地下室だった。小ぢんまりとしたこの家にこんな場所があるとは想像したこともない。そのせいか、妙に肌にぴりぴりと来る違和感。何がどうと言えないだけに気色悪かった。 「師匠の呪文室――工房だ」 まだ口の中に血が残っているのだろう、顔を顰めてニトロが言う。それをダモンが青くなったまま見上げていた。 「大丈夫だ。心配すんな」 小さく笑ったけれど、ダモンは黙って首を振る。そうするしかないだろうと思っているニトロはいまは問わないと彼に向かってうなずくだけ。それに返答は返ってこなかった。 「その――。すまん、感謝する」 なにがなんだかわからないながら、救われたのは理解しているティアンだった。自分の上に乗っていたニトロのぞっとするほど真剣な顔を思い出す。ちらりとこちらを見やったニトロはへらりと笑っていた。 「別にあんたのためじゃない。目の前で死なれんのが嫌なだけだ」 ふん、と鼻で笑ってニトロは嘯く。それに彼の腕を掴んだままのダモンが首を振る。よほど心配なのだろう。うつむき続けるダモンの横顔をティアンは見ていた。 「とは言えな、馬鹿弟子よ。解毒する人間が先に倒れちゃ意味ねぇだろうが。自分の治癒が先だろ、普通」 「そりゃそうですけどね。俺は間に合うのはわかってましたし。ティアンがどんだけ持つか、そっちのほうがわかんねぇし」 「そういうのは言い訳、って言うんだぜ? 来な」 ダモンに向かってカレンは微笑んで見せる。精悍な表情にだろうか、ダモンは無言でニトロの腕を放した。それでも不安そうにニトロの側にいたけれど。それに目を留めたはずのカレンはけれど何も言わずニトロの手を取る。軽く目を眇めたかと思うと小さく笑った。 「ん、平気だな」 「って言ってるでしょうが。過保護すぎんだ師匠は!」 「――カレン師。僕には大丈夫には見えない」 戯言を叩きあう師弟にダモンが割って入った。ティアンはそれを見ているだけ。なにがどうなっているのかさっぱり。そう思ったことでやっと気づく。自分は毒を盛られたのかと。鈍いにもほどがあるだろうけれど、考えたこともない話だとティアンは絶句する。そもそもカレンの家で毒が混入する可能性など考えられない。 「私は水系魔術師だ。言ったよな? 倅の血に毒が混じってるかどうか程度ならすぐわかる。そういうことだ。心配するな、本当に大丈夫だから」 「俺も自信があったからティアンを先にした。ま、間に合わなくっても師匠がいたしな」 なんの心配もしていなかったとニトロは笑う。過信をするな、とカレンは渋い顔。それはまるで自分の手が及ばなかったら、と恐れるかのよう。 「……ニトロ。聞いてもいいか。何が、あったんだ? 誰かに、見張られてでもいたのか?」 先ほどの師弟のやり取りは、そういうことではなかったのか。ティアンの問いにニトロがわずかに顎を引いてうなずいた。それにも青くなるダモン。溜息をついてニトロが手振りで座れと促した。 「椅子もなんにもないところで悪いがな」 「ここは呪文の実験をするための部屋だからな。ほれ、馬鹿弟子。茶、飲んどけ。あんたらはこっちだ」 ニトロには損傷の回復を速める薬湯を、二人には香草茶を淹れてやりカレンもまた胡坐を組む。そんな仕種が妙に似合う女だった。 「まさかな、あんたらの敵が動いてないなんて、思ってねぇだろ?」 ニトロの言葉にダモンはうなずく。が、ティアンは唖然としただけだった。表面上、なにも動いていなかった。裏では目一杯に動いていた、ということか。なにも見えていなかった己を思う。 「闘技会の前からちらほら妙なやつらがイーサウに入ったって話は聞いてたからな。――ティアンは見てんだろうが。粋筋の姐さんがたから聞いてたんだ。