夢のあとさき

 闘技会当日、ティアンとダモンは貴賓席にいた。せっかくだから良い席で見るといい、と誘ってくれたのはカレン。隣にダモンがいる、それに落ち着かない思いをしつつティアンは眺め下ろしている。
 アイラが言う通り、それほど殺伐としたものではなかった。むしろ競技会、と言った方が正しいのではないかとティアンは思う。小隊規模の勝ち抜き戦や一対一の剣の勝負などもあるのだけれど。
「……なんだあれは」
 席にはアイラもいた。ティアンの呟きに彼女が吹き出す。その反応こそを待っていた、と言いたげ。ちらりとダモンが彼女を見やった。
「イーサウ名物、障害物競走、ね」
 言っている意味はなんとなく、ティアンにはわかる。確かに競技場には障害がある。あれを障害と片づけてよいものならば、だが。
「アイラさん……?」
 ためらいがちなダモンの声音がティアンには不思議だった。アイラにはいつも彼はそんな声で話しかける。引っ込み思案というわけではないはずなのに。ティアンの表情にカレンが肩をすくめていた。
「競技に出るのはね、魔術師たち。子供たちじゃなくって、大人のね。さっきニトロも行ったでしょ? あいつも出るから」
 ほら、とアイラが指し示す。ニトロの姿を認めたのだろう、ダモンの表情が明るくなった。あれ以来、みるみるとダモンは変わっているようにティアンは思う。痛みに襲われることもまだある。それを見てはいる。が、格段に回数が減っている。それをティアンはなぜか喜べない。
「あれが障害か?」
 アイラと話し続けるダモンを見ているのも嫌で口を挟んだティアンだった。何もかもが嫌なような気がしてくる。アイラも、ニトロも。内心でそっと溜息をついた。
 ティアンが示したものをダモンは興味深そうに見ていた。競技の障害、というものがそもそもよくわからない。けれどティアンも首をかしげているのだから一風どころではなく変わっているのだろう。
「やっぱり珍しいよね。あたしは見慣れてるけど」
 隊の仕事で各地をまわるアイラだ。イーサウ以外の土地をよく知っている。それでもここのような競技を見たことはない。むしろ競技を楽しむ、という習慣がない土地も多い。
「兵士の訓練で、土嚢を積んだやつを飛び越えたり、とかは見たことがあるけどな」
「そう、なのか?」
「お……おう。あるよ。いや、あそこでは、やってなかった」
 ダモンに話しかけられて動揺してしまった。それを彼はどう解釈したのか、静かに目をそらして微笑む。そんな顔をさせたいわけではなかったというのに。
「ここではね、黙っておいてある障害なんて簡単すぎるって文句が上がるのよ」
 主に自衛軍の兵士から、とアイラは笑う。競技場にはその兵士たちがずらりと勢揃いして魔術師たちを待ち構える。手に手に藁束だの水の入った桶だのを構えている。
「って、待て。松明持ってるやつまでいるんだけどよ?」
「そりゃいるわよ? あっち、見て。火矢の用意も万端よ。油だって用意してある。あれ、大変だったんだからねー」
 準備をしたのは黒猫だ、とアイラは朗らかだ。競技の性質がわかってきたのだろうダモンが少し青くなる。ニトロが心配なのだろうか。
「ま、あんなので怪我するようなやつはいないわな、うちには」
 ふふん、とカレンが鼻で笑っていた。いかにも楽しげで、なんとも物騒。そんな表情がいやになるほどよく似合う女だった。
「ニトロも、ですか。カレン師」
「もちろん。あれで怪我なんかした日にゃ、お母さん。今夜はおうちに入れてあげられないなぁ」
「……誰がお母さんですか。もう」
 ぼそりと言ったのはデニス。学院側の教師として彼もこの場で観戦している。苦労性のようで最近は頭痛が酷い、とティアンに向けて笑うけれど、戯言だとティアンは苦笑して済ませた。
「あ、はじまるよ!」
 ぽん、と大きな音がする。あの音を出しているのも実は魔術師だ、とティアンは先ほど聞いたばかりだ。魔法とは色々なことに使えるものなのだ、とはじめて知った。
 一団になって駆けだして行く魔術師たち。歓声と悲鳴と。イーサウという国の有様を見るかのよう。観客は盛んに声援を送っていた。
「あんな風に、走れるんだな」
「ティアンも魔術師は虚弱だと思ってる口でしょ。昔はそうだったみたいだけどね、今はちゃんと体も鍛えるんだよ」
「風に当たっただけで体壊すような魔術師はなぁ。研究一筋は否定はしないが、自分の肉体くらいは面倒見れねぇとな」
「面倒見るなんて段階を超えてる気がしますよ。カレン師」
 ティアンの苦笑にカレンが首をかしげる。本当に不思議そうで、こういうものだと思っているらしい。
「魔法が当たり前にある不思議、だな」
 ティアンに話しかける、というよりは呟きめいたもの。それでもダモンに声をかけられたのだとティアンは思う。彼の気分を害さないようそっとうなずけばほんのりとした微笑が視界の端に。ダモンの目は競技に参加するニトロを見ていたけれど。
「実はあれ、すごいことなんだよ? 走りながら詠唱するって、それだけで大変みたい。考えてみればあたしたちだって走ってるときにお喋りはしないしね。考え事だってしない。でしょ?」
 それだけのことを易々とやってのけるのがイーサウの魔術師だ、とアイラは言う。ダモンのきらきらとした眼差しが気に食わなかったけれど、たいしたことをしているのだとは認めざるを得ないとは思った。
