廊下の突き当り、大扉があった。ダモンはそれをゆっくりと押し開けて行く。ほんのりと明るくなった。向こう側はここより広いらしいと、滑り込んだダモンに続いて姿を消した二人も続く。 ニトロは息を飲んでいた。ティアンはこんなにも広い場所があったことに驚いているらしい。村の地下すべてがこの神殿だ、と言われたならば信じるだろう。 けれどニトロはそれよりなお驚愕すべきものを目にしていた。まるでリィ・サイファの塔だ、と思う。何度かカレンに連れて行ってもらった魔術師の塔。ダモンを連れて逃げ込んだ塔。あの書庫に一度でいいから滞在してみたい。見わたす限り本また本。霞がかかるほど遠くまで本が続くあの書庫に。さすがにそこまでではなかったけれど、村の神殿にあるような蔵書量ではない。壁に据え付けられた書架は天井まで届き、一杯に本が詰まっている。 その書架と書架の間、連作なのだろう絵画が飾られていた。神話、というところなのかもしれない。なだらかな丘があった。夜の中、ひっそりと丘は佇み、平たい屋根を持つ小さな建物がいくつも小ぢんまりと建っている。その屋根の上に人影。天を指し、語り合う姿がはっきりと描かれている。星でも見ているのかもしれない。 ダモンはそんな書架と絵画の間を進んでいく。正面に二つ、人影があった。机について書き物をしているのか、ここの本でも読んでいるのか。ふと片方が顔を上げた。 「学士ダモン。戻りましたか」 暗殺の実行者のことだろうか、ニトロは首をかしげる。ティアンをちらりと見れば知るかという顔をされた。 「はい」 きっぱりとうなずいたダモン。その表情をどう見るのか、机の上の燭台の明かりを人影は少し強めた。それで初老の男性、と見て取れる。 ひくり、と身を震わせたティアンの横腹を軽く拳で打つ。わかった、とうなずいてきたけれど、実はニトロも同感だった。二つの人影、ではなかった。一方はいまの男。もう一つは、彫像だった。机の上に広げた本に眼差しを落とし、深遠なる問題にでも取り組むように眉根を寄せた男性の像。おそらくはスキエント。いわばここの神像か、とニトロは思う。生き人形のようで気色が悪い。神像としてはずいぶんと趣味の悪い作りだった。 「導師トゥットはいかがしましたか。一緒では?」 「いいえ」 「……おや?」 訝しげな声を上げていても温顔だった。それが嘘くさい、とティアンは思う。ダモンはどうなのだろう。後ろ姿からは窺えなかった。 「賢者様に伺いたいことが、あります」 なるほど、頭は賢者と呼ぶ習わしになっているらしい。ニトロは珍しい信仰、とも言いきれないな、と内心で顔を顰める。 「それは素晴らしい」 しかし賢者はまるで幼子のよう晴れやかに微笑んだ。我が子の成長を見た親、と言えばよいか。ティアンが気持ち悪そうに体を揺らす。 「ついにあなたも疑問を覚える階梯に達しましたか。なんと素晴らしい日か、今日は。トゥットはいずれに?」 「さぁ? 存じません。直接お目にかかっていませんので」 「……ほう?」 はじめて不思議そう、けれど無邪気ではない表情。ダモンはこれが賢者の本性なのか、とぞくりとしていた。よもや賢者に出くわすとは正直なところ思ってはいなかった。導師の一人にでも問えればいい、そんな風に思っていたものを。だがこれはあるいは僥倖。ダモンは口許を引き締める。 「伺いたいことはいくつかあるように思います」 「いかなることもお答えしましょう。問うというのは人に許された最も尊い行為ですから」 「モルナリア伯爵家に雇用されていた剣士ティアン、ご存じでしょうか」 「もちろんです」 「ティアンを粛清するよう、お命じになったのは賢者様ですか」 「えぇ、そのとおりです」 「なぜです?」 微笑んだまま問いに答える賢者にダモンは震えそうだった。聞くはずと思っていたことを答えられて、それでも。すぐ後ろにティアンとニトロがいる。それでなければとても耐え得ない、そう思う。 「トゥットが導いたのではないのが残念ではありますが――あなたは導師の階梯に達している様子。ならばお話ししましょう」 「すべてを」 「もちろん、すべてを」 にこりと微笑んだ賢者の表情。以前だったらなんとかたじけなくありがたい、そう感じたことだろうとダモンは思う。いまは少しも感銘を受けない。カレンの大っぴらな笑い顔、ニトロの皮肉げな笑み。エイメのくすくす笑いや困り顔のまま笑うデニス。何よりティアンがいた。彼らを知って、自分は違う世界に足踏み入れた、そう感じる。 「エッセル伯爵家が、困っておいででした」 当主を殺害され、実行犯はいまだ捕縛もされない。面目は丸つぶれだと嘆いていた。 「ですから、剣士ティアンが実行犯と教えて差し上げました」 「な――」 「モルナリア伯爵家も同様に、困難を抱えておいででした。前伯爵がティアンなるものに命じた証拠が残っているのではないかと、それは戦々恐々と。なにしろラマザ樹脂をティアンなる剣士に求めさせたのは伯爵自身でしたから」 そこで賢者は楽しげに笑った。下界で右往左往する人間を見やる神々はこんな顔をするのかもしれない。ティアンは思い慌てて首を振る。この神殿で崇めているらしい何かと、伝統的な神々は違う。 「両伯爵家から、縋りつかんばかりにして依頼がありました。我々としても都合がよろしい。