雨の中、ダモンは走っていた。勝手に拝借したニトロの外套は少し大きい。フードを深くかぶっていてすら滴るような細かい雨が降っていた。 「ごめん」 小さく呟く。魔術師たちは何かをしてくれるつもりらしい。闇の手を、どうにかするための手を打ってくれている。 それでもこれは、自分がすべきことだとダモンは思った。魔術師が正しいのか、闇の手が正しいのか、もうダモンにはよくわからない。一つだけわかることがある。 「ティアン――」 彼が殺されるのだけは、間違っている。闇の手の理念に、教えられていたそれに照らし合わせても断じてティアンは粛清されるべき存在ではない。なぜ、と思う。どうしてティアン殺害の依頼など受けたのだろう。 「違うの?」 依頼ですらないのかもしれない。契約などなくて、闇の手がティアンを殺そうとしているのかもしれない。それを思えばぞっとする。 自分が生きてきた道のりはなんだったのかと思う。嘘に塗れて汚らしい、それこそ粛清対象としか思えないような。そう、育てられてきたのに。そう、教えられてきたのに。正しいと信じてきたすべての時間が壊れて行く。 だからこそ、自分の手で決着をつけようと思う。何も理解できないまま、魔術師たちに任せるのではなく、せめて自分で問い質したいと思う。あるいはその上で戦い破れて倒れるとしても。軽く拳をダモンは握る。右手にはニトロの腕輪。暗器の隠し場所としてはこの上なく優雅な。苦笑が浮かんで唇が冷たい。雨に冷えていた。 ニトロはこうして勝手をする自分を見逃してくれた。彼がそっと地下室を抜けだした自分に気づいていないなど、ダモンは思ってもいない。眠っていなかったのも知っている。それなのに黙って行かせてくれた。 「ごめん」 もう一度、呟く。もう会えないかもしれない友達。彼の幼友達であったネイトの分まで、とは言わない。ほんの少し、そんな気持ちがないわけではなかったけれど、自分のために闇の手と決着をつけたい。いずれ、ティアンは魔術師たちが守ってくれる。後顧に憂いがない、とはこういうことを言うのだろうか。まるで戦場に赴く騎士のようなことを考えたダモンは密やかに微笑む。ふと立ち止まった。 「……おかしい」 イーサウは広大な街ではない。ましてここは狼の巣。イーサウ本市街に層倍して広いなどということはない。それなのに、雨の中いくら走っても果てがない。 「迷いの雨。入れても出られねぇって優秀な魔法だぜ?」 ふふん、と鼻で笑う声が聞こえてきそうな、ニトロだった。振り返れば愕然とする。彼は一人ではない。 「ニトロ、どうして」 「そろそろ追いかけようかと思ってたらティアンが起きたからな。どうせだったら一緒に来たわけだ」 「そんな。君は――」 「別に見逃したわけじゃないぜ? 諦めて戻ってくるならそれでよし、戻らないんだったら追いかけるまで」 とりあえず行かせただけだ、ニトロは嘯く。どちらにしても助力をするために。ニトロの隣でティアンが唇を噛んでいた。 「……その。俺にも、手伝わせて、くれないか」 フードもかぶらず、そぼ降る雨にティアンは濡れていた。必死になって走ったのだろう、いつの間にか落ちてしまったフードに気づきもしなかったらしい。 「君は、僕が何をしに行くのか、わかっていない。僕が君をどんな目に合わせたのか――」 「わかってると、思う。どっちも。ニトロが、いろいろ話してくれた」 ティアンは驚く。ダモンの射抜くような目。ニトロを見据えていた。なにを話したのだと無言で問い詰めるダモンの目にニトロは笑うだけ。 「あんたが聞かせたくないと思ってることは言ってねぇと思うけど? そりゃ俺が言うようなことじゃねぇと思うし?」 「ニトロ!」 「だからそっちは言ってねぇっての。――喧嘩、しに行くんだろうが、ダモン。俺にも一枚噛ませろ」 「な――」 「まずは話し合い? なんでティアンを殺そうとしたんですかって? それが決裂したらどーすんだ? 俺は最初っから喧嘩だと思ってるんだけどよ」 「……反論が、しにくい」 「だったら手があるほうがいいだろうが。手数は力だぜ? 俺は役に立つぞ。ぶっちゃけ、ティアンよりよっぽどお役立ちだと思うけどよ」 へらへらと笑うニトロをすさまじい目でティアンが見たと思ったら、なぜか彼は溜息をつく。それから思い切りよくニトロの腹を拳で殴った。 「お前のそういうところが俺は嫌いだ」 「お生憎様。俺もあんたがさほど好きじゃねぇよ」 言いつつ小さく笑うティアン。何があったのだろうと言葉を返したニトロ本人ですら訝しい。すぐに、わかった。開き直ったのか決心したのか。腹をくくっただけだった、ティアンは。 「どっちにしてもな、ダモン。俺抜きでこの雨は越えられねぇぞ。魔法だって言ってるだろ?」 情報封鎖だ、とニトロは言った。捕え切れなかった闇の手の者がイーサウから出ないように。また外からイーサウに連絡がつけられないように。物理的に封鎖をしてしまえばいかにも怪しい。