ミルテシアと旧シャルマーク王国を隔てる左腕山脈を背後にすれば海は間近。手を伸ばせば届いてしまうような土地だった。大陸の東沿岸から回り込むように再び山の方へと戻る。すると、ぽっかりとした谷間に出る。そこがオスクリタの村だった。 「ここが――」 ティアンたちは村を見下ろす場所に身を潜めている。まだ陽のあるうちにここについた一行だった。ダモンの指示に従って夕闇を待つ。 どこにでもある村のようだった。領で言うのならば一応はモルナリア領なのだろう。城館のあるリアーノまでは鳥が飛ぶように行けば二日ほど、馬で行くならば五日はかかろうか。山の懐に抱かれたような辺鄙な場所だ。それでも近隣と交流があるのか、村の門を出入りする人影も昼間のうちには多くあった。いまはもうない。 「普通の、村だな……」 もっと禍々しいようなところを想像していたティアンは拍子抜けする。が、逆に気を引き締めもする。ダモンはじっと身をかがめたまま動かない。 「聞いても、いいか?」 最初のうちは声を出すな、と言われていたのだがそこは自分がなんとかするから気にしなくていい、とニトロが言った。魔法なのだろうとは思うものの常人二人には何が起こったのか、そもそもニトロが何かをしたのかもわからない。彼を信じるだけだった。 「僕に答えられることならば、どんなことでも」 真摯な眼差し。あの宝石のような緑の目が瞬くところが見たい、ティアンは思う。いまは緊張か、警戒か、光は薄い。 「誰が、その……結社の人間なのかと思って」 村の中に侵入すると言うべきか襲撃をかけると言うべきか、いまだティアンは迷っているけれど、いずれ正当ではない手段で中に入る。できれば関係のない村人を騒がせたくはない。そんなティアンにうっすらとダモンは微笑んだ。 「全員だ」 短い言葉。ニトロは察していたのだろう、肩をすくめる。まじまじとダモンを見やり、ついで村を見下ろす。信じがたかった。どこにでもある当たり前の村の姿がここにある。 「全員が、結社の者だ。務めに出ない者は確かにいる。彼らは毒草を育てたり、そこから毒を抽出したり。鍛冶屋はこういうものを手掛ける」 そっとダモンが右手を上げる。そこにはニトロの腕輪。ティアンもすでにその中身を見ていた。ここに到着してすぐのこと。 「隠れるよ。ニトロ、馬は――」 「あいよ」 短いやり取りでニトロは了解したのだろう、三人分の手綱を集めたかと思うと、そこに馬はいなかった。改めてあの馬たちは魔法の産物だったのだと思う。少々疲れた、とニトロが笑っていた。 そしてダモンは偵察に出た。二人を安全な場所に残し、ふわりと立つ。それからちらりとニトロを見やっては含羞むよう笑う。ティアンのことはあえて見なかった。たぶん、そうだろうとティアン自身は思っている。怖かったのかもしれない。自らの武器を扱う場面を見られることが。 だからこそ、ティアンは去って行くダモンの後ろ姿を見つめ続けた。右手が動いたかと思う間に、ダモンは飛び立つ。声を上げないでいるのが精一杯だった。体に合わない大きなニトロの外套のせいでまるで禍鳥。 「見えたか?」 「いや……。何が?」 「言っただろ? あれがあいつの使う銀糸。糸鋸の細いやつだ」 それを操りダモンは飛んだ、とニトロは言った。木の枝に巻き付け、飛びあがっては次の枝に。それなのに一度も音は聞こえない。 「たいしたもんだぜ」 感嘆するニトロを素直にすごい、とティアンは思ったものだった。自分にはない技術が何に由来するものなのか、彼には関係ないらしい。優れた技量に素直に拍手を送ることが彼にはできる。 「あんたが戦うところも見てみたいもんだな」 「……物騒な魔術師め」 「よく言われんだ。特にうちの一門は。絶対にフェリクス師のせいなんだけどよ」 肩をすくめたニトロのさりげなさ。戦争を起こした魔術師。それに正当な理由を見る、と彼は言った。魔術師と常人の自分と。あるいは特異な環境にあったダモンと。倫理観に違いはあるのだろうか。あるのだろうとは思う。 「世の中、ままならねぇな」 ふん、とニトロのよう鼻を鳴らしてしまった。それを彼が小さく笑う。肩まで震わせて、笑う。それを見てティアンは思う。倫理観が少々違おうとも、善悪が多少異なろうとも、なんとかうまくやっていけるのならばそれでいいのではないかと。ぼそりとそんなことを言えば意外なものでも見るような目で見られた。 「なんだよ?」 「驚いたんだよ。――ヘタレのくせに、妙なところで覚悟決めんのな、あんた」 「誰がヘタレだ!」 「あんたが。ダモンをどんだけ悩ませたか、まさか忘れたとは言わせねぇよ?」 にやにやとするニトロからティアンはきっぱりと目をそらす。視線を戻せば間違いなく笑っているに違いないのだから、見るまでもない。案の定背中に当たって弾けるニトロの声。 「うおう!?」 文句の一くさりくらい言ってやろう、と思ったとき。