夢のあとさき

「僕が行く」
 夜闇が訪れいざ出発と言う段になってひと悶着あった。ダモンとしてはここまで来てくれたことで充分、という思いがある。なにより。
「君は気配が消せるか? 夜に紛れて誰にも見咎められずに動くことができるか?」
 できるはずがない。ティアンはそんな生き方はしていない。じっと見つめるダモンの眼差しにティアンは悔しそうに唇を噛む。なにか手段はないかと手さぐりするよう拳が動く。
「なぁ、ティアン。なんであんたはそこで俺を頼らない」
「……なに?」
「そりゃ気に食わねぇ野郎ではあるぜ? 人のダチをどんだけ悩ませたのかっていまだに恨んでるからな、俺は」
「いや、それは!?」
「ニトロ、話を混ぜ返すな。いまはそんなことを――」
「言ってる場合じゃないよな。だったらティアン、俺を頼れ。俺に方法はないか聞けよ。てめぇ魔術師なんだから何とかしろくらい言えねぇのかよ」
「な……。言って、いいのか。というか……考えつかなかった」
 ぽかんとしたティアンの声。魔術師に手段があるのだと考えつかなかったのではなく、友人として頼っていいのだとは、とても。肩をすくめるニトロがそれでも小さく笑う。
「つーことでダモン。気配だなんだは俺が面倒見る。見えねぇし聞こえねぇ。問題ないよな?」
 今更ティアンを拒むな。ニトロに言われた気がした。いまでもまだ、ダモンは怖い。ティアンに自分の素顔とでも言うものを見せてしまうのが、怖い。その頬をニトロが指先でつついては笑う。信じろ、言われた気がした。こくん、とうなずくダモンにティアンがそっぽを向く。それをまたニトロが笑う。
「……君は緊迫感というものを知っているのか、ニトロ」
「知ってるけどな。一々硬くなっててなんか得があるかよ」
「そういう問題、か……?」
 ティアンの疑い深い声。ニトロはにやりとしては片目をつぶる。その肩先、打つようにニトロが触れた。なんだ、とだけティアンは思った。が、ダモンの息を飲む音。
「ダモン?」
「いや、いま……見えた。驚いた。君たちが、見えなくなった」
「なに!?」
「だから面倒見るって言ってんだろうが疑い深いやつらだな、まったく」
 滔々と文句を言いつつ笑うニトロに常人二人は呆れることもできない。魔術師の技の冴え、と言うべきなのだろうけれど相手はニトロ。二人揃って肩をすくめた。
「よし、行こうぜ」
 結局こうなってしまったか。思ったけれど案外いやな気分でもない、とダモンは思う。かえって心強い。そう思う自分が不思議で、少し嬉しい。
「僕は、生きはじめた――」
 呟き声に隣を歩くティアンが訝しげな顔。ダモンの目には見えているけれど、他の誰にも見えない、とニトロは保証した。大丈夫、とうなずけば、見えないとわかっていても緊張するのだろうティアンの険しい表情。それにもまた心和んだ。
 見えていないのはティアンとニトロだった。一応はどうする、とニトロは尋ねたけれどダモンは首を振った。
「僕は普段どおりの方がいい。腕が鈍る」
「だな」
 それだけであっさりとダモンの姿は見えたまま。多少ならずティアンには不満だ。ダモンが危険だと思えばこそ。そんな自分を少しは恥じる。ダモンは戦うことができる。守ってやらねばならない弱者ではない。
 ――たぶん、これからその姿をもっと見ることになる。
 ニトロのよう、いとも簡単に覚悟を決めることができたならば。詮無く思い、小さく微笑む。先行するダモンの影が闇に躍る。
「いるって知らないと、見えねぇな。あれ」
 のんびりと夜の散歩をしているようなニトロだった。時折独り言でも言っているらしいのがまた長閑すぎて泣けてくる。
「早く、追いかけないと。行っちまう」
「そんなに焦るなって」
「焦るだろうが、普通!?」
 言い合いをしながら歩調は変わらない。ニトロに合わさせられている、いつの間にか。忌々しいけれど、舌打ちをしたくなるけれど。たぶんこれが、正解だ。ティアンは思い浮かぶ限りの罵詈雑言を飲み込む。飄々と歩むニトロはまた独り言を言っていた。
 背後にあるはずの気配が驚くほどに掴めない。さすが魔法だ、と感心しつつダモンは進む。いない、とは微塵も考えなかった。ニトロとティアンが自分の背中を守ってくれている、はたと気づいてそっと微笑む。
 ――暗殺者としてはこの上ない贅沢、かな。
 笑みも消えないままにダモンは往く。ふわりと飛びあがり屋根に着地しても音はしない。その場を駆けても気配もしない。ニトロの外套すら、風を含んだ音をさせなかった。
 ダモンが向かっているのはドンカの祠だった。さすがに小さな村だけあって正式な神殿はない。それでもどこの村にもあるよう、ドンカのそれはある。結婚と家庭の守護を司るドンカ神はおそらく大陸中で信仰されている。
 ――でも、違う。
 ダモンはこれでも闇の手のそれなりに高い地位にいた人間だった。だからこそ、追手がかかったり殺されそうになったりしている。だからこそ、下級の暗殺者が知らないことも知っている。
 音もなく舞い降りたダモンはドンカ神の祠に滑り込む。ちょっとばかり大きな物置程度だった、建物は。あるいは立派な納屋の方が大きいくらいの小さな祠。正面には小さいけれど慈愛あふれるドンカの神像。ダモンは無言のまま神像に手をかける。軽く押したとも見えない程度。