あの人たちは危ねぇやつには敏いからな。普段はそんなの気づいてもいねぇって顔して相手してるけどよ、筋通して頼めば教えてくれる」 ちらりとニトロは笑った。どんな筋の通し方をしたのだ、と思ってしまうような笑み。だからこそ逆にニトロは本当に正しく筋を通したのだとティアンは思う。忌々しいほどいい男だと思ってしまった。 「師匠、解析。済んでます?」 「いや、まだだ。あとでやろうと思ってたんだが。敵もどうして打つ手が早ぇなオイ」 「畳みかけてくるだろうとは思ってましたけどね。がんがん来やがったな」 溜息を漏らしつつ師弟は獰猛に笑みをかわす。ぞっとしたはずのティアンは、ダモンを見やる。目の焦点が合っていない気がして不安だった。 「ダモン、見てくれるか。あんたのほうが早い」 ふい、と風が動いたような気がしたと思ったらニトロの手には矢があった、それも氷漬けの。闘技会でのあれか、とティアンが気づいたのを見たのだろうニトロがうなずく。そのニトロの手の中で氷が解けた。 「……これは」 見ただけで、嫌な気配がしていた。ダモンには確かめるまでもないことのよう、思える。なんとなく、あの時から背筋に痺れを感じないでもなかった。悟らせないために氷漬けにしていたのかとも思う。ほんの少し楽しい時間を過ごせばいいと。ニトロの心遣いがいまは痛くてならなかった。 慎重に鏃に触れた。薬指でそっと撫で、舌先にかすかに乗せる。知っていてしかるべき味がしただけだった。そうでなければよかったのに。 「毒矢、だな。もし当たっていたら、君は競技を終えることはできなかっただろう」 「すぐ効いたか?」 「だろうな。普通ならば競技を終える前に死ぬ毒だ」 「……なるほど? てことは、俺じゃなくてもよかったってことだよな。それ一本じゃなかったし」 ぎょっとしたティアンの眼差し。まさかと思っているのだろう。が、ニトロにとっては一本だけ毒矢を混ぜる方が不思議だ。ダモンも同感なのだろう。 「あんとき、火の壁になってたよな? その向こうから飛んできた矢、全部それだったぜ。火に煽られたせいだな、妙な臭いがしてたからよ。念のために焼き払って、これ一本だけあとで解析しようと思って残しといた」 肩をすくめたニトロに呆気にとられていた、ティアンは。こんなものを目の当たりにして、何事もなかったように競技をして、勝利の祝福まで受け取って見せた男。 「仕掛けてくるって覚悟してたからな。わかってりゃどうってこともねぇや」 はじめから闘技会で暗殺される、ニトロはそのための準備を整えていたと言う。ダモンは聞いていたのだろうか、否、それならばここまで動揺したりはしないだろう。 「それにしたってこの私の弟子を殺そうとして? この私の家で毒殺を試みた? なんだ闇の手ってのはどうやら自殺願望が強い馬鹿の集まりらしいな」 「ふつーは師匠を敵にまわそうって馬鹿はいねぇですからね」 「なんか言いたげだな?」 「別に?」 ふふん、と笑う弟子にカレンは拳をくれてやる。そう好戦的になるものではないと弟子にたしなめられた気がしてどことなくくすぐったい。 「いまデニスがイーサウに入った連中を捕縛に行ってる。もちろん、内密にな。闇の手に察知されると今後が動きにくいからよ」 ダモンを慰めようとニトロが彼の手をぽんぽんと叩いていた。うつむいたまま、かすかに震えているダモン。身じろぐように近づいて、ティアンはその顔を覗き込む。 「その、ダモン? 大丈夫か。具合、悪いか? 毒、効いちまってるんじゃ――」 自分の解毒をニトロがしてくれたのならば彼はカレンが。それでもダモンが心配だった。顔を曇らせるティアンに師弟がにやりとしたその時。 「――なんでだ? なんでティアンが殺される? 