眼前に降りかかる暗いもの。思わず上げた声をニトロにたしなめられた。瞬けばそこにいるのはダモン。 「……驚いた」 それはこちらの台詞だ、と以前のティアンならば言っただろう。温室でしていたようなやり取りがまだうまくできないでいる。ダモンも同様らしいがニトロはそんな二人を温かな眼差しで――二人に言わせれば間違いなく性格の悪さが滲み出ている笑みで――見守っていた。 「なにがだ?」 「君が、ニトロと楽しそうにしていたから。ニトロのことは嫌いだっただろう?」 「……それを本人の前で言うのはどうなんだよ?」 「ニトロは気にしないと思う。気にしたか?」 「いいや? ティアンに好かれてもなぁ。俺もちょっと……いや、かなり気色悪いな、うん」 「言ってろ」 もう一度鼻を鳴らせばダモンの少し楽しげな眼差し。それで充分に心慰められるティアンだった。その表情をあえて引き締める。ここは敵地だった。 「どうだ?」 村の様子を窺ってきたダモンの報告を二人で聞く。そして夜を待とう、ということになった。待機の間にもダモンは何度か銀糸を使って舞い上がり、様子を確かめる。 「――まだ、武器としては見てないけどな」 そのことを思い出しつつティアンはダモンの腕輪に視線を注ぐ。ニトロは以前言った。切り裂くのも締め落とすのも自由自在だと。まだティアンはそれを見てはいない。 「あまり、見せたくはないなと思う」 「驚かない自信はないけどな、でも――怖がらないとは、思う」 「自分で言うのもなんだけれど、僕は正直に言って腕がいい。君が気がつかないうちに相手が死んでいることも多々あると、思うよ」 密やかにダモンは微笑む。苦いものを隠した笑み、とはじめて見てとれた。だからティアンははっきりとうなずく。大丈夫だと。ダモンはそっと首を振った。 「……俺もな、たとえば話し合いが殺し合いになったとする」 まずは問い質すつもりでいるダモンだった。ティアンとしては訝しい。ニトロにとってはどうなのだろう。ダモンの好きにさせる程度にしか思っていないのではないだろうか。確定の事実が彼には見えている、ティアンはそう思う。 「僕も、そうなる予感は、しているよ」 「そのとき俺は、お前が知ってる俺じゃなくなると思う」 「ティアン?」 「流れの剣士で暮らしててもな、戦場に駆り出されることもあった」 むしろ当初はそのつもりだったのだが、一匹狼の剣士は使いにくいらしい。おかげで宴席に侍る仕事ばかりになったのは誤算だった。 「戦闘が終わるとたいてい、解雇された」 「なぜ?」 「怖いん、だろうな」 君がか、ダモンが首をかしげる。それにうなずいてティアンは苦い。自分でも、変わってしまう感覚が確かにある。見ている他人は更に恐ろしいだろうと思う。 「人が変わったみたいな戦い方をするらしい。俺は必死なだけで、よく、わからない」 けれど戦闘の後は人より血塗れだった。他人の血、自分の血。頭からかぶったように真っ赤だった。ひどく生臭い、乾きかけの血の臭い。ティアンはいまも覚えている。 「物騒な夫婦もいたもんだぜ」 さっと雨が降ったかと思った。一瞬で晴れて、けれど洗い流された。そんなニトロの声。二人揃って彼を見やる。 「お前ほど物騒じゃねぇよ!?」 「誰が夫婦だ、ニトロ!」 「ここで三人揃って物騒だなって言うのもなんだろうが? ちなみにダモン?」 「なんだ!?」 「ティアンが物すっごく落ち込んだ顔、してるけどな?」 「あ……いや、その。ニトロの言葉使いが問題なのであって、君がどうのでは……」 「あ、うん。や、その。わかっては……いると言うか……なんと言うか……。それにしたって夫婦はないよな夫婦は! 誰が嫁だって話だよな!?」 「これでも男だからな。僕だって」 「ちゃんと男に見えてる。それでも俺は」 ダモンがいい。口の中で呟くように言うのは照れるせいか。ダモンはそれを目を細めて聞いていた。そんな場合ではない、思うけれどこれが最後の機会かもしれない。くつくつとニトロが笑う。 「友達だのなんの言っといてこれだからな? 性根が据わるのが遅い男ってのは困ったもんだ」 「君は覚悟を決めるのが早すぎるんだ」 「魔術師ってのは一瞬で死ぬからな」 「そう……なのか?」 「魔術師の死因堂々第一位は好奇心。気を抜くとあっという間に事故死する。だからかね? いつ何時でも覚悟を決めちまうのは」 肩をすくめたニトロに二人は冷たい眼差し。魔術師がどうのは嘘ではない。たぶん、カレンに聞いても同じことを言う。けれどニトロの覚悟は違う気がした。単に彼の性格だ。 「君自身の性格を魔術師全般がそうだと語るのは君の悪い癖だと僕は思うぞ」 「あんたもな」 「あ――」 「あんたはあんたであって、暗殺者の括りで語るべきじゃねぇよな?」 自慢げに言ったニトロの肩先、ティアンは黙って拳で打つ。にやにやとするニトロに、彼の口許もまた緩んでいた。 |