異変は、自分にとってどう作用するのか。考える無駄をダモンはしない。 「いえ。いささか手に余るな、と」 共に訓練に励んだ青年がいた。闇の手の訓練は脱落者を許さない。ここまで生き残ってきた仲間。その感情のない目にダモンは目もくれなかった。 「それはそうでしょう。――導師ダモン、今ならばまだ」 「なので友人に手伝ってもらうことにします」 賢者の言葉を待たずダモンは片手を軽く上げる。小さな笑みが刻まれたままの彼の唇。賢者は何を言っているのかとばかり。こんなところに助勢はない。 「あなたの――」 共に訓練をした仲間などもういない。ダモンは賢者に逆らいし反逆の徒。続くはずだった言葉は宙に消える。 「何――!?」 今この瞬間まで存在しなかった二人の男が立っていた。一方はすでに剣を引き抜き、いつでも学士に切りかかる体勢。もう一方は悠然と佇む。 「よく言った、ダモン」 「友達なんだから、手伝ってくれるだろ?」 「もちろん。ここで噛まないわけがないよな。なぁ、ティアン?」 にやにやとした無手の男だった。ならばその相棒がティアンか。始末するよう申し付けたはずの男が生きてここにいる。 「ダモン! わかっているのですか、あなたは。神聖なるスキエント様の書斎にこのようなものを連れ込むなど」 「僕はここが神聖だとは思えなくなりましたから」 淡々と微笑んだままダモンは告げる。緊張に耐えかねたのだろう学士の一人が技を振るう。きらりとした反射を目が捉えたようティアンは思う。あるいはそれはダモンの銀糸と同じ武器か。ダモンは何気なく手首をひねった。ただ、それだけ。敵の一人が呻いて倒れる。遅れて血が迸った。 「いい腕してんな」 「褒めてるのか、それは?」 「当然だろ?」 笑っていても振り返るだけの余裕はダモンにはない。それでもわざわざ肩をすくめて見せた。賢者が煽られる、そんな期待かもしれない。一瞬の半分ほど賢者は乗った。が、すぐ冷静さを取り戻す。 「そちらは、何者かな?」 まるで口舌で取り込むことが可能、とでも言うよう。さすがにニトロは呆れる。が、油断だけはしなかった。この世は不思議にあふれている。なにが起こってもおかしくはない。 「魔術師だよ」 ふふん、と鼻を鳴らすのはダモン同様半ばは虚勢。ティアンがそれを喉で笑う。が、それ以上に反応したのは賢者だった。 「魔術師! なぜ魔術師が――」 「こう言えばいいかな? 俺は、学院事件のど真ん中にいた当時の学生だ、と」 すう、と賢者が青くなる。年齢を考えれば賢者はあの当時導師としてイーサウに潜入していてもおかしくはない。ニトロの藍色の目が賢者を見据える。 「……ならば、なぜだ。なぜ、ラクルーサの亡命者をイーサウの魔術師は受け入れることができるのだ?」 「なんの話だよ」 「おぉ、哀しいことよ。氷帝フェリクスの悲劇はすでに忘れ去られたか。ラクルーサ人に伴侶を殺され哀しみに狂った偉大なる魔術師を、もうお前は忘れてしまったのか」 両手を広げて嘆く賢者にニトロは冷え冷えとした眼差し。ついでのよう、隙を狙っていたらしい学士に攻撃をすれば上がる血しぶき。ダモンのそれより派手だった。ティアンが血の雨を掻い潜るよう、切りかかってきた敵を切り伏せる。 「あんた、馬鹿か?」 ニトロは賢者にだけは攻撃をしない。周囲の学士が無手の相手と見て攻撃を繰り返す、それをさばいているだけ。その中での表情のない声だった。 「な――!」 愚かなど、言われたことはないのだろう。それも憐れみまでこもっていたのだから、ニトロの声には。賢者の手がわずかに動き、そして自制する。投げ針でも投げたかったのだろう。そしてニトロを取り込む可能性を考えたのだろう。いずれも愚かだ、とニトロは内心で断じていた。 「フェリクス師が憎んだのはラクルーサ人じゃないぜ?」 「知った風な口を利くでない。彼がどれほど――」 「知らないのはあんたの方。フェリクス師が憎んだのはラクルーサ人じゃない。人間、だ。ミルテシアもラクルーサもあるもんか。すべての人間、すべての生きる存在を憎んだんだ」 肩をすくめニトロは口にする。ティアンですらぞっとした。ダモンは、痛ましいと思う。そこまで人が人を憎むことができる、それが本当は恐ろしい。 「あんたもだ。生きてりゃフェリクス師はあんただって殺したさ」 「ならばなぜだ!? かの偉大なる魔術師の悲しみを忘れ果てた愚者どもめ。ラクルーサなどに尻尾を振るとはなんと嘆かわしいことか。おぉ、氷帝よ、照覧あれ。スキエント様よ、この世はここまで腐り果てましたぞ」 「俺たち魔術師は昨日のことをぐだぐだ抜かすより明日どうしたいかを考えたい質でな。それと――」 瞬間、ニトロの手の中に短剣が生まれる。あの、青碧の剣を小振りにしたようなニトロの魔剣。ニトロは手の動きも見せず賢者に放つ。軽い音を立てた短剣は深々と壁に刺さっていた。 