夢のあとさき

 イーサウの春は早い。しかし夏の訪れは遅かった。涼やかな風が澄んだ空に吹き渡る。それがイーサウの初夏。
「なのに、闘技会? 殺伐としたもんだ」
 しばらく前から狼の巣ではその準備に忙しい。当然にして黒猫も駆り出され、ティアンも同様だ。闘技会など、良い印象のないティアンをアイラが笑った。
「そうでもないのよ? 生徒さんたちも参加するからね」
 聞けば魔法学院と兵学校の生徒たちも参加するのだと言う。もちろん主体は自衛軍だが。黒猫も参加するし、魔術師有志も加わる、とアイラは言った。
「さすがにおば様たちは出ないけど」
 彼女たちのような強力な魔術師が参加するとお祭り騒ぎではなくなってしまうらしい。ティアンに実感はなかったが、彼女の力量のほどが少しわからなくもない、と内心に思う。
 ダモンの呪いだった。否、自分も呪われてはいるのだが。ティアンは痛みを経験したことがいまだない。ダモンはあれ以来、どこか心持ちが変わったのか身動きできないほどの激痛に襲われることだけは、なくなった。日々多少は痛んでいるらしいが。
 ――ニトロの。
 おかげなのかせいなのか。ティアンはそこを考えない。ダモンが変化した、それだけが心にわだかまる。自分ではなく、ニトロによって変わった彼が。
 そのニトロは学院側の魔術師として設営に加わっていた。彼の兄弟子であるデニスが教職だからその縁なのだろう。あれこれと忙しく働いている姿をよく見かける。同時に他のものも。
「相変わらずよね、あれ」
 くつくつと笑うアイラだった。ティアンとしては不快でしかないのだが、彼女にとっては見慣れた景色、らしい。
「そう、なのか?」
「そうねぇ。前からだもの、あいつが粋筋にもてるの。なんでかなって思うけど」
「俺には……理解できないな」
 高々と金髪を結いあげた美女、あるいは華やかな赤毛の男性。いずれも夜の街の人々だろう。昼間から見ると非常に違和感がある。それ以上に。
 いまニトロは屈託があるのだかないのだかわからない曖昧な笑みを浮かべて長い黒髪を一つに結んだ少年といた。楽しげに話す相手にいい加減に返答をしている、ように見えてきちんと相手をしているのだろう。会話は長く続いていた。覗き込んでくる少年にうなずき返したり、腕に縋っては微笑む彼からわざとらしく視線を外したり。お前には、ダモンがいるのではないか。言いたくなってしまう。拳を握るティアンをアイラが見やっては肩をすくめていた。
「遊び方が綺麗、らしいわよ? だから好かれるみたい」
「らしい?」
「いくらあたしだってあいつが娼館に上がるのについて行くわけないでしょ?」
 呆れて笑われて、少し気が楽になった。息が抜けるよう笑うティアンをなんとも言いがたげなアイラが見つめていた。
 狼の巣にはイーサウで一番大きな演習場がある。それはこの町を拓いたのが「暁の狼」という傭兵隊だったせい。隊はなくなってしまったけれど、その功績を称え今でも自衛軍の精鋭は狼隊を名乗る。
 その大きな演習場が闘技会の会場だった。普段は殺風景なそこに客席を設え、天幕を張り、と準備に大わらわだ。
「こういうときに魔術師は便利なのよね」
 人の手でやるよりよほど仕事が早い、屈託なくアイラは言う。イーサウだな、とティアンは思った。アイラとしては別の言い分があるだろう、良い隊に魔術師が在籍するのは傭兵隊の常識だと。が、ティアンはそれを知らない。イーサウという国らしい、そう思っていた。
 魔術師が、当たり前に存在している、この不思議。住み分けている、とでも言おうか。人力でやっていては時間がかかる、手間がかかる。そんな時イーサウの住人は易々と魔術師を頼る。考えたこともなかった景色だとティアンは思う。
 わっと声が湧き、演習場に子供たちがなだれ込んできた。何事だと思っているうちにニトロが彼らを呼び集めては仕事をさせる。どうやら学院の生徒のようだ。
「さすが学院の子。いい腕してるわよね」
 これから魔術師になろうとする子供たちだった。年の頃は十代半ばから後半。アイラが言うにはそろそろ先を考えだす年齢だとのこと。
「学院を卒業して、魔術師になるのかどうか。色々悩む年らしいよ」
「悩む? 魔術師になるために、勉強してるんだろ?」
「そうでもないみたい。学問として習ってる子もいるっていうし、何より一人前の魔術師になるかどうかは別問題、らしいわね。魔力を制御するだけで充分って子はいくらでもいるし」
 考えたこともない話だな、とティアンは内心で苦笑していた。そもそも大人の魔術師ですらほとんど見たことがないのだから子供がどうの、など考えたことがないのも当然というもの。
「兵学校の子供は?」
 つい、尋ねてみたくなったのはなぜだろう。イーサウという国に興味が出てきたか。ふと思い出す。森の中、兵学校の教師でもやればいい、ダモンは店を持てばいい、そんな戯言を聞いた記憶。叶っているような、いないような。
 長閑なことを考えているのはきっとなにも変わらないせいだ。ダモンとの関係は硬直したまま、両伯爵家にも動きはない。無論、闇の手も。カレンの懸念などただの杞憂だったのではないだろうか。伯爵家は諦めたのではないか。そう思いたくなる。