君の巻き添え? それならまだわかる。でも!」 カレンの自宅で、カレンの食卓に乗った料理に混入していた毒。ダモンには嫌でもわかる。闇の手には、それができると。同時に理解している。ティアンだけ、同じ皿から取った料理ですら彼だけ「毒を盛らない」ことが可能だと。それなのに。闇の手は、ティアンを。震えるダモンをニトロが見据える。 「そんなこと思ってねぇだろ? 俺もあんたもティアンも師匠も。ついでにデニスも。全員ひとまとめに殺しにかかってきたんだ。――闘技会ん時だってそうだぜ? ありゃ陽動だろうよ。魔術師の誰かが死にゃめっけもんだろうが。大騒ぎになる」 「だろうな。犯人は誰だ、自衛軍か!?って話になって大混乱だ」 「でしょ、師匠? 本当ならな、その混乱に乗じて俺らを殺しにかかってくる予定だったんだろうさ」 「……なんで、どうして。僕はいい。君やカレン師は、闇の手に敵対したことがあると言っていた。だからまだわかる。でもティアンは。どうしてだ!」 「邪魔だったからだろ?」 「そんな馬鹿な話があるか!? ティアンの契約は誰がしたんだ。するはずがない! ティアンのどこに殺さなければならない理由があるんだ! 僕にはわからない、ニトロ。わからない!」 「ちょい待て。落ち着け。理由がありゃいいのか、違――」 「あるから、契約を受ける。僕ら闇の手は、大いなる御力触れしスキエント様の裔、その御手の示すままにこの世にあってはならないものを粛清するのが務めだったんじゃないのか!?」 わなわなと、ダモンの手が震えていた。自失から立ち直り、惑乱するダモン。こんな彼ははじめて見た、ティアンは思う。何ができるわけでもない自分を省みて、けれど何かはしたいと思う。おずおずと、ダモンの手に触れた。ぎゅっと握り返してくるダモンの手。冷たいそれにティアンまで恐怖に駆られる。それにかまわずちらりと師弟が顔を見合わせ目顔でうなずきあう。はじめて理解が及んだと。 「君は……魔術師だ。君は、僕の知らないことを知ってる。そうだろ、ニトロ。どうなんだ。僕は」 「あんたが知らないことを知ってる、こともあるってだけだ。まぁ、スキエント? その名前に聞き覚えがねぇとは言わない。だけどな、ダモン。何千年単位で昔の話だぞ? それこそ神人降臨以前の話だ。俺の話もあんたの話も、どっちが真実かなんかわかるもんか」 「でも!」 「関係ねぇんだよ、ダモン。もしここに当時を知ってるやつがいたとしたってな、それはそいつにとっての事実でしかねぇ。あんたが信じてきたもんも、俺が知ってる話も。そういう意味ではおんなじだ。あとは――これからあんたがどうするかだ」 ティアンとは反対の手をニトロは取り、ふっと微笑んだ。それに縋るような眼差しを向けたダモン。情けなくてティアンは彼の手を握りしめる。ほんの少し温かくなった、そんな気がした。 「なるほどな。そういうことか。やたら結束が固いと思っちゃいたんだが、宗教的結束ってのは厄介だからな。やっと理解できたぜ」 カレンの精悍な笑みが場を引き締める。動揺もあらわだったダモンですら、背筋を伸ばした。まだまだ立ち直ったというわけにはいかなかったけれど。 「……僕は、はじめて闇の手の教えを疑います。いままで、どんなに何を言われても、信じがたかった。僕らは正しい務めを果たしていると、思ってた。――でも、ティアンは違う。絶対に違う。ティアンに殺されなきゃならない理由なんてどこにもない」 ダモンは言い切る。握られている手を意識してしまって、そちらに動揺しつつ。そして思う。いままでも、もしかしたらと。殺される理由がある人間など、本当は。青くなるダモンの頭、ニトロがかすかに笑んで手を置いた。 |