あれはいったいなんだったのか。確かに魔法だったのだとダモンは思う。ニトロが先に立って走り出すなり、あっさりと町の門までたどり着く。とはいえ、狼の巣は軍事基地の町。門は堅固に閉ざされている。 「ダモン」 悪戯をするようなニトロの笑み。ダモンも応えて笑う。ティアンがどう思うだろう、それだけがかすかな気がかり。それを押し殺し、ダモンは受け取った縄を手に軽い助走をつけた。 「あ――!」 ティアンの驚きの声。ダモンの体はふわりと浮きあがるよう、外壁の上に。片手をついて周囲を窺うのは習性だろうか。うなずいて縄を投げおろす。 「行けよ」 顎をしゃくる横柄なニトロに指図され、ティアンは顔を顰める。おかげでダモンへの驚きや、様々な思いをその間に消化できたのだからたまったものではない。 ――恩が、返し切れねぇ。 いまここでダモンへの驚愕をあらわにすることだけは、避けたかった。彼が自分の知らない姿を見せようとしているいまだけは。ニトロはそうと察してあのような態度を取ったのか。縄を手掛かりによじ登り、小さくティアンは苦笑する。外壁の上、ダモンと合流して縄を今度はニトロのために投げおろそうとした時。 「こっちだこっち。さっさと来な」 外から、声がした。愕然と見下ろせば、門の外でニトロが笑って手を振っていた。 「……さすが魔術師?」 「どうにもニトロは褒める気になれない」 「それは、その……僕の、色々……?」 「……かな?」 戸惑いがちなダモンの声にティアンは微笑む。覚えのないダモンの声だと思う。温室でも、再会してからも。これがあるいはダモンの素の表情なのかもしれない。今度もまたティアンは縄を使って下りた。さすがに飛び降りれば怪我をしかねない高さだった。が、ダモンは同じよう、重さがないのかと疑いたくなる動きで着地する。軽く腕を引けばあっさりと縄は外れてダモンの手に。 「君が持っててくれないか?」 「あいよ。荷物は少ない方がいいもんな」 にやりと笑ってニトロは手を閃かせる。しまったのではなく、縄は消えた。目を瞬くティアンだったけれどダモンは魔法は便利だ、と密やかに笑う。 「適応早ぇな、おい」 「開き直った、それだけだよ。行こうか」 まるでニトロのようダモンは鼻で笑う。その足がぴたりと止まった。かすかなニトロの溜息のような吐息。 「よう、坊主ども。行くのか?」 雨の中、カレンがいた。雨闇に、なぜか彼女の表情がよく見える。ふと見ればそこかしこに浮かぶ鬼火。魔法灯火だ、とニトロが言った。そぼ降る雨に濡れた短い髪をかき上げてカレンは笑う。苦笑のような、微笑のような。 「行きます。カレン師には、ご迷惑をおかけすることになりました。せっかくのお心遣いを――」 「気にすんな。決着ってのは自分の手でつけた方がいいもんだ。どんな形であれ、決着つけるってのは大事だぜ。どこに行くんであれ、先に進むための力になる」 「……はい」 ほんのりと微笑むダモンの髪にも雨が降る。外壁をおりた拍子に外れてしまったフードだった。それをカレンの手が無造作に直してやる。 「その気持ちはよーくわかるぜ、ティアン」 肩まですくめたニトロの声。ティアンは同意しない。その気持ちでいっぱいだった。同意までしてしまったら立つ瀬がなくなるというもの。 「そうやって男女かまわずたらすなっつーの」 「たらしてねぇよ。なぁ、ダモン?」 師弟が笑みと言葉をかわしあう。それにダモンは胸が詰まった。ニトロを巻き添えにする。帰ってこられるか、正直に言えばわからない。ニトロの命まで預かってしまって、いいのだろうか。問う前に答えが知れてしまう。覚悟の上でニトロは行くと言ってくれている。カレンは送り出すと言ってくれている。 「一応な、ちょっとしたお願いってやつなんだが。――できりゃ、皆殺しは避けてくれると嬉しい。私が師匠にぶん殴られるわ」 「え……な、はい?」 「私の大師匠ってお人がな、そりゃ殺しを嫌う人だったらしい。処刑もできれば避けてたって人だっていうから筋金入りだな」 カレンは何度か会ったことがあるだけのあの人を思い浮かべる。ニトロにはそれが知れただろう。常人の二人は訝しそうな顔をするだけだった。 「大師匠の思いに応えるために、師匠はいまでもそのお心に添うよう生きてる。だから私が皆殺しを認めると……なぁ?」 くすぐったそうに笑うカレン。言っていることは非常に物騒なのだけれど、態度そのものは柔らかい。魔術師、ということなのだろうか、これが。 「小柄なな、可愛い人だったよ、大師匠は。私にとっちゃ神様みたいなお人だ」 その願いならばできれば自分も叶えたい、カレンは言う。その言葉だろうか、思いだろうか。ダモンがわずかに息を飲む。 「……いえ。こういうこと、だったのかな、と思って。――スキエント様が、人間の身でありながら崇められていったのは、こんな感じだったのかな、と」 「なるほどな、わかる気がする。大師匠は確かにすごい方だった。神格化されて行くのかもしれない、今後何百年も経つと。