眠られぬまま、寝返りばかりを打っていた。考えることが多すぎて、何を考えればいいのかわからない。そもそも、どう考えていいのかもわからない。 「俺は――」 なにをどうすればいいのか。なにをどうしたいのか。あのダモンの青ざめた頬。自分はどうなのだろう。痛みはまるでないこの体。 またも堂々巡りに陥りかけたティアンの耳に届く音。重たい何かが落ちたような、異音。飛び起きざまに枕元の剣を掴み駆け出す。 ついに侵入者が。狙われていることは漠然と知ってはいる。が、いまだ直接に襲われてはいない。否、ニトロが何らかの手段を取ったはず。監視をしている、彼は言った。訝しい、思ったのは一瞬。居間の床の上、動くこともできずにうずくまる影。 「ダモン――!」 答えはない。ただひたすらに我が身を抱えるダモン。またも痛みに襲われたか。またも死を願ったか。ティアンは言葉がない。 かける言葉がないのならば、差し伸べる手も。自分に殺されることを祈るダモンにこの手は必要なのか。 「お前は。俺は」 かすかに顔を上げたダモンの小さな微笑。じっとりと脂汗の滲んだ顔、食い破ったのだろう唇に浮く血の珠。それなのにダモンは微笑む。声など出せない、呼吸をするだけで痛い。けれど、微笑を。せめて、それだけは。 「そんな顔――。俺は、お前を」 どうしたいのだろう。いまならば、殺せる。容易く殺せる。それなのに、少しも痛くなかった。ダモンはこんなにも苦しんでいるのに。自分には微塵の痛みもない。はっとしたティアンは振り返る。気配すらさせずにニトロがいた。 「ダモン。俺だ」 痛みが酷いのだろう、視線が泳いでいた。虚ろになった眼差しのまま、ダモンは唇を喘がせる。返答だったのかもしれない。その首にニトロは黙って手を当てた。途端にダモンの体から力が抜ける。 「――貴様!」 殺したか、ダモンを。あっさりと、たったこれだけで。掴みかかってくるティアンを煩わしそうにニトロは避ける。 「このまんまにしとく方が体に悪いわ。気絶させただけだ」 「な――」 「それとも、痛がるこいつを眺めてたかったか?」 口許を歪めたニトロだった。闇の中、かすかな薄明かり。白金の髪が悪魔のよう。ティアンは拳を握りしめる。そんな彼にかまわずニトロは意識のないダモンを抱き上げていた。 「なにをするつもりだ!」 「今夜は俺が面倒見る」 「看病だったら――」 「こいつを殺したいって男に任せると本気で思うか? あんたはそれほど馬鹿か?」 鼻で笑われた。当然の言葉。ダモンの友人としてあるべき言葉。ティアンは立ち尽くす。ニトロの腕の中、ぐったりとした彼。白い喉が反り返っていた。 「……なんで、ダモンはこんなに。俺は。本当に俺は、呪われてるのか? ダモンだけ、酷い目にあってるんじゃないのか」 「師匠への侮辱と取るぞ?」 「そうじゃない! なんでだ、なんでダモンだけ!?」 ニトロに白状したも同然だった。いまだ一度も痛みに襲われていないのだと。それをどう感じたかニトロはわずかに眉を顰める。 「あんたはちゃんと呪われてるぜ」 「そんな簡単に言うな! なんで――」 「こっちは魔術師だ、見りゃわかるんだよ見りゃ」 「だったら解いてくれ。もういいだろ。俺は痛くないんだ。あってもなくても関係ない。ダモンだって」 「ご冗談。俺が痛い思いすんのはヤだね。ダモンならともかく、なんで俺があんたのために痛い思いしなきゃならねぇんだよ?」 「痛い……?」 「あれで師匠はキレてたからな。あの女はいい加減に死にたいだの生半可に殺したいだの言うやつが嫌いでな。本気で考えてもいないのに生死を語るなってかなり本気で怒ってたんだぞ」 知っていたか。問われてもティアンにはわからない。カレンは飄々と軽やかな魔術師、そんな印象しかない。怒られていた自覚も怒らせた覚えもない。ティアンの表情に悟ったかニトロが溜息をつく。 「本気の師匠がかけた呪いだ。俺なんかが手を出しゃ痛い目に合うのはこっちだ。わざわざあんたのために手傷を負ってやる気はねぇな」 それだけを言い捨てて出て行こうとするニトロ。背中をティアンは追えなかった。ダモンがいる。せめて、目覚めるまでは側についていたい。けれど、自分は。彼は。 「お前より、俺の方がダモンとの付き合いは長いんだ……」 「馬鹿か、あんた」 戸口でニトロが振り返る。暗がりに立つティアンの表情は窺えない。それでもニトロには見えている、そんな気がした。 「時間がなんだ? あんたはダモンを知ろうとしたのか? よく知りもしねぇくせに長いの深いのほざくんじゃねぇよ」 突きつけられた言葉。ティアンは知らず仰け反っていた。言い返したかった、本当は。ならばニトロはどうなのだと、言いたかった。しかし言えば言うだけ、自分がみじめになる。それに気づいてしまう。ニトロは、そうしている。ダモンを知ろうとしている。彼の友人であろうと、たぶん努力をしている。