夢のあとさき

 歪んだ視界の端に、椅子の背にもたれたまま腕を組んで眠るニトロがいた。ゆっくりとした深い呼吸。なにが起こったのかすぐさま把握できたのは訓練ゆえか。苦く笑ってダモンは半身を起こす。
「なんだ、起きたか」
 不意に目を開けたニトロ。深い深い青が少し、くすんでいる。心配されたのだ、とダモンはうつむいた。
「そんな顔すんじゃねぇよ」
 その頭の上、ぽんと乗せられたニトロの手。意外と大きな手が髪を撫でるでもなく頭上にある。思いの外に温かかった。
「……ごめん」
「詫びんな。――あんたな、我慢強いにもほどがあるだろ」
 どことなく苦笑してでもいるようなニトロの声。視線を上げれば手が引かれる。心細くなった自分が意外でダモンは目を見開く。気づいたのだろうニトロがそれを笑っていた。
「僕がどういう人間か、君は知っているだろう。痛みに対する訓練は、嫌と言うほどやったよ」
「それにしたって、だ。こっちは魔術師だぞ?」
「それが――?」
 痛みは痛みだ。どれほどの痛みであろうとも、訓練で耐性はつく。死ななければいい。否、最悪の場合は死んでしまえばいいだけのこと。口を割るよりよほどいい。思い返してダモンは小さく笑う。
「あのな、呪いの痛みってのは、あんたの肉体が痛みの限界を決めるんだ」
 どういう意味だろう。首をかしげるダモンにニトロは内心でだけ渋い顔。限界ぎりぎりまで、彼は耐えてしまった。耐えられてしまった。それが忌々しくてならない。そうした、闇の手という結社が。
「魔術師本人が痛みを決めるんじゃない。あんたの体が死なないぎりぎりを決めるんだ。――それを耐えるなよ、もう」
「だって……その、僕は」
「師匠にも誤算だったらしいけどな。そこまで耐える前に考えを改めてくれるだろうと思ってたみたいだぜ」
「……それは」
「俺は無理だと思ってた」
 断言されてほっとする。同時に、空しくなる。そう思った自分が不思議で、ニトロを見やればにやりとされた。
「少し、考え方は、変わったみたいだな?」
 からかう声音のままニトロは側に置いてあった鉄瓶を手にする。それに向かってぶつぶつと言う彼。何事だ、と目を剥く間もない。沸々と滾り、香りが立つ。
「ほれ、薬湯だ。だいぶ衰弱してるからな。中身は言わなくっても嗅いでわかんだろ?」
「あぁ……わかる。ありがとう。それ、魔法? 便利だな」
「おうよ。だから鉄瓶なんだ。陶器だと割れちまってよ」
 からからと笑うニトロは何度も失敗をしたのだと言う。幼かったころの失敗だと笑う。薬湯に口をつけながらそんな話を聞いていた。穏やかで、虚ろで。どうにもならない。
「なぁ」
 まるで話の続き。けれどニトロの語調。ダモンはそっと眼差しを伏せる。それでも彼は止まらない。止めるつもりがダモン本人にもなかった。
「きついこと言うようだけどな、言ってもいいか?」
「かまわないよ。僕は何を言われても、仕方ないと思ってる」
「そうじゃねぇんだけどよ。――まぁ、いいか。あのな、ダモン。あんたが死んで、何か解決がつくのか?」
 ざくりと音がしたかと思った、ダモンは。せめてティアンに殺されたい、そればかりを願って今ここにいる。ニトロの言う通りだ。何も解決などしないとわかっていてなお。
「あんたにも、解決しないってわかってる。だったらな、ダモン。なんか別の方法ってのを探す方が、建設的じゃないのか」
「……だって! そんなこと、できるわけがないだろう!?」
「なんで?」
「当たり前じゃないか、ニトロ! 僕は何をした? ティアンを嵌めた。ティアンの人生を駄目にした。――こんなに、彼が好きだ。好きなのに、僕は何をした!?」
 ぐっと拳を握り、のみならず自らの体を抱え、押し殺した叫びを上げるダモン。ニトロにはかける言葉がない。それに関しては、どうあっても。自分は友人であって、ティアンでもダモンでもない。
 ――弁えがついてるってのは忌々しいもんだぜ。
 心の中で呟けば、感じ取ったのだろう師の含み笑いの気配。きっぱりとニトロは師を締め出した。それをよしとするような彼女の満足だけが後に残る。
「それ、ティアンに言ったのか?」
「言えるわけがないだろう! 君は何を考えてるんだ!」
「言えばいいのになーって考えてた。だってな、ダモン。ティアンはなに考えてるんだ? なんで、あんたが、あいつを、助けたのか、疑問に思ってねぇの?」
 わざわざ区切って言う意地の悪さ。笑みもそこはかとなく根性が悪い。それでもダモンはその笑みに安らぎを見出す。こんなことでからかってくれる友人とはいかに貴重か。馬鹿馬鹿しいほどありがたい。
「……それは、思っては、いるみたい、だけど」
「その程度か。ったく。もっときっちり疑問に思えっての。ダチだからってな、身を挺して助けるかよ」
「……それを君が言うか?」
「俺にゃそれができるだけの能力があった。それだけだ。あんたは死ぬ気でするしかなかった。この違いはでかいだろうが」