ただまぁ、私らは魔術師だからな」 「師匠がいるなら越えてやるのが恩返しって考えるからな、俺らは」 「さっさと越えて見せろよクソ坊主」 「うっせぇ黙れクソ女」 ついにティアンが顔を覆った。イーサウに暮らすようになってカレンの立場、というものが嫌でも知れた。それが、この有様だ。ダモンはと見れば本人の言葉どおり吹っ切れたものか笑っている。 「最終的な判断はお前に任せるけどな、誰彼かまわず殺す前にちょっと、思い出してくれ」 「一応……僕は、話し合いに行くつもりではあったんですが」 「おや、そうだったのか? 殴り込みに行くんだとばっかり思ってたぜ」 からりとカレンが笑う。雨粒が笑い声と共に跳ね上がり、夜闇に消える。それすらも楽しげで明るい。カレンのように。 「ま、いずれにせよどんな形であれ決着はつけてきな。おい、馬鹿弟子。乗ってきな」 ふわりと影が形になる。息を飲む間もなく、それは馬へと。三頭の、悪夢のような馬がそこに。ニトロがそっと溜息をつく。とんでもない偉業だったらしい。 「げ、これ維持すんの俺かよ」 「省力型にしてあるぜ? この程度維持できねぇなんてそれでも私の倅かよ、情けねぇな」 「できるけど面倒くせぇんだよ!?」 「負け惜しみって言うんだからな、それ?」 にやにやとするカレンにさすがにニトロは勝てないらしい。散々にやり込められているティアンとしてはこの上なく気分のいい景色だった。 「こんなことまでしていただいて――」 「なに、気にすんな。ちょいと散歩してくるって距離でもねぇんだろ? だいたいな、お前のためって言うよりゃ、倅の訓練になるからって方が理由としては大きい」 それだけのこと、とカレンは言い切る。ダモンが見やったニトロもうなずく。馬を見ては肩をすくめて難儀だと呟きながら。それでも目にある挑戦の気配。ダモンはカレンに無言で頭を下げた。 「よし、ダモン。どれくらい時間稼げばいい?」 笑んでいるのに、獰猛なカレンの目。戦う眼差し。真っ直ぐだ、ダモンは思う。自分は契約を果たしに行くとき、こんな目をしているだろうか。ちらりと思って内心で首を振る。 「一日あれば」 「ん、了解。二日。二日だ、この雨はそれまで降らせとく」 「充分です」 しっかりとうなずいたダモンの頭、ぽんとカレンは手を置いた。撫でるというより励ますような。それを見てはニトロが微笑む。 「なんだ次男坊。お前も撫で撫でしてほしかったか、え?」 「誰がだ!? もういいよ、行こうぜダモン。師匠に付き合ってると夜が明けんぞ」 「冷たいこと言う倅だぜ。ま、いいや。行ってきな。土産を楽しみにしてるからな」 「土産が買えるようなとこ行くかよ!? ったく、何が欲しいんだよ?」 「そりゃあ、なぁ? 証拠物件なんかあったりするとお母さん、すっごく嬉しいなぁ」 ニトロが声もなくわなわなと震えている。ティアンも少し同情した、ニトロはニトロで意外と苦労をしているのかと。だが羨望の方が遥かに強い。ニトロは幼いころに過酷な思いをしているらしい、自分たち同様に。けれどいまは。現在の彼は。 「あるわけねぇだろ!?」 気持ちよく怒鳴ることができる師弟。ティアンには理解不能な関係でもあった。幼い自分を買った剣士は剣の師ではあったけれどこんな関係ではなかった。 ダモンも同じく。二人を見ているとこの世は教えのように粛清すべき存在ばかりではないと信じられる気がした。温かいと言うには少し熱すぎるような、滾るような思い。沸々と湧きあがってくるそれは、生きたいという望みにも似た。 「いや、あると、思う」 だからこそ、思い出したのかもしれない。先を見ることなどできずにただただ流されてイーサウに暮らしていた自分ではなく、己の足で歩くと、どこに行くのかもわからないなりに決めたからこそ。 「はい!?」 証拠が欲しいと言ったカレン本人が驚く。まさかと思っていたらしい。ニトロは呆然としている。ティアンはどうだろう。驚いているだろうか。 「証拠が、あるのか? でも、それだと。お前が。モルナリアに雇われたって言っていいのかどうかわかんないが、お前がエッセル伯殺害にかかわってるって」 「僕ならばかまわない」 「かまうのは俺だ!」 「ちなみにティアンに同感。俺も結構かまうぜ? まぁ、その辺は師匠に任せよう。俺は政治問題には首突っ込みたくねぇんだ」 「冷たいこと言う弟子もいたもんだぜ。私だって好きでやってんじゃねぇやい」 拗ねて見せるカレンだったが目は逞しい。もしも証拠があるのならば持って来いと、間違いなくよいようにするからと。頼もしいその眼差し。前髪を伝った雨を首の一振りで退けた。 「――行ってきな」 精悍な笑みに送られる。言葉もなく頭を下げるダモンをカレンは笑った。 「そうじゃないだろ? 行ってきますの挨拶はちゃんとしてきな、坊主ども。じゃないとおかえりなさいが言えねぇだろ?」 師匠の受け売りだがな、笑うカレンの言葉に、思いに、胸が詰まる。聞こえないような挨拶に、カレンはそれでも目を細めてうなずいては送り出してくれた。 |