「材木を切り出してきたのは兵学校の子よ。体の鍛錬にちょうどいいからって、毎年やらされてるわ」
「アイラも?」
「あたしはやってない。兵学校出身じゃないからね。あたしには学校より優秀な先生がいっぱいいたから」
 黒猫に育てられた彼女。小さな女の子に一流の傭兵たちはその持つ技すべてを教え込んだ。できれば書記だの折衝だの、後方の技をこそ選んでほしいと願いつつ。
「万が一あたしが剣を選ぶなら後れを取らせたくないってね。傭兵の負けはすなわち死に直結してるし」
 タスとユーノの兄弟はそれをとことんまで教えてくれた、とアイラは言った。何をしても勝てと。傭兵の勝利は自分の命だと。すでに何度もアイラの剣を見ているティアンだった。そこまで突き詰めた剣ではないように思う。甘いわけではない。
「……アイラの剣には、倫理がある、と思う」
「そう? ありがと。みんなが喜ぶわ、それ」
「そうなのか? 偉そうなこと言ったなと思ったんだけど」
「傭兵は勝つのが商売でもね、勝ち方ってものもあるし。生き汚いのは当然なんだけど、何をしてでも勝てってものかと言えば、それもちょっとね。それでも勝たなきゃならないときには絶対に勝つ。それが傭兵」
 誇りがあった、彼女の言葉には。剣にあるのと同じ誇りが。自分の剣にそれはあるか。ティアンは自問する。答えはなかった。剣の腕を売っているとは言っても、宴席に連なることの方がずっと多かった剣士の人生。倫理もなにもなく、ただひたすらに己の命をかけて勝つために戦ったそれ以前の人生。じっと手を見る。
「あたしはあなたの剣、好きよ。実戦的で、とても有効」
「――ニトロに、言われたな。それ」
「なんだ、そうなの? あいつの剣は見たことある? すごいよ。魔術師のくせに。でもおば様はもっとすごい。あれに勝てって言われたら、あたしは猫の全部隊を投入する」
 それでも勝てる気があまりしないとアイラは笑った。どんな魔術師だ、否、生き物だとティアンは呆れる。アイラの冗談だとは不思議と思わなかった。
「隊長。ここにいたんですか」
 マーテルだった。隊舎のほうから駆け寄ってきて、しまった、と顔を顰める。子供たちが設営をしているのが目に入ったらしい。
「いたわよ。どうしたの」
「いや、別に。見かけなかったんでどこに行ったのかな、と。ぬかったな……」
「ん?」
 くりり、と目を丸くしたアイラにマーテルが肩をすくめる。兄妹のような気安い仕種。傭兵隊は家族、そう言っていた言葉が理解できる気がした。
「マーテル!」
 遠くからニトロの声。笑いながら手を上げている。いつの間にか華やかな人たちは消えていた。先ほどまで子供の監督をするニトロを眺めていたはずなのに。
「あー、なに?」
「いるんだったら手伝ってくれ。暇だろ? 暇だよな? 俺がいま暇にした。手伝え」
「ったよ! 隊長――」
「いいわよ、手伝ってあげて。ニトロ、貸し一つね」
「あいよ、なんか買ってやるよ、今度。考えときな」
「買うんじゃ嫌。作って」
「へいへい。お嬢様の仰せのままに。剣がいいか、短刀か?」
「短刀。よろしくね」
 可愛いおねだりだと思って聞いていたら殺伐としたものだった。呆気にとられるティアンをアイラが笑う。
「だってあたし、傭兵だもの。可愛い髪飾りをもらうより切れ味のいい短刀の方がずっと嬉しいし」
「……可愛いの、似合うと思うけど?」
「あたしに言ってどうするの? そういうのは別の人に言いなよ。言わなきゃならない人、いるでしょ」
 なんのことだとティアンは首をかしげるふりをした。内心ではぞっとしている。アイラの指摘、ダモンのことに違いない。間違っている、そう言えたなら。言えない理由はただ一つ。
 ――本当に、友達なのか。
 自分で自分がわからなくなりつつあった。ダモンと温室で過ごしたあの時間。あれだけが大事だった。できることならばあそこに戻りたい。不意にニトロの言葉が蘇る。
 ――取り戻したいもの。俺が、取り戻したいものは、なんだ……?
 流れ剣士の人生ではない。あれはあれで楽しくないとは言わない。が、いまこうして黒猫の剣術師範をしているのもまた楽しい。ならば伯爵家に追われることのない生活か。ティアンにはそもそもその実感がない。ないものをどうしろと言うのか。
 あるいは、友人。ダモン。彼を、取り戻したいのか。ティアンはじっと自分の手を見ていた。この手にあるのはなんだとばかりに。いまはない、なにもない。ふと思い出す香りは幻のそれ。温室でダモンが調香していた、あの香り。
「誰、なんだ……?」
 あるいは、誰を、選んだのか。ダモンはニトロを選んだ。そう思うだけで腸が煮えくり返りそうな気がする。その理由だけが、飲み込めないままに。
「大人の手がいりそうね。ティアン、手伝ってちょうだい」
 マーテルとニトロに監督される魔術師の卵たち。楽しげに頑張っていたけれど、手が足らなそうだった。ここは魔法など使えなくとも大人の手を貸すべき、笑って言ったアイラに救われティアンもまた進み出る。ちらりとニトロが見やってきた、そんな気がした。




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