魔法の鬼火に導かれ、悪夢の馬が駆ける。音もなく、声もなく。あるのはただ、かすかな騎手の息遣いだけ。 「馬、けっこう乗れるじゃんか」 ニトロが言ったのは昼を過ぎたころのことだった。すでにミルテシア国内に入っている。信じがたかった。馬上で体を伏せ、ティアンは息をつく。正直に言って馬よりこちらの体が持たない。端然と馬上にあるダモンを見ては言えなかったが。 「――剣闘士だったって言っただろうが。与えられた道具を使えないようじゃ死ぬんだよ!」 得手も不得手もない、命がけの競技に投げ与えられる武器、防具。此度は剣で、あるいは槍で。否、革鎧など無粋、いっそ裸で。戦い抜いてきたこの体。今になって染みついていたのかと思う。 「褒めてんだけどよ」 「そうは聞こえない」 むつりと呟くティアンにかまう気がないのかニトロは笑う。それにダモンまで小さく微笑む。魔法の馬の足を休める必要はなかった。人間の方も多少の無理ならば利く。だが。 「人里が近いからな」 少し足を緩めて旅人を装う、ニトロは言った。何も急行しているなど知らせてやることはないとばかりに。それには渋々とうなずくティアンだった。気は、急いている。それでも。 「案内、頼むぜ」 にやりと笑ったニトロにダモンはうなずいていた。ここから先はダモンの導き。ニトロも、無論ティアンもダモンの行き先を知らない。それなのに黙って先導を任せてくれる。彼らは思わないのだろうか。ここから彼らを置いて自分一人が行くとは。思った途端にニトロの笑み。理解した上で信じると。そっと微笑むダモンにティアンがそっぽを向いた。 「あの雨、本当に魔法だったのか?」 そんなティアンを見ていると気が鈍りそうだった、ダモンは。これから生き残りをかけて、導師にすべてを問いに行く。ぶるりと震えてダモンは馬上に背を伸ばす。その姿にティアンもまた思うところがあったのだろう、口許だけで微笑んでは背筋を伸ばした。 「ん? 本物の魔法だぜ? なんでだ」 「いや、なんと言うか……本物の雨だったな、と思って」 「そう見えなくっちゃ困るからな」 あっさり言ったニトロだったがダモンにもティアンにも真実、天から降り注ぐ雨にしか思えなかった。実際に道を惑わされていたダモンでさえ。 「こういうことができるのが魔術師、なんだな」 「平和的な魔法の一つだな。物騒な方面だったらいくらでも聞いたこと、あんだろ?」 「昔話の類でなら」 ミルテシアで生きてきたダモンだった。ティアンもまた。彼はともかく、ダモンなど闇の手という閉鎖された組織の中でだけ生きてきたと言っても過言ではない。それでも聞いたことがあった魔術師の恐ろしさ。 「――カレン師が仰っていた、お師匠様のお師様というのは、どんな方だったんだ?」 語られていた魔術師の姿とは違うものをダモンはすでに見た。ニトロがいる。だからそれは魔術師の何たるかを問いたいのではなかった。うまく、言葉にならない疑問だったが。 「それって、あれかな? お前の、スキエント様って言ってたか? それと似てるような気がするって、言ってただろ。それが、気になるか?」 「あぁ……そうか。そうだな、確かに。僕が聞きたいのは、それかもしれない」 ティアンが、言葉にしてくれた。ちらりと馬上から見やればそっぽを向いたティアン。ほんのりとした温かな頬をしている、そんなことを思う。こちらを向いたニトロの意地の悪い眼差しをダモンは悪戯に睨んだ。 「まぁ、ちょうどいいかな。あんたはスキエントを知らない。俺は大師匠の師匠を知らない。――ティアンなら、聞いたことあるかもな」 「はい? 魔術師がどうのなんざ知らねぇよ」 「って言っても歌の一つも聞いたことがないってわけじゃないだろ? ――最強の魔導師、人によっては、最凶最悪の魔導師とも言う。氷帝フェリクス」 「――な! 氷帝戦役か!?」 「ほら、知ってた」 からからとニトロが笑った。人里が近い、とニトロが言っていたとおり、少しずつ人が増えはじめている。道行く彼らもニトロの明るい笑い声につられるよう笑顔。それに手を振り返しているのだからニトロという男がわからない。 「待て、ニトロ。カレン師は言ってただろ!? 人殺しは絶対に許さない人だったって、言ってただろうが!?」 「そうだぜ? 正確には、そういう人だった、だがな」 「僕も、漠然と聞いたことがないわけじゃないけれど……戦役ということは……。いや、そういう戦争があった、程度は僕でも知ってはいるけれど」 ダモンの問いに氷帝フェリクスが起こした戦争をニトロは語る。大陸全土を巻き込んだ戦争だった。それもすでに遠い。ニトロたち魔術師にとってはそれほどではなくとも、人間の世界では。 「連れ合いをな、殺されて。フェリクス師は魂を失った。生ける戦闘魔法に成り果てて、全人類を殺してくれようとまでなったらしい」 ニトロも生前のフェリクスを知らない。それでも師が語った、その師が話してくれた。フェリクスの姿とは、似ても似つかない戦争当時の彼の姿を。 「それが、大師匠の師匠だ」 「……カレン師は、なぜ……可愛い人だったなんて」 「そりゃ、見た目が可愛かったらしいからな」 「はい?」 ティアンの間の抜けた声をダモンがそっと笑った。