どうにもならない袋小路に入り込んだダモンに添おうと。 「……ティアン」 うつむいたままの彼に届く小さな呼び声。顔を上げればいまだ戸口に佇むニトロ。背中を見せたまま彼は呟く。 「知り合いの誼だ、助言をくれてやる。――あんたが本当に取り戻したいのは、なんだ? 身の安全か? 流れ剣士の生活か?」 それだけを言い、ニトロは去って行った。隣の家に帰っただけ。追いかけようと思えばほんの二三歩。それなのに動けない。ティアンはじっとニトロの消えて行った後ろ姿を見ていた。 「俺が、取り戻したいもの――」 なんだろう、はじめて思う。込み入ってしまった現状の中、一つだけ、どうしてもこれだけはと思うものが自分にはあるのか。たぶん、ある。 「でも、俺は」 何を言っているのか、よくわからなかった。戸惑いのまま己の手を見る。ダモンに触れられなかった手。易々と彼を抱き去ったニトロ。かっと頭に血が上った。怒りとそれに倍する赤い思い。その赤さが何に由来するのかだけが。朝までまんじりともせず、ティアンは考え続けていた。 自宅に戻ったニトロはそっと溜息をつく。起き出していた師の厳しい顔。無言で首を振った。それに溜息が返ってくる。 「我慢強いにもほどがあるぞ、そいつは」 「こっそり解いといてくれませんかね。体に悪すぎる」 「無駄だろ。解呪したの気づくだろうが」 それもそうか、とニトロは苦笑する。突然に痛みがなくなれば疑われないわけがない。どうやら相当に動揺していたらしい。そんな弟子に師がにやりと笑う。 「大事なお友達ができたな、倅よ」 「うっせぇですよ」 「でもなぁ、可愛い倅よ。そいつはほんとにお前の友達か? え?」 「……どういう意味ですか」 低い声なのは苛立ちのせい。早くダモンを寝かしてやりたい。せめて体は楽だろう。思うニトロに届く声。 「そりゃ簡単だ。お前はダモンにネイトを重ねてるだけじゃねぇのか? 殺されちまったダチの身代わりにしてぇだけじゃないのか」 「……師匠」 「なんだよ?」 「俺の手が空いてないのを喜んでください。つーか、こいつ置いてくるから待ってやがれクソ女! ふざけたことぬかしてんじゃねぇぞ!?」 ぱちぱち、と長閑な音がした。気勢をそがれてニトロは溜息をつく。カレンが胸の前、拍手をしていた。そういえば己の師はこういう女だったと思い出す。 「師匠相手にそんだけ啖呵が切れりゃ問題ねぇな。本人にもそれ、言ってやれよ。ちゃんと?」 なるほど、助言だったらしい。長い吐息と共に軽く眼差しだけで礼を言えばにやつく師の顔。鼻で笑ってニトロは寝室に去る。たぶんきっと師は見守ってくれるつもり。ダモンが意識を取り戻すまで痛みの方も制御してくれるつもりなのだろう。 「意外なところで、意外と優しいんだよな」 つん、と胸の奥をつつかれた。意外とはどういう意味だ、と叱られたらしい。勝手に接触してくるのはやめてほしい。内心の苦情が聞こえたかあっさりと師は心の中から引いて行く。 「ダモン」 カレンが制御してくれているせいだろう。あちらの家にいる時よりは顔色がよくなっている。それにはほっと息をつくニトロだった。 「あんた、我慢しすぎだ」 痛みも、他の様々なことも。自分とカレンと。デニスも。たぶんエイメとマーテルも。こぞってダモンに見せてきた。勝手気儘に言いたい放題の姿を。そうしてもいいのだと、せめて知らせたくて。口で言ってわかる彼ではない。 むしろ、言葉で理解できるような教育を彼は、闇の手の子供は、されていない。身代わりのようにして死んでいったネイトを思う。 「まったく。せめて歪んだ教育すんなら徹底して歪ませろよ」 友達を殺せなかったと幼い身で遺言を残して死んだネイト。ティアンが逃げる時間だけを稼ぎたかったと身を挺したダモン。そんなことを考える余地がないほど歪んでしまえば、彼らはこんなにも苦しまずに済んだ。 「こんなことを考える俺は、非道か?」 眠るダモンに呟きつつ、額の汗を拭ってやる。ニトロの、けれどそれが本心。歪みきれなかったネイトは死ぬしかなかった。こうして、何の因果かニトロはダモンを生かすことができた。 「だったら。せめて手助けは、させろよ。馬鹿」 まっさらになどなれるわけはない。人を殺すことに感慨はない、言い切ったダモン。それで真っ当な暮らしなどできないと言う彼。 「わかってねぇのな、あんた。――人間ってなぁ、そんなにきれいな生きもんじゃねぇぞ。あんたとおんなじくらい、みんな汚れてる。そういうもんだ」 それを理解できれば。否、させて見せる。あの日ネイトに生かされた自分だから。ネイトもまた、彼が変わることを望むだろう。 「それはそれとして、俺は、あんたにちゃんと生きててほしいんだってーの」 つん、と頬をつついた。苦笑するニトロの前、少し楽になったのだろうダモンが、それでも荒い呼吸のまま眠っていた。 |