 ニトロは命などかけずともダモンを救えた。目の前で死なれるのは気分が悪い、その程度で手を差し伸べることができた。ダモンは違う。覚悟の違いだ、ニトロは言う。
「あのな、あんたはそんだけティアンに惚れてる。ネイトの香油を作ってくれたこともそうだ。あんたは、別に死にたいわけじゃないんだと、俺は思ってる」
「死んで詫びるより、他に何が僕にできる?」
「さあな。それを決めるのは俺じゃない。でも、方法はあるんじゃないかと思ってる」
「……どんな」
「だから、それを考えるのも決めるのも俺じゃないっての。あんただろ。生きて行くのはあんただ。それとも、さっさと死にたいか?」
 問われてダモンは黙る。いっそ死んでしまいたい。それは確かにそう思う。ならばニトロの手にかかってでも死にたいか。内心に問えば即答できる、違うと。ニトロの質問の奥の意味をダモンは考えていた。
「とりあえずいま、あんたは生きてる。だったら方法はきっとある。方法を探る努力だけは、できる。――まぁな、努力はしたんだから解決できなくっても許してくださいってわけにはいかねぇよな。それはそうだ」
「頑張ったからそれで許してくださいって? そんなに甘いものではないだろう」
「そりゃそうだ。けどな、俺は思う。あんたは、少しは変わった。何がどうとは言えない。それでも、なんか変わったなって気は、してる。だったらこれからだって変わっていく可能性はある」
「僕が、変わっても――」
「意味はない? そんなこたぁねぇだろうよ。それ以上にな、あんたが変われば、ティアンだって変わる。むしろティアンの方が変わるだろうよ」
「彼は、そのままで――」
「それはない。俺から見たってどんだけ鈍いんだあの野郎はって罵りたくなるからな。ダチだから助けてくれたんだって甘ったれた考えを叩きのめしたくってならないんだがよ?」
「……やるなよ?」
「やらねぇよ。あんたに取っとく」
 にやりとされてしまった。自分はそんなことはしない。断言したものの、少し疑問に思った。いつかそれを笑って言う日が来るのだろうかと。あるいはこれが変化の兆しということなのか、どうか。
「ま、あれだ。生きてるんだったらな、生きる努力は惜しむなってのがうちの一門の教えでな」
「努力――」
「いまのあんたは、肉体が生きてるだけだよな。自分の意志で、自分の人生を生きてるか? 闇の手に囚われたまんま、ずぶずぶと人生を駄目にしてるんじゃないのか」
 軽いニトロの口調。それが衝撃的なほどダモンを貫く。思わず仰け反れば、いつの間にか寝汗が冷えていたのだろう、服が冷たい。
「っと、悪い。風邪ひかせちまうな。ほら、着替え」
 どこからともなく現れた服にダモンは目を瞬く。知らずくすくすと笑っていた。薬湯といい、着替えといい。いとも易々と振るわれる魔法。いままで魔術師と知り合う機会がなかった理由を感じていた。結社が、魔術師を避けていた。あまりにも簡単に仕事の失敗に繋がる。
「傷、残っちまったな」
 ティアンによって切られた怪我はすでに治ってはいた。それでも傷跡がくっきりと浮かんでいる。それにニトロが顔を顰めていた。
「別に傷跡くらい。どうと言うことでもないさ」
「他にも色々ありそうだしな。――って言ってもな、痛そうだなって思っちまうんだぞ?」
「友達だから?」
「そう、友達だから」
 にこりと綺麗に微笑んだニトロだった。白金の髪に浅黒い肌。特徴的な容貌はそれだけで人を近づけがたい。本人も他者とかかわるのがさほど好きではないと言い放つ。それでも。
「洗濯、しとくか」
 自分で気づいたのだろうニトロが咳払いをして脱いだ服を手に取った。ダモンは笑いそうになり、が、慌てて服を奪い返そうとする。
「ん? あぁ、悪い。まだ武器入ってたか」
「な……。君は……」
「入ってんじゃないのか? 持ってんだろ、普通」
「どんな普通だ!?」
「そりゃ、戦う人間の? あんただったら服に暗器の一つや二つ、仕込んでんだろ?」
 そのとおりだった。袖口に仕込まれた糸のような針金。鋭利なそれは首くらいならば切られた本人が気づきもしないうちに切り飛ばす。イーサウまでの旅の途次、魔物に遭遇したときにも使った武器。さすがのニトロにも正体が見えてはいなかったのだといま知った。
「そんな普通はないだろう?」
「そうでもないぜ? 俺だって仕込みは色々してる。それを魔法でやってるか、物理的にやってるか、方法論の違いってやつだな」
「そういう問題か?」
「その程度の問題さ」
 首をかしげ、文句を言いつつダモンは暗器を取り出していた。人に見せるものではない。ましてニトロは結社の人間でもない。それでも不思議とまったく気にならなかった。
「ふうん、そうなってんのか。ちょい見せて。――俺が工夫したらあんた、怒るか?」
 暗器の改良を真っ当な人間がするな。ダモンは言いかけ、ニトロのあまりにも無垢な眼差しに言葉を失う。その程度のこと、言われた意味が少しだけわかった気がした。




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