自分の信じていた世界が崩れ、めちゃくちゃになった経験などティアンにはない。想像もできない。呆然と、ただ焦点の合わない目をしたダモンが不安でならなかった。握り続けている手にも彼は気づいていないかのよう。もう一度ぎゅっと握りしめても反応はなかった。 「……俺には、わからない。だから、たわ言なのかもしれない。知らないやつが勝手言ってるだけなのかもしれない。――なぁ、ダモン」 のろりと彼が顔を上げた。生気のない目にティアンは震えそう。それをしてはダモンによけいな心配をさせる。その思いだけがティアンを微笑ませる。それを汲み取る余裕などダモンにはないと知りつつも。 「お前は、正しいことをしてるって、信じてたんだよな?」 こくん、とダモンはうなずいた。幼い日から、導師の言葉を信じてこの手を血に染めてきた。粛清されるべき人間を哀れと思ったこともない。世界にとって不要なものを片づけた自分をただ誇るばかり。それが。 「――正しいなら、なんでその教えを広めようと、しなかったんだろう?」 「……え?」 「それが正しいなら、こういう風に生きればいい、そうすればよくなるって、広めるもんじゃないのか? それをしないで……」 人殺しをしてきたことに疑問を覚えなかったのか、とはティアンもさすがに言いかねた。それでも目に現れたのだろう感情をダモンは読み取る。ダモンが何を言うより先にニトロが口を開いた。 「やったのかもしれないぜ?」 「俺はそんな話――」 「聞いたことねぇってか? 俺だって聞いたことねぇよ。でもな、神人降臨前後の話だぜ、元は。だったら何千年経ってると思ってる。昔はやったのかもしれない。無駄で、今の考えになったのかもしれない」 「お前は!」 闇の手の教えを肯定するのか。激昂するティアンをダモンは見ていた。ようやく焦点の合った目。それなのにティアンは気づかなかった。 「そんな昔の話をしてどうするんだってことだ」 「昔じゃない。今だ。今、ダモンが。――その、スキエントって神様か? お前は知ってんだろ。聞かせてくれ。俺は……なんにも知らない」 「神様じゃねぇよ。一応は人間だ」 「人間? それでも」 どんな話でもいい。ティアンは言う。ダモンもまたじっとニトロを見た。彼が知っている話とは、どんなものなのか。自分が知っていた話と、どれほど違うのか。物心ついて以来、ずっと聞かされていたスキエント様の偉業。あれは、嘘だったのだろうか。信じたくなくてダモンは惑う。そんな彼らの前ニトロは無言で首を振る。 「知らないんだろ、本当は!? だから言えないんだろ、お前は! 違うんだったら――!」 「あのな、ティアン。何千年単位で昔の話だぞ? そんなもんどうこう言ってなんになる」 「ダモンが――」 「たとえば、だ。何千年前も前に人殺しがありました、その犯人をな、状況証拠だけでああだこうだ言って、見つけてなんの意味がある? それを知って、なんか得があるか? そもそも見つかるもんなのか? こりゃそういう話なんだ」 呆れたようなニトロの口調。それでも眼差しだけは真剣だった。ティアンは何を返せばいいのか言葉に詰まり、ダモンはまたもうつむく。 「――俺が知ってる話は、アルハイディリオン断片集ってもんに、まとまってる。最近、ようやく調査が進んだんだ。それでも、残ってるもん自体が、千年単位で昔のもんだ。元が叙事詩だからどこまで事実として正確なのかもわからない」 「それを――」 「古語だからな、俺が翻訳してやったっていい。あんたが、古語を勉強して、自分で読んだっていい」 ニトロの青い目がダモンの緑の目を覗く。いつもならば宝石のように煌めくダモンの目は淀んで沼のようだった。 「それでもな、事実か、それは? 翻訳すりゃ、俺の主観が入る。あんたが読んだって一緒だ。あんたの主観が入る」 「元は、叙事詩、か……」 「そうだ。ティアンの考え通りだよな? 物語だぞ? 善悪きっちりつけて面白おかしく語ってるだけって可能性だってある」 「スキ……エン、ト様が、悪者にされて……?」 「その方が受けがよかったのかもしれないしな? ――あんたが育ってきた小さな組織みたいなな、閉ざされた環境の方が事実は歪みなく伝わってるって可能性だってあるんだ」 何度も繰り返される可能性。ともすればティアンですら信じそうになる。が、ダモンはちらりと笑った。ニトロの友人は、彼が何を言いたいのか正確に察知する。 「君は……スキエント様が……善だとは、思っていないんだな」 「思ってねぇよ。俺は、そういう善悪の中で育ったからな」 「僕は、違う善悪の中で、育った……?」 そういうことだとニトロがうなずいた。少しほっとしたようなその表情。ダモンの助けになりたいのは自分だったのに、思えば思うだけティアンは忸怩とする。 「その、お前の善悪と、ダモンのそれと。いま聞かせてやれば――」 「意味ねぇんだって。なんでか? 昔話を突きあわせてダモンの生き方が変わるか? アルハイディリオン断片集の研究は進むだろうけどよ。ダモンにとっちゃ、意味がねぇ。わかるか、ティアン」 「わかんねぇよ!」 「そうじゃない。俺でも、あんたでもない。助けの手は貸せる。助力は惜しまん。それでもな、生きるのは、ダモンだ。昔なにがあった、どうやって育てられた。