あなたという素晴らしい学士を失うのは耐えがたい損失です」 「だから、ティアンを殺そうとしたのですか」 「たかが流れの剣士一人、どうと言うこともないではありませんか。あれを消せば両伯爵家から大金が入ります。イーサウで事を起こせば魔術師とて殺せるもの、と人は思います。我らの手は広がることでしょう」 「そんな、馬鹿な。僕は――」 「そしてあなたは戻ってきた。善き日に感謝を」 わずかに首だけ振り向けて、賢者はスキエントらしき神像に目礼を送る。ダモンはぞっとしていた。カレンやニトロが言っていたことが正しいのだと、今にして身に染みた。 「あなたは問いを発した。それは導師に相応しい資質です」 「問うたのではありません。疑問を覚えました」 「なおのこと素晴らしい。あぁ、あなたこそ我らが待ち望んでいたスキエント様の再来かもしれない」 「友人のおかげです。彼らがいたおかげで、僕は闇の手に疑問を持ちました。行為に、教えに、すべてを」 「それは……困りました。本来ならば自力で疑っていただきたかったものを」 本当に困っているかのような顔。ダモンは騙されない、と腹に力を入れる。そんな必要はなかった。いままでどうしてこれを信じてこられたのだろう。そう思うほどすべてが薄っぺらい。 「教えを疑い、そしてこのまま続けて行くことに同意するものが導師となるのですよ、学士ダモン。あなたは導師となるに充分な素質があるのです。さぁ、学士ダモン。我らスキエント様の裔、あなたもこの道に続いて行きましょう」 あとに続いてほしい、賢者は言った。まるでカレンだ、とダモンは思う。彼女も常々言っている。ニトロとデニスに自分の後に続け、そして乗り越えてゆけと。遠くまで、己が到達できなかったその先まで。 けれどこれは違う。賢者が言っているのはたぶん、違う。何がどうとはうまくは言えない。今うなずけば自分は取り込まれるだけで、それが直感的に理解できただけ。 「お断りいたします」 そこまでダモンがきっぱりと拒むとは賢者は思ってもいなかったらしい。驚愕に目が丸くなっている。それすらも作られたもののようでダモンを白々とした気分にさせた。 「ティアンは何一つとして、教えに反することはしていなかった。傲慢でもない、怠惰でもない。着実に歩む剣士だった。それを殺させようとそそのかした闇の手に、僕はどうして従えますか」 「あぁ、学士ダモン。いいえ、導師ダモン。あなたはなんと素晴らしいのか。かつて自力でそこまで達したものがいたか。否、いはしなかった。私とて!」 恥じる賢者が面を伏せ首を振る。顔を上げたとき、そこに浮かぶのは紛れもない歓喜。ダモンは引きそうになる足をこらえ、立ち続ける。 「信じるだけの愚か者など、要らないのですよ、導師ダモン」 「導師ではありません。学士でもない。僕はダモン。ただのダモンです」 「ご謙遜を。あなたこそ私の座に座るべき人。いずれ遠からず賢者とお呼びしましょう。えぇ、そうです。愚者どもに囲まれて、私がどれほど苦慮してきたことか」 「世の中の人々は、あなたが言うほど愚かではない」 「そんなものではありません。学士たちはおろか、導師たちとて……あぁ、なんという愚者か。揃いも揃って我が言葉を信じるばかり。慣例とやらを疑いもせずに信じてスキエント様を悪の権化と恐れた諸人と何ら変わりがありません。あなたは違う」 「そんな……」 賢者は言うのか、仲間たちまで、愚者であると。そんな目で自分たちを見ていたのか、彼は。そんな思いで人殺しを命ぜられてきたのか、自分たちは。愕然とするダモンにきらきらとした眼差しの賢者は近づく。 「あなたこそ――」 自らの側で学べと言うのか、自分の座につけと言うのか。ダモンは聞かない。差し伸べられた手を嫌悪もあらわに振り払った。 その瞬間だった。賢者の表情が一変したのは。ダモンほどの暗殺者が一瞬とはいえ棒立ちになるほどの変化。悪魔の形相とはこんなもののことかもしれない。 「なぜですか、導師ダモン!? なぜあなたは私を拒む! あなたもなのか、あなたもスキエント様を迫害し、怯え逃げ惑う愚者どもと同じなのか!?」 「同じなのでしょう。少なくとも僕はあなたと同じにはなりたくない!」 咄嗟に二足ぶん、飛び退いた。何かを感じたわけではない、ただ、体が動いた。下がってからそれと知るほど唐突に。それが功を奏していた。賢者の手から飛んだ細い針。ダモンはかろうじて避けてから追って背筋が凍るのを覚える。 「あぁ、あなたは投げ針をよける体術すらあるというのに。なんと嘆かわしい。なんと哀しい!」 次々と放たれる必殺の投げ針。かわし続けられているのは奇跡のよう。けれどダモンはちらりとも思わなかった。なぜティアンは飛び込んでくれない、ニトロは助勢してくれないとは。これは自分の戦い。自分の過去との決別だ。 「かくなる上はあなたを粛清してこの悲しみを癒すしかありません。おぉ、スキエント様。この世界はかくも醜悪!」 賢者の手が壁飾りの織物に触れる。それにも神話の一節が織り出され、ダモンは何度も眺めたことを思い出す。遠い日の記憶だった。壁掛けから伸びる飾り紐。賢者が引いた、と思ったときには大きな音がした。廊下から響くそれにダモンは顔を強張らせる。相当な大勢らしい。だが賢者は不意に眉を顰めた。その間にも書架の裏から仲間であった暗殺者たちが現れ出る。誰もが無手。武器を持っていないとは、けれど思うはずもなかった。無言のままダモンも腕輪を武器に変えていた。 |