夢のあとさき

 ダモンの店に入ったことはなかった。道を隔てた向かい側から見送るだけ。万が一待ち伏せをされていたらどうする、ニトロに渋い顔をされたけれど、ダモン本人が「自分は戦う術を持っているから」と彼をなだめた。そのせいかどうか。中々入る機会がない。
「……入りたいのか?」
 機会がないと思ったことでそれと知る。なるほど、自分は店の様子を見てみたいのだと。かつての夢と近いのだろうか、それは。曖昧なままに進んでいく毎日がたまらない。
 家に戻ればダモンはほとんど無言を貫く。必要最低限を下回るだろう、彼の言葉は。会話になどなりはしない。それが苛立たしいような、もどかしいような。
 もっと話したいことがあると思う。話せばわかり合えるなど馬鹿らしいことは言わない。そこまで能天気ではない。けれど無言を通されるとそれも違う、と思う。
 結局ティアンがダモンの店の前に立ったのは相当な日数を経てのこと。毎日送り迎えをしているのに、だ。
 小さな店だった。それは見ただけでわかっている。扉に、それでも硝子が嵌っているのはさすがイーサウというところか。贅沢なものだとティアンは思う。その窓から覗き込めば客で一杯だった。三人も入れば息苦しいほどの狭さだったけれど、流行ってはいるらしい。しばらく待とうとティアンは手持無沙汰に外に立つ。ふと目に留まったもの、手書きの看板。香油の名を書き連ねた、客引き用のそれ。「海の雫」や「夏の午後」、「薔薇園」に「春の曙」とティアンですら知っている有名な香りばかり。思わず首をかしげてしまう。
「……お前」
 こんな、どこにでもあるありきたりのものを商いたかったのか。モルナリアでの彼は唯一無二の逸品ばかりを調香していたというのに。看板の中、知らない名はただ一つ。まるで人名のような。
 からん、と音がしたのは扉につけられた鐘だろう。気持ちのいい音が客を見送る。ダモンの声もしていた。どうやら客はいなくなったと見定めてティアンは足を進めようとする。今更ながらためらった自分を叱咤しつつ。思わず漏れた舌打ちにダモンが驚いた顔をした。
「――すまない、もうそんな時間だったか。いま、片づけるから」
「いや。別に」
「すまない」
 もう一度言ってダモンは店の片づけをはじめる。こうして中に入ってみれば見た目より一層狭い店だった。それでもここはダモンの店か。彼が持ちたかった、自分の店。ティアンは黙って彼を待ちつつ見回していた。
 客が持ってきた小瓶に香油を詰めて売っているのだろう。他にも贈り物用になのか、綺麗な瓶も置いてある。そちらには見本半分、というところか、外に記してあった香油の名が一つずつ書いてあった。ティアンが手を伸ばしたのは、あの知らない名のもの。
「ティアン?」
「あ、いや。すまん。これは、知らないなと思って」
「……あぁ」
 何を手にしているのか気づいたのだろうダモンの淡い笑み。かつて温室で見知っていたものより存在感が薄くてたまらない。
「……僕が、ここでやっていこうかと、まだ思ってたころ。ニトロに頼んで調香させてもらったんだ」
「ニトロに?」
「――彼が亡くした友達の印象を聞いて、そのとおりのものを」
 そっと香りを吸い込めば清々しさが一瞬で儚く消えて行く、まるで思い出のかそけさに似て。
「名前も、その友達のものをもらった。せっかくだからここで売れって言ってくれたのも、ニトロだった」
 ネイト。そう名付けられたダモンの調香。ニトロが亡くした幼友達。これが、件の人物か、とティアンには得心が行く。会ったこともないニトロの友人を鮮明に思い描けるほど、ダモンの腕は確かだった。
「――好きな調香、してるのか?」
 ティアンは呟くようそう言う。ニトロの名を聞いていたくなかったのかもしれない。ダモンに多大な影響を与えたらしい魔術師。元々彼のことはモルナリアのころから好きではない、内心に呟く。
「ここにあるのは、この、ネイトか? それ以外は、どこにでもある、よく聞くやつばっかりだろ」
「――そう、だな」
「お前の腕がいいのは、知ってるんだが」
「――仕事の必要で習い覚えたものだから」
 暗殺者として貴族の屋敷に入り込むために。ダモンは微笑む。ティアンとしても返す言葉がなかった。ただ一言以外は。
「それでも、調香は好きだったんじゃないのか」
 せめてこれで食べて行きたいと思う程度には。ティアンの指摘にダモンは黙る。これほど会話が続いたこと自体が珍しかった。
「僕は、生きていていいのかすら、迷ってる。僕がいまここにいるのは――」
 言葉を切ったダモンが青い顔のまま微笑む。ぎゅっと握られた拳。何か言いたくないことでもあるかのように。
 ここしばらく見る顔ではあった。家でも、送り迎えの途中でも。はじめは体の調子でもよくないのかと思っていたのだがそうでもないらしい。握りしめられ白いダモンの拳。いまにして悟った。
「ダモン、お前」
「遅くなった。待たせてしまってすまない。帰ろう」
「ダモン!」