だからこそ、連絡をつけられても意味がないようにする、それを外に出さなければよい。ニトロは言う。 「それがこの雨だ」 軽く両手を広げたニトロが掌に雨粒を受けていた。彼の手にたまっていくのは雨にして雨ではない、水滴に似て非なる何か。二人の常人には雨以外の何物にも見えない。 「どうする?」 ニトロの問いにダモンは唇を引き締める。ニトロの助けが必要なことは、理解した。けれどティアンは。 「なぁ、ダモン。あんたは戦う力がない女子供でもねぇわな? だから自分で決着つけに行くんだろ」 「……凄惨な方法になりかねないけれどな」 「方法は問わねぇよ。やるのはあんただ。――だったらティアンは? あんたは俺らがこいつを守るとでも思ってんだろ。それはそれで事実だぜ。お留守番するんだったらきっちり守り抜いてやる。――ティアンは、戦えないのか? あんたが戦ってる間、じっと守られて待ってんのか?」 「俺は、戦える。お前の方法じゃないだろう。足手まといでもあると思う。それでも、待ってるだけなのは……嫌だ」 「……なんで。危険なのに。生きて帰ることは、できないかもしれないのに」 その確率の方が高いとダモンは予想していた。自分一人対、本拠地にいる導師たちならば。ニトロが加わってくれるならばどうだろう。ティアンのことは、考えたくない。 「……え?」 そのせいだろう、ティアンが何を言ったのか聞こえなかった。そっと背を向けたニトロがわずかにうつむく。夜目にも鮮やかな白金の髪から雫が飛び散る。笑ったらしい。 「だから、その。あのな、ダモン。――こう、なんと言うか、だから! その!」 「すまない、ティアン、何を言っているのか」 「あぁもう! だからお前に惚れてるって言ってるんだ!? こんな状況で何度も言わせるな!?」 「――いままでぼけーっとしてたくせになぁに偉そうなこと言ってやがんだかな」 ティアンの声よりよほどニトロの声の方が鮮明だった。ぽかん、としてしまいそうになるのを必死でこらえる。ニトロの言葉に、ティアンが何を言ったか理解する。みるみるうちに頬に血が上った。 「答えは、要らない。俺がお前に惚れてるってだけだ。よけいに、俺のために戦わせたくない、お前ひとりで行かせたくない」 「ティアン……」 「迷惑だろうとは――って、痛ぇな!?」 「殴られるようなこと言った自覚程度はあってほしいもんだけどよ、ティアン坊や?」 「うるせぇ! その面で坊や呼ばわりはやめろ」 「やめたいもんだがな、俺も。で、ダモン。どうするよ。こいつ、連れて行くか?」 「使い潰してくれて構わない、ダモン。俺は」 「……ニトロ、君はどんな話をどう吹き込んだんだ!?」 「俺のせいかよ? ティアンがこんななのはこいつのせい。あんたの感情はあんたの責任。俺はなぁんにもやってねぇよ」 ふふん、と笑われた。途轍もなく邪魔された気がしているのだが、ティアンは何か引っかかるものを覚えてニトロを責める気がなくなった。 なぜ、ダモンは自分を助けてくれたのだろう。どうしてここまでしてくれるのだろう。殺されたいと祈るほど後悔している理由は。 「ようやくわかったか?」 にやりとするニトロ、それに殴りかかるダモン。ティアンは自分を見つめるニトロをぽかんと見ていた。 「そんな……ほんとか? 冗談だろ」 「それを俺に聞いてどうするよ。本人に聞け本人に」 「ニトロ! 僕は!」 「で、ダモン。答えは?」 掴みかかってきたダモンをあっさりと受け止めたニトロ。ダモンが本気でないのか、それともニトロの体術が優れているのか。 「僕だって……ティアンが、好きだから。だから」 ぐっと握られた拳。ニトロの襟元で白くなる。ティアンはと見れば呆気にとられてダモンを見つめていた。 「ん、まぁ。そうだよな。それは俺も、知ってんだけどよ。その辺まとめてあとでやってくんねぇ? とりあえずこいつ、連れて行くのか行かないのか。それだけ答えろって」 「な、あ……。その、だから!? ニトロ、性格が悪い!」 「知ってると思ってたけどな。どうするよ?」 「知ってても腹は立つんだ! ――ティアン、あとで、あとなんていうものがもしあるのなら、あとで。もう少し、ちゃんと話したいとは思う。でも君は、僕を知らない。暗殺者としての僕を知らない」 「知ってるとは言わない。知って動揺するかもしれない。しないかもしれない。わからないから、確かめに行く。それじゃだめかな」 「だめに決まってんだろーが。覚悟決めろよ、このヘタレめ」 「ニトロ、うるさいよ?」 ニトロに暴言を吐かれ、ダモンは彼を睨む。それをティアンが見ている気配。なぜかひどく気が楽になった。帰ってこられないとは、不思議と思わなくなる。 「よし、喧嘩しに行くか」 ぱしん、とニトロが己の拳を反対の手にぶつける。雨を含んだ鈍い音。ダモンはその手に手を重ねる。渋々とティアンも。小さくダモンはティアンを見ては微笑んだ。 |