扉を開けたとき、ティアンが見たのはそんなダモンだった。頬に流れる涙。唇を歪めながら笑ってニトロを見ていた。ぎゅっと握りしめた腕輪は、ニトロが贈ったものに違いない。 「あ……」 ティアンに気づいたのはダモンの方が早かった。おもむろに振り返ったニトロの忌々しいほど涼しげな笑み。 「あ、いや。その……」 言葉に詰まった自分を嗤っている気がした。立ち尽くすティアンをどう思うのか、ニトロの手が不意にダモンに伸びる。繊細な指先が涙を拭ってやっていた。 「よせ、やめろ。ニトロ。恥ずかしい――」 ぽ、と赤くなったダモンの頬。ティアンは目をそらそうと思ったのになぜかまじまじと凝視していた。まるで背中に目でもついているかのよう、向こうを向いたままのニトロに見られている気配。 「なんだよ? あんたに照られると俺のが恥ずかしいっての」 喉の奥で笑うニトロをダモンは悪戯に睨み、自らの拳で涙の名残を拭う。その間にも腕輪は握ったままだった。それほど大事なのか。問いそうになったティアンは唇を噛む。 「で、ティアン。なんの用だよ?」 振り返ったニトロのどこか面白そうな顔。何がそんなに楽しいのか。自分を馬鹿にして、勝ち誇って。それがそんなにも楽しいか。口をつきそうになった言葉はすんでのところでこらえられた。 「いや。別に。――アイラが、心配してたから。それだけだ」 ニトロではなく、ダモンを見てそう言った。それに肩をすくめたのはニトロ。どういう意味だ。心の中で彼を問い詰める。口に出すのは、怖かった。 「そう、か。ありがとう」 一日店を閉めていたからアイラは気にかけてくれたのかもしれない。それをわざわざティアンが伝えに来てくれる意味が、わからなかったが。視線を落としたダモンをティアンはどうしていいのかわからない。 「じゃ」 手を上げて、部屋を出るしかない。ダモンがこちらを見ているのかどうか、それだけが気になった。扉をくぐる間際、首だけかすかに振り向ける。ダモンは眼差しを伏せたまま、腕輪を握っていた。気づいたのだろうニトロの厳しい視線がティアンを射抜く。何も見なかったふりをして、今度こそティアンは部屋を出た。 物言いたげなカレンが待っていた。それにもティアンは目礼だけをして彼女の家を出る。いまは何も言いたくなかったし、誰とも話したくない。 「……ダモン」 すぐ隣の家に帰れば、どこか空しい。ほんのしばらくの間とはいえ、ダモンと二人で過ごしてきた家。いま彼はニトロの下に。そう思えばたまらない。 「俺の方が――」 友達だと思っていた。心に呟き、馬鹿馬鹿しいと思う。友人を取られたからといって惑乱するほど自分は子供だったのか。青ざめた苦笑にティアンは気づかない。 「あんな顔で」 笑うのか、そう思った。ニトロを見ていた少し眩しそうで、嬉しそうで。それなのに泣いていたダモン。嬉し泣きなのだと、気づかないほど鈍くもない。 なぜ、と思う。どうして自分ではないのかと。不意に拳を握りしめ、痛みを覚えてはそれと知る。そして思う。ダモンの手の中には彼の腕輪があったと。 「そういう、ことなのか……?」 ニトロに愛を打ち明けられでもしたのか。それが嬉しかったのか、ダモンは。ならば理屈はあう、と思ってしまう。思うけれど、腹の奥に抱える熱。苛立たしかった。 「どうして」 自分ではない。ニトロの方をなぜダモンは選んだ。思った途端に息を飲む。そんなことを考えたことはない、たぶんない。モルナリアの温室で、ミルテシア人らしく寝室の際どい冗談を放っていたダモン。誘われて、いなして。ただの言葉遊び。ダモンは掛け替えのない友人で、そして。 「俺を嵌めた――」 呟き、ティアンは呆然とする。自分が何を考えているのかわからなかった。彼に嵌められた。本人もそう言っている。怒りはないわけではない。それでもそれは、何に対する何の怒りなのだろう。いまになって思う。 「ダモンは」 殺されたいと祈り、願い、衰弱するほど痛みを受けていた。自分は一度として。それだけ彼の願いは本物で、自分のそれは違うということなのか。 「俺は、どうしたら」 掌を見る。この手にあったものはなんだろうと。温室でのダモンの笑みが浮かんだ。モルナリアを逃げてからずっと心配していた。ダモンが無事でいるかどうかだけ、それだけが不安だった。 「もう一度」 あの時間に戻れたら。静かで穏やかで、自分たち以外には誰もいなかった温室に。ダモンのかすかな笑みと、彼の調香する香り。 知らずティアンは足を進める。いままで一度も入ったことのない場所へ。この家は元はカレンの家だったという。魔術師の彼女には実験をするための工房なるものが必須だとあとで聞いた。それがここだったらしい。いまは、ダモンの調香室になっている。 「……すまん」 勝手に入れば、ダモンは嫌な気持ちになるだろうか。そんなこともわからない自分をティアンは嘲笑う。友人だったはずなのに、こんなことも。 扉を開ければ、ふんわりと香りがした。まるで実験室の様相をした調香室。大きな卓の上には様々な道具が使いかけのまま放り出されている。