 なにもなかったかのよう微笑んだダモン。まだ青い顔。先に立って店を出て行こうとする彼の背にティアンは何を言うこともできない。
 黙って家路をたどった。ダモンも何も言わない。ティアンは言えない。気がついてしまったからには、なにを言えよう。
 ダモンは、痛みに耐えている。あのカレンの呪いによってもたらされる痛みに。殺されることを望めば激痛が襲う、彼女はそう言った。ダモンはすでに何度となくそれに耐えている。
 自分は。ティアンは思う。一度も。いまだ一度も。ダモンを殺すことを望めば襲われるはずの痛み。一度も。
 本心がどこにあるのかわからなかった。彼を殺したい、憂さ晴らしになるだろう。自分の人生は終わったも同然。二つの伯爵家に追われているだろうこんな自分はどこにも行けない。せめてダモンを。
 そう思っていたのではないか。いまも思ってはいるか。ではなぜ、一度も。思わず腰の剣に手をやる。試したわけではない、気づいてから身構えただけ。それでも痛みはどこにもなかった。
「ダモン」
「……なんだ」
「いや、なんでもない」
 そうか、とうなずいた。それだけで言葉は止まる。続けたいはずの言葉が互いに続かない。そう思うのはティアンだけなのだろうか。
 ダモンははっきりと望むのだろう、殺されることを。だから何度となく耐えている。信じがたかった。そこまでなぜ。
「今更だけど、聞いてもいいか」
 ティアンの声音にうなずく気配。少し離れた隣を歩くダモンの気配。あの日、森の散策ではもっと楽しそうだった彼を思い出す。
「――なんで俺を、助けた」
「契約が切れたからだと言ったはず。そもそも嵌めたのは僕だ」
「だからな、ダモン。なんで、契約が切れたからって助けてくれたんだ」
 黙った。ダモンはその言葉に沈黙を貫く。小さな溜息と共にやるせなさまで吐き出せたらいいのに。わだかまりだけが増えて行く。
「好きな調香、してるのかって君は聞いたな」
 まるで答えなかった詫びとでも言うよう。そんなことより答えが欲しいとはティアンは思わなかった。ダモンの好きな調香の話題。ほんの少しでもあのころの気持ちになりたい。
「ネイト以外では一つだけ、調香したよ」
「どんな?」
「僕にとっては、唯一の大事な香りになると思う。いや、なってる。――モルナリアのころから、いろいろ試してた」
 お館様のために、そう言いつつ四苦八苦していたダモン。息抜きに自分の好きなものを作るときは本当に楽しそうだった。あれが偽りであったのはもうわかっている。それでも感じた思いまでは嘘ではない、そう信じたいのかもしれない、ティアンは。
「こちらに来て、ニトロに香料を一つ、聞いたんだ。僕が知らないものがまだあった。それが少し、嬉しかった。それを試してみて、これが作りたかったものだと思った」
 両手を見ているダモンだった。作りたいと思うだけの心が彼にはある。ティアンはほっとする自分に首をかしげる。殺したいのではないのかと。今更ながら思う。どうしてそこまで思うのかと。ダモンを殺してどうなる話でもないだろうに。それでも八つ当たりがしたいか、問われればたぶん今ならば否と答える。この瞬間だけならば。
「今度、店に並べてみるのか?」
 黙って首を振ったダモンだった。揺れる髪ばかり、見ているような気がした。イーサウで彼に再会してからずっと。あの宝石のような緑の目は輝きを失うばかり。真っ直ぐに見ていることのない自分だとティアンは知らない。
「あれは、誰に見せるものでもない。そう思う」
「売るためじゃない?」
「はじめから、売る気はなかったかな。自分で、自分のためだけに。二度と、手に入らないものを手にしてみたかった。そんな香りだから」
「切ないことを言うもんだ」
 上っ面な言葉。ダモンが小さく笑ったのが視界の端に。ティアンは内心で舌打ちをする。何を言いたかったのだろう、自分は。
「ニトロにだけは、試してもらった。彼は言ったよ、こういうものを作れるんだったら殺されたいなんて望むな、切なすぎるって。少し、おかしいな」
 君と同じことを彼は言う。そう言ったダモンの言葉をティアンは聞いていたのかどうか。頭に血が上って周囲が一瞬とはいえ見えなくなったかのよう。
「お前の友達は俺だと思ってた」
「――いまは違う。僕は」
 息を飲んだダモン。痛みをまたも耐えたのだと。額に浮かんだ脂汗がその強さを語る。それでもしっかりと歩いている彼が信じられなかった。
 足取りの確かさに、ダモンの生い立ちを思う。これが、暗殺者として育てられたということなのかと。痛みには強い、そう言っていた意味がようやくわかる。わかっても少しも嬉しくはなかった。
「刺し違えたら、お前は楽になるのかな」
「――ティアン、なんてことを」
「別に。そう思っただけだ」
 ただ考えを弄んだだけ。真っ青になっているダモンだというのに、ティアンには一片の痛みもなく。どれほど切実にダモンが望んでいるのか、まざまざと知ってしまっただけだった。




モドル   ススム   トップへ