「……なにやってるか、わかるか?」
 ダモンに続いて滑り込んできた二人だった。音も気配も遮断していると言ってあるにもかかわらず気になるのだろう、ダモンの集中を乱すのを嫌ったティアンは小声だ。ニトロもまた無言で肩をすくめる。
 そうしているうちにダモンが神像から離れた。おや、とニトロは思う。神像には何ら変化がない。動いてもいない、たぶん。だがダモンはそれでいいらしい。淀みない足取りが右手の壁に。壁には精一杯の心尽くしなのだろうドンカ神に捧げた浮き彫り。ダモンはいくつかの突起を順番に押し込んだ。
「なるほどな」
 ニトロは呟き、ティアンに顎をしゃくって見せる。神像を目に見えない程度動かしたのち、壁に仕掛けられた絡繰りを手順通りに動かす。それで解除される鍵なのだろう。神像の足元、人一人がかろうじてくぐれるだけの穴が開いていた。ダモンは振り返りもせず下りて行く。
「信用されてるな?」
 にやりとしたニトロに当たり前だとティアンは嘯く。だが内心では激しい歓喜に襲われていた。ダモンが信じてくれている。自分が、あるいは自分たちが必ず後ろにいると信じてくれている。
「行くぜ」
 ダモンが下りてすぐに閉まってしまう落とし戸の可能性もある。まるでダモンのようニトロは滑る足取りで落とし戸を下りて行く。ティアンもすぐさま続いた。
 そしてほっとする。よもやと思ったけれど落とし戸はティアンが半ば下りかけている間にも閉まっていく。慌てて着地をすればニトロが手を貸してくれた。ダモンは落とし戸が閉まるのを確かめているのだろう。いまはこちらを向いていた。その目が一瞬だけ二人を捉える。ニトロもティアンもただうなずくだけ。ダモンは応えない。それでいい。誰かに見られていることを考えるべきだった。ティアンも思い至ったか、見えない聞こえないのだとしてもお喋りは慎むべき、と口を閉ざす。もっとも、硬いダモンの背中を追っているいま、ニトロと楽しく会話をする気分にはどうあってもなれそうにない。
 ――元々か。
 モルナリア時代から気に食わない男だった。あの癇に障る態度は今となっては意図的なものと知っている。だが素顔のニトロと気が合うかと言われれば全力で否定する。たぶんニトロも同様だろう。
 ――そのあたりは気が合うのかね。
 他愛ないことを考えながら地下を行く。そうでもしないと緊張がこらえきれそうになかった。地下闘技場での試合の前、こんな気分であったと思い出す。
 ぶるりと首を振ったティアンをニトロは横目で見ている。何かよけいなことでも思い出しているらしいのは見当がつくが、今はできれば集中してほしい。ダモンに危険があれば一番に飛び出して楯となるべきは誰なのか。そんな眼差しを感じたのかティアンが険しい目でうなずいた。
 それでいい、ニトロもうなずく。ティアンは感じていないかもしれない。ダモンはきっと気づいている。辺りに人の気配があった。一人ではない、数人。ニトロとてこれでもいまだ若く未熟な魔術師に違いはない。カレンほどの実戦経験はなかったし、それを上回る才もない。だから相手の数までは、わからない。が、敵意は感じた。知らずにやりと唇がつり上がる。呆れたようなティアンの目。肩をすくめてやり過ごす。
 地下は広かった。あの祠の下にこんな広大な空間があるとは誰が信じるだろう。ゆったりと伸びた廊下は装飾こそ少なかったけれど、ここが地下だとは感じさせないような造りになっている。いくつかあった扉も凝ったもの。
 ――本当の神殿はこっちってことか。
 スキエントなる存在を信仰している、としか言いようがないのだろう。アルハイドに多くある神々のいずれでもない。ニトロはスキエントという名を知ってはいた。禍々しい大陸の破壊者として。
 その名に相応しいのかどうかまでは、ニトロにもわからない。質実剛健と繊細優美を適当に混ぜ合わせて半分に引きちぎってできあがったような装飾、と言うのが表現として的確だとニトロは思う。が、的確なだけで実態を表しているとは断じて言えない。要は奇妙に混乱した装飾が辺りを飾っている。
 ――背筋がぞわぞわしやがるぜ。
 こんなものをずっと崇めていたのならば正常な人間でもおかしくなるのではないだろうか。ダモンは慣れているのか足取りが変わらない。ティアンはと見れば多少顔色がよくない。
「おい」
 軽く脇腹をつつけば黙って首を振る。大丈夫だ、と言っているらしいのだけれど信用ができない。彼の手首を掴んで小声で呟く。ふっとティアンは肩が軽くなった気がした。訝しげにニトロを見やる。
「何をしたんだ」
「なに警戒してんだよ、あんたは嫁入り前の乙女か。――魔法だ魔法」
「ふん、戯言ぬかしやがって。――ありがとよ」
「いいってことよ。行くぜ」
「おう」
 妙に気の合ったやり取りをしてしまって互いに顔を見合わせる。呼吸一つ分立ち止まる。慌ててダモンを追ったとき、二人の口許かすかに緩んでいた。




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