痛みの強さに部屋から這い出して、そして倒れたダモンを思う。 「あ――」 己はどれほど愚かなのか、とティアンはできることならば自分を殴りたい。部屋の片隅にあったのは固い簡易寝台。あれでダモンは眠っていたのかと思えば忸怩などではとても済まない。 「俺が、ふかふかのベッドで寝てる間、お前は」 痛む体を抱えてダモンはここで眠っていた。考えたことがなかった愚かさにティアンは嗤うこともできない。どこで眠っているのかと思いもしなかった自分。 「これじゃ、俺より」 ニトロを選ぶはずだと思ってしまった。ダモンの目に浮かんでいた信頼を思う。自分に見せてくれたことはあっただろうか、あんな光を。いつも後悔にも似た色をしていた気がする。 「お前が」 本当の身の上を偽っていたから。ただの調香師ではなく、暗殺者としてあの場にいたから。巻き込むとわかっていて、親しくなった。 「それでも」 親しくなったのは、彼の意志だったと思いたい。自分だけではなかったはずだ。友人だと思っていたのは。それとも。 ティアンは思う。自分だけだったのだろうか。独りよがりの思い込みだったのだろうか。ならば彼がニトロを。 「いや、違うだろ」 それとこれとは別の問題のはず。ぐい、と首を振れば混乱はよけいに深まった気がした。望んでいるのは、なんなのだろう。友人か。それとも、あのような眼差しで見てもらうことなのか。かっと頬が熱くなり、またも首を振る。その拍子に気づいた。 「これ、知ってるな……?」 なんの匂いだろうか。調香室には様々な匂いが立ちこめていて、ダモンではないティアンには区別がつかない。その中に一つだけ、嗅ぎ分けられたかもしれない匂いがあった。 「これ、か……?」 棚の上に大事に置かれている小瓶だった。どう見ても完成した香油の瓶。ダモンはここでは小瓶に詰めてはいないはず。もっと大きな瓶に入れて店まで持って行っている。ためらいがちに手を伸ばし、ティアンはそっと栓を抜く。鼻先に漂ってくる香りは、確かに知っているものだった。 「これ――」 どこでだろう。なんだろう。確かに知っているのに、よく思い出せない。じっと立ち尽くし、記憶を探る。それはダモンと過ごした時間を追想すると同義だった。彼の言葉、かすかな笑み。珍しく大きく笑った表情。採取だ、と言いつつ森に出かけたあの日。 「あ……」 ふと思い出す。この香りのことではなく、別の香りを。ダモンが伯爵に調香していた数多の香油。顔を顰めて何度となく実験していた彼の表情。時折、試してくれないかと差し出してくる香油。それのうちいくつが伯爵の香油になり、いくつが毒の基礎となったのだろう。いまのダモンは好きな調香をできているのか。否、彼は答えた。 「これ、なのか」 誰にも知らせるつもりはないと言い切った香りがある。こちらに来て好きな調香をしているのかと問うた自分へのダモンの答え。間違いない自信がなぜかある。どこから湧くのかもわからないのに、確信していた。 「……ニトロに」 調香したものなのだろうか。ネイトという亡くなった彼の友人に捧げた香りをダモンは作った。ならばニトロにだとて。あのような顔を見せていたのだから。 「あいつに、これは似合わない」 握りしめた小瓶、割れてしまえとばかりに。そんな自分を小さく笑い、ティアンは小瓶を元に戻す。嫉妬はみっともないと内心に呟き。 「な――」 そして己の思いに愕然とする。嫉妬とは、何にだ。誰にだ。言うまでもない、ニトロに。では、なぜ。激しく首を振り、ティアンは思考を止める。考えたくなかった。少なくとも、今は。幸い、だったのかもしれない。 「あ……」 薄い気配は、彼が暗殺者であったからなのか。家に戻った気配も戸を開ける気配もしないままにそこにダモンがいた。 「あ、いや、その。……悪い、勝手に入った」 「いや――」 「……体は」 もう大丈夫だ。言葉少なにダモンは言う。本当に大丈夫なのでなければニトロが戻すまい。ならば最低でも物を口にできる程度には戻っているのだろう。そう思ったことで気づく。とっくに夜も更けているらしいと。ずいぶん長い間ここに佇んでいたことになるティアンはそっと苦笑していた。 「これは、ニトロに?」 混乱のなした業だったのか、それとも傷を押す快感に似たものだったのか。戻したばかりの小瓶を指し、ティアンは尋ねていた。一瞬だけダモンの顔色が変わった気がする。それでも彼は平静を保ち、首を振る。 「いや――。カレン師の、お師匠様という男性は同性愛者なんだそうだ。香油と聞くとニトロは別の用途ばかり思い浮かんで微妙な気分になるから、と」 断られてしまった、ダモンは小さく笑った。ニトロに調香したい心はあったのだと図らずも確かめてしまったティアンは視線をそらす。 「――ここには、入らない方がいい。毒もあるから」 あの日に君を惑わせたのと同じ毒が。呟くよう言うダモンの声。聞きつつもティアンは何を思うこともできずにいた。どこかで嗅いだはずの小瓶の香り。それだけが思い出せないままに。 |