「てめぇがフェリクス師の名を口にすんじゃねぇ。不愉快だ」 わずかに振り返った賢者の目。彼が捉えた端から短剣は溶け消えて行く。まるで水に返ったかのように。 「――啖呵を切る、というものかね? そのわりには外れたようだが」 「外れたんじゃない。外したんだ。あんたは、ダモンの獲物だからな。――ダモン、殺れるか」 「もちろんだ。君とティアンは学士を頼む」 「あいよ、任せとけ」 「こっちは好きにやる。お前はお前のしたいことを」 こくりと賢者を見たままダモンはうなずいた。動きを見せず、深い呼吸を。まるで契約を果たす前のよう。務めにかかる直前の静まり返った緊張によく似ていた。 「参ります。お覚悟を」 つ、とダモンが両手を広げた。その間に伸びて行くのは銀糸か。ティアンには見えない。ニトロにもたぶん、見えていない。そのはずなのにニトロは口笛でも吹かんばかりに彼を見ている。 「仕事しろよ、お前!?」 「してるぜ? なぁ、賢者殿。いくらなんでも数が少なかないですかねぇ?」 「お前、ほんと性格悪いのな。何しでかしたよ?」 「なにあんたも気づいてないわけ?」 実に楽しそうにニトロは剣を振った。いつ出現したのかもティアンは気づかなかった。あっさりと切り飛ばされる学士と名乗る暗殺者たち。ティアンはどこにこんな魔術師がいるのだと思ってしまう。だからこそ、モルナリアで疑わなかったわけだが。 「こっちはこの人数だぜ? 殴り込みかけるのに罠の一つや二つ、仕掛けてくるに決まってらぁな?」 舞い踊っていた、ニトロは。ティアンもまた。彼に合わせるよう即興でくり出される剣舞。ダモンはそれを背中に感じている。はじめてだった。仲間がいる。共に戦う人がいる。こんなにも心強い。 「貴様、魔術師――!」 「そう言ってるだろうに。物覚えも悪いのな?」 「愚弄するか!? スキエント様を貶めた者どもと貴様も同じか!?」 「知るか、そんな昔の話。俺がやったわけじゃねぇよっと!」 相手は鍛錬を重ねた暗殺者。ニトロとて余裕は微塵もない。それでもそんな態度を取り続けるのは二人のため。ここにいる、仲間がいる。そう信じてほしい。 ――俺も甘いこと考えるようになったもんだぜ。 カレンが知れば腹を抱えて笑うだろう。すでに見抜かれてはいるのだろうけれど。小さく苦笑しつつニトロは魔剣を振る。切先をよけたはずの学士。呻いて膝をつく。あとには水たまりが残り、学士は飛沫を上げて倒れ伏す。追って水たまりが赤く染まった。 「何した?」 返り血を早ティアンは浴び始めている。ダモンと賢者は睨みあい、間合いを計り続ける。達人の域に達すると、相手の爪先の向き一つで次の攻撃がわかる、とニトロの知り合いの傭兵は言っていた。だからこそなのだろう、二人とも容易に仕掛けられないでいる。 「魔法だよ、魔法」 へらへらと笑うニトロに耐えきれなかったのは若そうな学士。ダモンより幼いかもしれない。ニトロとしてはできる限り殺したくはない。ニトロにとって彼らは敵であると同時に被害者だ。闇の手という教えに染められ、それしか知らずにここまで来た被害者だ。あの日のネイトを思う。 「ほんっとに、気に食わない野郎だわな!」 ティアンもそれを感じていた。だからこそ返り血を浴びるような無様な戦い方になっている。一撃必殺で殺したほうが血などかえって浴びないものだった。 が、ティアンはニトロの無言の要請を容れていた。考えてしたことではない。剣が勝手に動いたようなもの。少しだけ、思う。ニトロが軽薄な態度を取り続けてくれている。この殺伐と血の臭う地下で。剣闘士だったころの記憶が蘇りかけてはニトロの笑い声が聞こえる。 「だから俺は、無様な戦い方をしないでいられる」 ちらりとニトロを見やれば鮮やかに敵を無力化している。いつの間にかダモンの周囲を水の壁が取り巻いていた。ニトロのしたことに違いない。膝までもないような壁だったけれど、賢者とダモンの対峙を誰も邪魔できない。 「なんか言ったか、ティアン?」 「言ってねぇよ!?」 「ふうん? そっかー、なんにも言ってねぇのかー。俺にはなんか聞こえたけどなぁ」 ふふん、楽しげなニトロの笑い声。さすがにここまで来ると頭のねじの締まり具合がおかしいのではないだろうかと疑いたくなってくる。 「貴様は人の命をなんと心得るか。遊びとでも言うか!」 「――それを賢者様が口にしますか?」 ニトロが作ってくれた隙。ダモンは有効に活用し尽す。苛立った賢者がニトロに意識を向けたその一瞬。放った銀糸が賢者の喉に。会心の技だった。 「甘いわ!」 指先に挟んであったのだろう針。それをどう動かしたか賢者は銀糸から逃れる。軽く舌打ちをし、ダモンは再び銀糸を。二度目は通用するかと賢者が唇を歪め、そしてダモンは梁に巻きつけた銀糸でもって舞い上がる。賢者の視線が動いた。 |