そんなのはな、ここから先ダモンがどうするかに比べりゃ些細なことなんだ。それを決められるのは、ダモン。――あんただけなんだ」 こうして自分がいる。ティアンもいるだろう。ニトロの目だけがダモンに語る。ティアンがいるからこそ、生きてなどいられないとダモンは思うのに。闇の手の教えが正しいものでないのならば、ティアンを巻き込んだのは。 「すぐにどうしろなんて無茶は言わねぇよ。魔術師は無理無茶無謀の塊みたいに言われるけどな、そこまでとんでもねぇことを言うつもりはない」 からりとニトロは笑う。まるで明るい空のような、涼しい水のようなニトロの笑い声。そぐわなくて、そのくせ、濁った空気を吹き飛ばすような。 「俺だってな、ダモン。胸糞悪ぃんだぜ? 俺の立場から言えばな、そんな無茶苦茶な話を信じ込まされてネイトは死んだのか? 信じ切ったネイトは黙って殺されたのか? ふざけんじゃねぇや」 痛そうな音がした。自分の拳で、掌を打ったニトロ。ティアンはようやくニトロの顔が見えた、そんな気がした。彼という人物がわからなくて、苛立つ。それはいまも変わらない。それでも少しだけ。 「せっかくめちゃくちゃになったところだからな、ダモン。助言を一つ」 にやりと笑うニトロにかすかな笑みをダモンは向ける。とんでもない物言いが、彼らの間では友情のやり取りとでも言わんばかり。一人入り込めないティアンはそこにいるだけ。そのティアンにニトロの目が向いた。 「あんた、どういう育ちだ?」 「な……。それは、その」 「ティアン、いいんだ。言いたくないことだったら。ニトロの意地悪だ。気に、するな」 「お前な……なんでこんなときに俺の心配なんてできるんだよ。――いい、驚いただけだ」 その理由をもう少し真剣に考えてほしいニトロだった。が、ダモンは必死になって微笑み続けている。そんなことは気づかなくていいと。内心で肩をすくめるニトロに二人は気づかない。 「――貧民街で掏摸やってたな」 軽い自嘲の声。ティアンのそれにダモンは完全に正気づいたと言っていい。目の焦点がはっきりと合い、ティアンを見つめる。握られている手にふと意識が向いた。いつからなのだろう。途端に汗ばんだ手に、今度はティアンが気づかなかった。 「親はいない。少なくとも、俺は知らない。ガキども何人かでな、固まって、騒ぎ起こしたり、体当たりしたり。掏摸って言うほど技術もねぇな」 小さくティアンは笑う。知らず手を見ていた。何をして、何をしなかったか知っている自分の手を。 「ああいう商売にも親方がいるんだぜ? 上がりを持ってかれて、かつかつで生きてた。小さい仲間が死んじまったことなんて数えるのも嫌になるほど見てきたな。――俺は、幸運だったのかもしれない。年寄りの剣士が、自分の技を伝えるガキが欲しいってんで、買われたんだ」 「買われ、た……?」 「親方に金払ってたからな、買われたんだろ。よくあることだったから、俺の値段がいくらだったのか、俺は知らない」 ティアンはうつむきがちのまま微笑んでダモンを見つめる。心配そうな緑の目。先ほどよりは少し生気がある気がする。 買われたティアンは剣士の指導という名の体罰を受けながら育ったと言う。その後ある貴族に再び売り渡され、内密の剣闘士として屋敷内で飼われた。 「さすがに外聞がいいもんじゃないからな。一族だけの秘密ってやつだ。誰かと殺し合いをやらされたり、獣と戦わされたり。十七歳で俺は一年間、無敗の勝利を築いた。その褒美に、自由をもらった」 そしてティアンは流れの剣士になった。掏摸の技は錆びついて、後は剣の腕を売るよりなかった。他のことは何も知らなかった。 「なるほどな、あんたの剣が実戦的なわけだぜ」 ニトロはそれだけを言う。同情も憐れみもない。それが妙にありがたい。ふと気が楽になる。こんな人生。けれど、こうして生きてきた自分の人生。 「ダモンよ、どう思う? ティアンの生きてきた道のりは、普通か?」 「こんな……普通があるものか! 普通の人っていうのは、もっと色々と、色々、僕には、わからないけれど。それでも」 「だな。あんたがどこにでもいる人間ってのをどう捉えてるのか俺にゃわかんねぇけど。ティアンの人生が普通じゃないってのは、理解できるな? だったら俺は? 俺がガキのころの話はしてやったよな?」 魔力の発現を嫌った集落の人間によって排斥されたニトロ。ほんの幼いころにイーサウに一人、放り出されたニトロ。ダモンは無言でうなずいては覚えていると示す。 「ここにいるのは三人が三人とも、まぁ、普通じゃねぇ生き方ってのをしてきたわけだ。なぁ、ダモン。――普通って、なんだ?」 「普通は、普通、だと思う。当たり前のことを、当たり前に……」 「答えになってねぇよ。俺の性格が悪いだけだがな。あんたには答えられない質問だ。ってかな、俺にも答えられない」 「……なぜ?」 「これこそが普通、なんてないからだ。いるのはいろんな人だ。俺たちは確かにちょっと他とは、ずれ幅が大きい。でもみんな多かれ少なかれ、ずれてるもんだ」 それぞれが、それぞれに違う。そうして生きている人々のいる社会。汚れているかもしれない、しかし粛清するようなものではなかった、人々の命。ダモンは大きく息を吸った。 |