なぜかほっとしたらしい。そして直後にこんなことではいけないと気を引き締める。そこまで気を張っていては持たないだろう、と思うもののニトロにもなす術はない。 「カレン師と同じよう、女性魔術師だったのか……。知らなかった」 氷帝戦役とまで言われるほど恐ろしい戦争を引き起こした魔術師だ。そもそもティアンは実在の人物だとは思っていなかったが、物語として男だと思い込んでいた。ちらり、ニトロが笑う。 「いいや? 立派に野郎だったぜ?」 「はい!? それで可愛いって……」 「別に野郎が可愛くってもいいだろうが? ダモンは可愛い部類だと俺は思うけどよ」 言った途端ティアンの剣呑な眼差し。そんな目をするのならばフェリクスのことをどうこう言わねばいいのに、とニトロは内心で笑う。赤くなっているダモンを見ては言えなくなった。 「まぁ、うちの師匠の肩くらいまでしか背もなかったみたいだしな。だいたい、師匠が知ってるのはまだ戦争起こす前のフェリクス師だ。師匠の修行時代だな。大師匠がイーサウにいて、師匠がいた」 「修業時代、か……」 思うところがあるのだろうダモンのくすんだ声。何かを言いたいのに言葉を見つけられないティアンにニトロは目くばせをする。何を言っても嘘にしかならないとばかり。渋々ながらうなずいたティアンにそれこそ冗談のようニトロは淡く微笑んだ。驚くティアンが目を瞬く間に消えてしまったそれだった。 「愛弟子がイーサウに暮らしてて、フェリクス師は心配でならなかったらしいな。時々遊びに来ちゃ、抱きついたり腕組んだり」 唖然とした常人二人。実はニトロも内心では同感だ。と言うより、その話を聞いたとき頭がおかしいと思ったものだった。 「それは、師弟、なのか……?」 「師弟、だったらしいな。関係者の誰に聞いても師弟であることは間違いないって断言するし。それ以上でも以外でもねぇらしいぞ? ただ、まぁ……なんつーか、師弟揃って親子愛の発露の仕方が間違ってたらしいけどよ」 「師弟なんだろ? なんで親子愛になるんだよ」 「なんでだろうな? 本人たちも血は繋がってないって言ってたみたいだけど、それでも親父息子と呼び合ってたそうだよ」 だから周囲の魔術師にとって彼らは親子だったのだとニトロは言う。歪んだ、普通ではない在り方ではあったけれど。 「でも別に誰に迷惑かけてるわけでもねぇし? 親父って呼びたきゃ呼べばいいんだし、倅扱いしたいってんならそれでいいんだろうし」 もっとも多少の迷惑は被っていないこともないか、とニトロは心の奥でそっと嘯く。フェリクスがそうだったせいか、カレンまで自分を息子扱いする。カレンもまた、その師に娘と呼ばれているからだろう。それが面映ゆいような、身の置き所がないような。迷惑とまでは言わないが。ただ、気恥ずかしいだけかもしれない。 「師匠は、そんな可愛いとこもあるフェリクス師を知ってた。目の前で見てたわけだしな。――でも、俺は知らない。俺が最初に聞いたフェリクス師の話は、やっぱり世の中で言われてる氷帝の噂だ」 「あ――」 「な? ダモン。俺にとっちゃな、たった三代前の師匠だぞ。常人風に言うなら、たかだか曽祖父様だ。それでも実像なんてわかりゃしねぇ」 「スキエント様も――」 「俺は魔術師で、フェリクス師がなんで戦争起こしたのか、知ってる。納得してる。でもたぶん、常人の世界では納得できることじゃねぇと思う。たかだか連れ合い殺されてブチ切れて戦争起こすかよって話に、なるよな?」 「……歌では、そうなってるな。だから恐ろしい魔術師、いや、魔術師は恐ろしいって」 当の魔術師を前にティアンは目をそらす。恥じるようなことではないとニトロは思う。知らなければ所詮はそんなものだ。知った後どうするか、それが問われるのだと思う。 「スキエントも、元々のあんたらにとっちゃ立派な人だったのかもしれない。偉大な、尊敬すべき人で、世の中に誤解されてるだけなのかもしれない」 ティアンが口を開きかけた。それをニトロの眼差しが留める。優しいくせに有無を言わせない目をしていた。 「いいや、ニトロ。それは、違う。……たとえ、当初はそうだったのだとしても、尊敬すべき偉大な人であったのかもしれないけれど。――でも、今は違う。いまの闇の手は、歪んでしまったのか、元々歪んでいるのか、そんなことは僕にはわからないしわかりようもない。そういうことなんだよな、ニトロ?」 「だと、俺は思うってだけだな」 「その上で、僕は、違うと思うんだ」 悪夢の馬の背の上で、ダモンは遠く遥かを見晴るかす。場所ではなく、時間を見ていた。その眼差しをティアンは追う。追いたいと思う。いまはまだ、届かない。 「少なくとも、物の道理もわからない子供を連れてきて、教えに染めて、殺しの技を仕込む今現在は、間違っていると、僕は思う」 隣に寄せた馬から伸びるニトロの手。ぽん、とダモンの頭に置かれた。ダモンがそれを言う、どういう気持ちなのかとティアンは思う。ニトロはダモンと同じ境遇の友を亡くしたと聞く。 「同感だな」 短いニトロの言葉に万感が込められている、そんな気がして二人は口をつぐんだ。見合わせた顔と顔。不思議とはじめて意が通じた、そんな気がした。 |