 いままでも兵士たちは藁束を投げつけ、水をぶちまけ。あまつさえ矢まで射掛ける始末。まさかと思ってよくよく見れば訓練用の潰した鏃などでは断じてない。唖然としているのはティアンくらいなもの。兵はなんとか魔術師たちを妨害しているのだけれどそんなものに害されるような魔術師は今のところ出ていない。気軽な散歩のような顔のまま全員が見事に回避している。ニトロなど水を操って虹を描き出しては歓声を浴びている有様だ。
「意外とお茶目でしょ、あいつ?」
「そう、かな? 意外でもない気がする。ニトロは自分で言っているより面倒見がいいと僕は思う」
「だって、おば様。すっごく嬉しかったりするんでしょ?」
 笑うアイラにカレンが苦笑を返す。真っ直ぐに言われると言い返しにくいらしい。それをデニスが笑っていた。
「今年は気合入ってるなぁ」
 くすりとアイラが笑った途端だった。撒き散らされた油に火が放たれる。まるで炎の壁。その向こうから飛来する矢もまた燃えはじめ。先頭を走っていたのはニトロ。
「あ――!」
 ダモンの声にティアンのそれがかぶさる。鮮やかなものだった、ニトロのそれは。軽やかな手の一振り、ただそれだけで彼の手にはあの青碧の魔剣が。詠唱などここからでは聞こえるわけはない。それでもなお、まさか詠唱をしていたのかと疑うほどの。
 その魔剣が雨あられと襲い来る矢を切り伏せ、かと思えば鮮やかに燃え上がる。あとに残るは灰だけ。そして観客が息を飲んだ音が聞こえた。眼前に迫ってくる一本の矢。防ぎきれなかったそれは。
「師匠! 俺の勝利に!」
 わっと客が沸き上がる。ニトロの剣がぎりぎりのところで矢を弾いたと見えた次の瞬間、それは氷に覆われカレンの下へと飛来していた。
「ちっ! 危ねぇだろうが!?」
「避けろ、それくらい!」
「避けるわ!」
 言い合う師弟の声が観客の一部には聞こえたらしい。どっと笑い声が上がった。それをぼんやりと見ているほど、ティアンは驚いていた。何があったのか理解が及ばない。
「これが、技の冴え、ということなんだな……」
 ダモンの呟きについ、うなずいてしまった。二人顔を見合わせてそっと長い息を吐く。詰めていたといま気づいた。そして瞬いては視線を外す。同時に。
「お母さん、こういうお土産は嬉しくねぇんだけどなぁ。なんでこんな倅に育っちまったかね。物騒でかなわねぇや」
 呆れたと言わんばかりの溜息にティアンもダモンも救われた。アイラが何かを言いたそうな顔をしたけれど、軽いカレンの手がそれを留めている。気づいたのはデニスだけだったが。そのデニスが師を見やっては肩をすくめた。
「師匠。蛙の子は蛙って言葉、知ってます?」
「おうおう、言うようになったもんだぜ、子蛙一号。二号のお土産だからな、大事にしまっとけよ?」
「ご自分でやればいいでしょうに!」
 言いつつ笑ってデニスが何事かを口の中で言う。カレンの手から受け取ったばかりの矢はふわりと蕩けて消えた。ようにティアンとダモンには見えた。
「可愛い息子の勝利の証だからね。師匠はちゃんとしまっておきたいんだと思うよ」
 だから家にしまっておく、とデニスは笑う。彼はカレンやニトロに比べると魔力が少ないのだと以前言っていた。だから最先端を目指す魔術師にはならず、幼い者を導く役をするのだと。その彼にしてこの腕だった。
「魔術師を敵にしてはならないという言葉の意味が、ようやくわかった気がします」
 すべての矢を一人で叩き落としてしまったニトロはそのまま炎の壁に突入する。いとも容易く、まるでただなにもない道を走り抜けるように。火の中に飛び込んだときにはさすがに観客から悲鳴が上がった。そして無傷で出てくるに至って歓声に変わる。
「怖いか、ダモン?」
 そのニトロの師の真っ直ぐな目がダモンを見ていた。ティアンはわずかにぞっとしていたのを悟られたくなくて強いて平静を保つ。気に食わないニトロではあるけれど、力を貸してくれているのは事実。その師を恐れる必要もない。何よりマーテルがいる。すでに戦友と言うべき男もまた魔術師だ。
「いいえ。魔法は、怖いかもしれません。でも、魔術師は怖くない。僕はニトロを知っている」
「いい答えだ。倅はいい友達を持ったな」
「……世話になりっぱなしで。僕を友人と言ってくれる理由はやっぱり、わかりません」
「そうか? 理由なんてないと思うぜ。ただ気が合った、それだけだろ、ダチなんて。ダチの面倒見るのは当たり前ってもんだ。自分ができることをしてる、あいつはそう言うだろうよ」
「気が、あった――」
 己の呟きにティアンはそよ風を感じた、ダモンが振り返っては自分を見つめた気配。何も見なかったふりをしている間にニトロの勝利だった。
 歓声を浴びながら競技場をもう一巡りしているニトロ。片手を上げ、観客に応えている。ダモンはそれをどう見ているのだろう。横目で見やればニトロではなく、自分を見ていてティアンは息を飲む。
「気が合うのが、友達。なのかな」
 いっそ、とばかりティアンは真正面からダモンを見つめた。彼は言葉を続けない。ダモンにとってニトロは友人ではない、そう言いたいのだろうか。あるいはまったく別の何かなのか。
「俺は――」
 温室で、気が合ったのは確かだ。それは否定しない。けれど、それだけではなかったと思う。ならばなんだと尋ねられてもティアンに答えはなかった。




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